ささめやゆき さん。
挿絵はよく描かれているけれど、文ともに ささめやさんの絵本となると、その数は
めっきり減ってしまいます。
『マルスさんとマダムマルス』
ささめやゆき 作
だから、この本はとても貴重な1冊です。しかも、ここで描かれているのは、ささめやさんが、
はる なつ あき ふゆ を、実際に過したノルマンディ半島の先端に位置する海辺の小さな村‥
エッケールドルヴィル。パリ、ニューヨークと暮らしてきた後に、ひとりの知り合いもいない
その村にやってきたのだそうです。
あとがきにはこう記されています。
こんな地図にものっていない村で、誰も怨まず誰にも憎まれず、心はすみずみまで
澄んで、ずっと絵を描いてくらしてきたのだ。もし人にその核となる時間と空間が
あるとするならば、ボクはまちがいなくこの村をさすだろう。
私は、今までに一度も、ひとりで暮らしたことがありません。
自宅から高校へ通い、自宅から大学へ通い、自宅から通勤して‥そして結婚してしまいましたので。
実際的な意味での、孤独も寂しさも経験してこなかったのだろうと、思っています。
でも、この本を開いていると、なにもない海辺のこの村に自分が居て、すぐそばで聞いて
いたかのように、大家のマルスさんの声を感じます。
「サリュー、絵はうまくいってるかい」
そうなると、サリューの淋しさややりきれなさは、私の内なるものでもあることがわかってきます。
どこに居ようと、誰かと暮らしていようがいまいが、コドクはいつもひっそり「内側」に潜んでいますので。
しかし、コドクが悪者であるわけでもありません。純粋な喜びがあるように、純粋な孤独も
あり、そのどちらも欠くことができない大切なものです、きっと。何にとって欠くことが
できないかといえば、サリューにとっては、もちろん絵を描くこと。
では、わたしにとっては‥?
答えは返らぬまま、また最初から本をめくります。
日めくりカレンダーをめくってもめくっても
同じような一日しかやってきません。
でも本当は今日は昨日ではないし、
明日は今日とはちがう一日なのです。
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rucaさんと同じ様にこれまで一度も一人で暮らした事の無い私は、本当の孤独…「純粋な孤独」も含めて
未だ知らずに生きてきたかも知れません。
>心はすみずみまで澄んで---もし人にその核となる時間と空間があるとするならば、ボクはまちがいなくこの村をさすだろう。
そして、こんな風に確固たる心の目で見つめる場所とは?
どこだろう?なんだろう?
たくさんの問いかけがどんどん重なっていきます。
読んでみたいです。
きれいな月が出ていますね。
この本にも、扉と裏表紙に三日月が描かれていました。
どこに住んでいても、同じひとつの月をみんな見ている
ということなのかなあと、思いました。
先日の『ブリキの音符』はとても大きな絵本だったけど、
この本は、反対にとても小型です。だから余計にひっそりと
海辺の村で暮らしていたことが、伝わってくるのかも
しれません。
「核となる時間と空間:」
私も、私にとってのそれを考えてみましたが、あのときの
あそこ、ということはなかなか難しいです。