写真で綴る想い出

Contar de los recuerdos
del viaje con fotografias

パソコンの中から(立山へ)

2016年03月30日 | 日記
富山で一泊し、電車とバス等を乗り継いで立山、黒部ダム、扇沢へと抜ける訳ですが、朝一番で搬送業者に車を託し、富山駅から電車で立山駅に向かいました。其処から長野県側の扇沢に抜けるには、美女平までケーブルカー、次はバスで室堂ターミナルに行き、立山トンネルをトロリーバスで大観峰へ。そしてロープウェイで黒部平、再びケーブルカーで黒部湖に出るとダムの上を歩いて、黒部ダムへ、今度は関電トンネルをトロリーバスに乗ると扇沢のターミナルに出ます。此処で車を引き取る訳です。車は富山から糸魚川を経て、此処まで搬送して呉れるのですが、立山を訪れには便利なサービスです。ガイドブックには通り抜けるには7時間程度かかるとあったかと記憶しますが、この日は大町で一泊する予定だったので、時間的には余裕がありました。

美女平から弥陀ヶ原への途中に落差日本一(350m)の称名滝がありますが、滝に行くにはバス路線から分かれて行かねばなりません。バス路線(一般車通行禁止)にも大観台と言う場所がありますが、バスは一時停止して呉れただけで、窓から撮った写真です。



記憶が定かではありませんが、バスは「弥陀ヶ原」で一時停車し、付近を散策した際に撮ったものと思われます。


特にこの湿原は弥陀ヶ原の「餓鬼田」と呼ばれていた気がします。




天狗平付近の「ソーメン滝」でしょう。


ガイドブックを調べたら、ソーメン滝の落差は130mあるとの記述が見つかりました。


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パソコンの中から(白川郷、五箇山)

2016年03月28日 | 日記
普段は義弟に運転を任せるのですが、この旅は自分の車で出掛けたのでハンドルを握っていました。義弟は感が良く、殆ど、カーナビを利用しませんが、小生は目的地を設定して走るのが普通です。東海北陸自動車道が開通して居なかった当時、白川郷への最短距離は高山市から国道471号線を宮川沿いに北上し、落合で360号線にぶつかった処で左折するルートですが、走りだして間もなくカーナビは左折して戻れとガイドするのです。事前に道路地図で確認してあったので、このカーナビはおかしいと無視して走りました。小一時間ほど走ったのですが、その間もカーナビは「戻れ、戻れ」と言うのです。ガソリン・スタンドを見つけたので給油した時に、「白川郷に行くには、この道で良いですよね」と訊ねると、「昨年の台風で氾濫し、このガソリン・スタンドも水に浸かり、この先の橋が落ちて通行不能になった侭です」結論から言えば、カーナビが正しかったのです。

此処で義弟が運転を代ろうと言って呉れたので、任せました。南下すると「飛騨清見」に高速道路建設事務所があったので、飛び込んで道路事情を聞き、高速を走って「荘川」まで南下し、其処から「白川街道」を北上、御母衣ダムを経て「白川郷」に行けることが判りました。
確か、高速は開通前で無料でした。「御母衣ダム」はロックフィルダムで、コンクリートのダムではなく、岩石や土砂を積み上げて建設する型で写真を撮りたかったのですが、素通りでした。


御母衣ダムの写真は走行中に車の中から撮ったこの写真だけでした。


白川郷


白川郷城山展望台から









茅葺屋根の張替えをしていました。

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パソコンの中から(高山)

2016年03月26日 | 日記
2005年はCanon 20Dを入手して間もない時期で、この夏は何処かに出掛けて撮りたいと思っていました。当時、妻は未だ写真を始めておらず、誘った義弟夫妻も写真撮影には全く興味がないカップルでした。
新穂高ロープウェイで昇った後、高山で一泊、翌朝、白川郷、五箇山を経て富山泊、車を預けて立山から長野県側に降りると言うプランで出掛けました。余り天気は良くない日でしたが、小生がハンドルを握り、松本IC、平湯を経て、新穂高ロープウェイ乗り場に着いた頃はどんよりと曇っており、上を見ると霧の中と言った状況でした。切符売り場で、「西穂高は見えますかね?」と訊ねると「今日は昇っても、何も見えませんよ」と誠に正直な返事。仕方なく、平湯から高山に向かう事にしました。

高山に向かう前に立ち寄ったのが「平湯大滝」でした。


飛騨国分寺には創建当時は七重塔(854年建立)があり、その礎石だけが残っていますが、現存するのは1820年に建立された三重塔でした。


陣屋前朝市を覗いて出発しました。

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パソコンの中から(奥さん同伴で・・・)

2016年03月24日 | 日記
翌2005年に「仕事で名古屋に行く序に、東京にも立ち寄りたい。今回は妻を連れて香港、韓国、その後、関西を観光してから東京に行く」とのメールがありました。奥さんは陶器制作に熱中しており、チリでは妻も一緒に作っていました。東京観光の他、益子に行きたいと言うのが希望でした。「それなら我が家に泊まった方が便利だ。我が家から車で益子、日光と廻ることにしよう」と提案し、東京駅に出迎えました。
翌朝、益子にある浜田庄司記念館に車を走らせました。車の中で浜田庄司に就いて説明すると「ユウジ、それは違う」と付け焼刃は剥がれてしまったので、後は聞き役に徹しました。到着してみると翌日からの展示会準備の為、閉館でした。「地球の裏から、此処を見る為に来たのに・・・」と泣きだす始末で、思案した結果、「判った、明日、ゆっくり日光を案内する積りでいたが、直ぐに日光に行こう。多少、省略せねばならない部分もあるが、明日、もう一度、此処に戻って来よう」と言うと大喜びでハグ&キスでした。

彼等が乗って来た新幹線


記念館には鎖がかかって入れません



日光東照宮を見た後、多少時間があったので、ホテルの近くの「裏見の滝」へ


夕食後の記念写真


翌朝、「良く眠れたか?」と訊くと「最初は何か、庭で定期的に、コットン、コットンと音がして眠れなかった。仕方なく起きて庭に出て見ると、正体はこれでタオルを挟んだら音が止まった」と指さす先を見たら、「ししおどし」でした。タオルが未だ残っていますね。


益子に戻る途中、「華厳の滝」だけは見せて置きました。


浜田庄司記念館


登り窯


浜田庄司が使っていた「登り窯」が右手にあります。


海外から来た友人達を案内する時の定番のルートである皇居東御苑にて


銀座松屋で陶器展をやっていました。作品を手に持つのでヒヤヒヤしましたが、作者が認めていたので、
まあ、いいか。

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パソコンの中から(ゴルフをしますか?)

2016年03月22日 | 日記
着任直後の社長交替パーティで、彼からの「ゴルフをしますか?」の一言で、10年弱のチリでの個人生活が豊かで楽しいものになりました。ペルー駐在中の大病で16年間ゴルフを止めていましたが、「再開しようかと思っている」と答えると「それなら週末、私のクラブにご招待しましょう」と続いたのです。多分、外交的辞令だろうと思っていましたが、数日後に電話があり、「部下を連れて行きますから、そちらも二人で来てください」との事で、出掛けたのが住宅街にあるSport Francesと言うクラブでした。彼が連れて来たのは、そのクラブのキャプテンだったA.G氏で、確かハンディは3か4でした。勿論、我々がボロ負けでした。プレー後、バーで話をして居た時に、「良いクラブですね」「入会したいですか?」「こんなクラブに入れたら申し分ないですね」「それなら申し込み用紙を送りましょう」と送られて来た申し込み用紙の2名の推薦人欄には理事長とキャプテンの署名がありました。結果、トントン拍子に入会出来てしまいました。外国人枠が32名分あり、其処にはめ込んで呉れた訳です。そのお蔭で、駐在している外国人を含め、クラブのメンバーとも友達になれた訳です。彼は中堅銀行の頭取でしたが、入会して判ったのは、殆どゴルフをしないことでした。尚、A.G氏とは親しくなり、今もFacebookでやりとりしています。

彼は仕事人間で銀行を辞めてから、果物を輸出する会社を設立し、2004年に来日した際に、鎌倉、浅草等に案内しました。






「絵馬」の説明をすると、「それなら書く」と何か書きだしました。その願いは「YujiとReikoがチリに来ます様に」でした。



日本食が大好きです。






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パソコンの中から(ヴァンクーバー)

2016年03月20日 | 日記
マイアミでの会合終了後、ヴァンクーバーに立ち寄ることにしました。姪がフォア・シーズンズ・ホテルの営業のトップで、是非、泊まって行って欲しいと言われたからでした。初めてヴァンクーバーに出張したのは、もう40年前になりますが、ゴールデン・ウィークを使っての出張で酷い目に遭いました。ヴァンクーバーでの事業は上手く行かず、何度か通いました。その後、アルゼンチンに赴任する際に妻と一泊したのですが、身体を休めるだけで観光させてやれませんでした。それで姪の誘いを受けた次第でした。高級ホテルですから、普通の部屋で良いと言ってあったのですが、通されたのはスイーツでした。家族割引があるとかで、ダブル・ルームの代金しか取らないのです。レストランの代金も「私が払えば半額だから」と言うのを「それでは叔父の面目がたたない」と払いましたが。

週末にノース・ヴァンクーバーにあるキャピラの渓谷に連れて行って貰った時の写真をご覧下さい。キャピラノ吊り橋はノース・ヴァンクーバー地区のキャピラノ川に架かる吊り橋で、橋は長さ140メートル 、川からの高さは70メートル だそうです。




















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パソコンの中から(マイアミ・クルーズ)

2016年03月18日 | 日記
毎日、ゴルフを9時頃からプレーし、午後1時頃に終了。軽いランチを食べ、部屋でシャワーを浴び、3時頃から、何処かに出掛けて観光すると言うのが大雑把なスケジュールでした。この日はビスケー湾のクルーズに出ました。やがて船は別荘地を廻ったのですが、この別荘の所有者は誰だと次から次へと、映画俳優や歌手の名前をあげていました。また植えられている椰子の木々はアフリカだったから持って来たものだと言った説明があった様な記憶があります。資産レベルが違いますね。






















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パソコンの中から(ドラール・リゾート)

2016年03月16日 | 日記
同時多発テロ発生後、チリで親しくなった友人夫妻との集まりをアメリカでするのは避けていました。2004年になってもう大丈夫だろうと、マイアミ空港からタクシーで15分程のDoral Golf Resort & Spaに集まったのですが、未だ後遺症は残っていました。妻が未だナイヤガラの滝を見て無かったので、トロントに飛び、其処からマイアミに行く事にしました。トロント空港の仕組みは少し変わっていて、アメリカに向かう乗客はトロント空港でアメリカの入国手続きを済ませて飛行機に乗り込みます。この時、意地の悪い入国管理官にぶつかり入国カードの宿泊地欄に、Doral Golf Resort, Miami と書いて出したら、住所を書けと言われました。「空港からタクシーで15分、誰でも知って居る場所だから住所は覚えて居ない」と応えると「住所を記載しないなら認めない」「SheratonやHiltonホテルに泊まる時でも住所など覚えて居ないのが普通じゃないか」「それなら予約確認書を見せろ」「友人がまとめて予約したので、持って居ない」「それじゃ駄目だ」と認めないのです。仕方なく妻をそこに残し、搭乗手続きをしたエヤラインのカウンターに戻り、事情を説明し、ドラルに電話して住所を聞きだしてもらいました。ですから、今でも4400 NW 87th Ave, Miami, Florida 33178, USA と記憶に残っています。

最近行われたキャデラック選手権の映像を見るとドラルそっくりでしたが、TVではトランプ・ナショナルと言っていました。調べて見るといつの間にかトランプ氏がドラルを買収し、トランプ・ナショナル・ドラールと改称しているのが判りました。

ドラールには、ゴールデン、レッド、シルバーとブルー・モンスターの4つのコースがあります。ブルー・モンスターはPGAトーナメントが行われる一番難しいコースで、プレーするには追加料金が必要です。仲間には何度かブルー・モンスターを廻って見ようと提案したのですが、「追加料金を払って悪いスコアで不愉快になる事は無い」と反対されていました。2004年の時は、多分、これが最後だろうからと執拗に主張し説得、初めてプレーすることが出来ました。1992, 1996年に訪れた、未だ良く飛んでいたころに廻って見たかったコースです。








クラブハウスに入った処に歴代のチャンピオンの肖像画が飾ってあります。残念ながら、日本人は未だ勝っていません。今年は松山君も成績は悪かったし、来年は是非勝って貰いたいものです。


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パソコンの中から(世界史が・・・)

2016年03月14日 | 日記
中南米の田舎廻りの旅と異なり、パリ観光は高校時代に学んだ世界史に出て来る事象や建造物が次から次へと出て来るのにワクワクしました。今、振り返ってみると随分とパリを歩き廻りました。ホテルを出て、コンコルド広場に向かったのですが、リヴォリ通りを歩いていて見つけたのが「ホテル・ムーリス」でした。第二次大戦の時、パリを占領したナチが司令部を置いたのが、このホテルで、名著「パリは燃えているか」に何度も出て来ます。お上りさん宜しくコーヒーを飲みに入りました。コンコルド広場はフランス革命の際に処刑台が設置された場所ですね。シャンゼリゼ―大通りは、コンコルド広場から始まりますが、凱旋門まで歩きました。凱旋門で折り返し、セーヌ川沿いに歩き、シテ島まで戻り「コンシェルジュリー」を見学しました。最後に廻ったのが、ノートル・ダム寺院でした。2002年頃はメモリーが未だ高価だったのか、写真は一か所一枚でした。


ホテル・ムーリスのカフェで撮った記念写真です。コーヒーを飲んで居ると大型犬を連れた人が入って来ましたが、一緒に宿泊出来るのは、日本とは違うなと思いました。


オベリスクの処に、ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑を記したプレートがありました。


凱旋門ではらせん状の階段を登りました。上からルーブル美術館方面を眺めた景色です。


コンシェルジュリーからコンコルド広場へ送られ処刑された人は2,600人を超えるそうですから、此処に幽閉された人達は生きた心地は無かったでしょうね。


コンシェルジュリーにはマリ-・アントワネットの独房が再現されたものがありました。


出掛ける前に建築家の友人に「フライイング・バットレスを良く見て置け」と言われたのを思いだしました。ゴシック建築で、外壁を支える斜め上りの構築物である飛梁をフライイング・バットレスというのだそうです。

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パソコンの中から(ヴェルサイユ宮殿)

2016年03月12日 | 日記
海外旅行をする場合、自由に動きたいので、パック旅行に参加することはありませんが、現地に到着してからは日帰りのバス観光に参加することは侭ありました。パリに行った時も、観光バスでヴェルサイユ宮殿に行きました。人気のスポットですから、CITYRAMAは何台ものバスを出し、言語で区分けしていました。スペイン語が一番聞き取りやすいので、そのバスに乗ったのですが、スペイン語圏の連中は規律に欠ける点が問題です。それと観光バスの場合、どうしても大勢になるので、写真の様なラッシュアワーと言った感じになってしまいます。ヴェルサイユ宮殿の説明を聞いて驚いたのは、火災を怖れて暖房設備がなかったという点でした。二枚目の写真の様にシェーンブルン宮殿では部屋の隅に陶器製のストーブがあり、部屋の裏側から燃やしていたそうです。然し、ヴェルサイユ宮殿の庭は見事でゆっくり散策したかったのですが、バスツアーでは無理でした。



シェーンブルン宮殿では右手の奥に見られる様なストーブがありました。





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パソコンの中から(パリ)

2016年03月10日 | 日記
パリに初めて出張したのは、1977年でした。イギリス・フォードから乗用車に搭載する小型ディーゼルエンジンを欲しいと言われ、ロンドンを訪れた序に、フランス・クライスラーを訪れたのでした。フランス会社の機械部に約束を取りつけて貰いたいと依頼して出掛けたのですが、事務所出て見ると約束の取れたのは夕刻だと判り、それまでの間、事務所で待っていても仕方がないので、金色のジャンヌ・ダルク像のあるピラミッド広場から観光バスに乗りました。クライスラーに着いたのは、退社時刻で、工員たちが工場から続々と出て来たのですが、ほぼ全員がアルジェ辺りからの移民でした。安い賃金で移民労働力に頼った結果が、今日のフランスの問題になっている訳です。
妻をパリに連れて行ってなかったので、南仏に友人夫妻と集まった機会に、数日間、パリ観光をすることにし、友人に頼んで予約して貰ったのが、ピラミッド広場にあるホテル・レジーナでした。出張費用では泊まれない立派なホテルでした。

部屋の窓からエッフェル塔が見えました。


窓の下にはジャンヌ・ダルク像が・・・


ピラミッド広場付近は観光バスCITYRAMAの出発地点です。


反対側を見るとルーブル博物館が・・・このホテルは観光には便利な場所にあります。


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パソコンの中から(写真を整理して居て)

2016年03月08日 | 日記
同じ中学校では無かったのですが、中学時代にテニス試合で親しくなった友人がいました。その後同じ高校に進学し、彼は東大に入り馬術部の主将を務めて、思いがけず同じ会社に入り、社長室に居た彼が馬術の関係で東京オリンピックでは役員として仕事から抜け出て、公務として馬事公苑に行っていました。その後、営業の仕事をしたいと自動車部に転部して来て暫くの間、机を並べて仕事しました。実家の稼業を継ぐために比較的早く退社したのですが、その後も連絡は取り合って、引退後は合う機会も増えていました。その彼から「膵臓ガンになった」との連絡があり、渋谷の小料理店で会った時に撮った10年ほど前の写真です。渋谷駅には会食の半年ほど前に飾られた岡本太郎の「明日の神話」がありました。同じ高校で学んだ友人を交え4名で会食したこの店も今は無く、彼も、もう居ないのは寂しい限りです。











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パソコンの中から(ところ変われば)

2016年03月06日 | 日記
その国々で風習が異なる訳ですが、駐在してチリ独特の習慣があるなと判ったことに一つに、「誕生日の前にお祝いをしてはいけない」ということがあります。或る年、秘書の誕生日が土曜日だったので、その前日の金曜日にお祝いを言って置こうと、ハグ&キスする体勢で近寄った時です。それを察知した秘書は、何やら叫ぶと逃げ出しました。呆気にとられて、戻って来るのを待つと曰く「誕生日の前にお祝いを言われると不幸を招くと嫌われている」のだそうです。

もう一つは、普通手紙などに署名する場合、文末にするのが普通だと思うのですが、チリでは、公式な文書になればなるほど、文頭は発信人の氏名から始まり、その上に署名するのです。どの様な書簡だったか忘れましたが、部下が準備して来た書簡に署名する場所がないので、呼びつけて訊ねると、「文頭に貴方の氏名がありますね。そこに署名するのが公式文書の形です」と言われました。その見本としてチリ大統領からの返書を貼り付けて置きます。

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パソコンの中から(富士霊園)

2016年03月04日 | 日記
友人の中には、フィルムで撮影した写真をキチンとデジタル化し、DVDに焼いて送ってくれた方もいますが、無精者ですから、海外駐在中に撮ったフィルムはネガアルバムに入れたまま放置されています。帰国してみると小生の実家も妻の実家も「富士霊園」に墓地を求めていました。何度か墓参に行ったものの、富士山は全く見えず、何が「富士霊園」かと、事務員に「何処に富士山が見えるのですか?」と訊ねたこともありました。この写真は2001年12月に海外の友人に送るクリスマス・カード作成の為に「富士霊園」に行き、初めて富士山が見えた時に撮った、何の変哲もない記念写真です。チリから連れ帰った二匹の犬も、友人達は良く知っているので、一緒に記念写真に収めようとしたのですが、この写真を撮るまで一体何枚撮ったでしょうか。












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ボディ・キャップ・レンズ

2016年03月02日 | 日記
新宿に所用で出た際に、先日、入手したボディ・キャップ・レンズを試し撮りしてみました。撮影の為に出掛けた訳で無かったので、寄り道をする暇が無く、所用で歩いた処からの試し撮りです。案外面白いので、次回はゆっくりと撮って見たいと思っています。







この写真だけは別の機会に通常のレンズで撮ったものです。


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