さくら丸は神戸の第四突堤に停泊していた。その頃は現在あるような立派な上屋はなく、岸壁からタラップを上って乗船した。恩師、先輩、同僚、友人、家族の見送りを受けて旅だったものの直接米国に向かうのではなく、一旦横浜に寄港するのである。私は船が日本を離れるまでに投稿予定の英文原稿を仕上げるべく、オリンピアのポータブル・タイプライターを船室に持ち込み、時間と戦っていた。横浜には2泊ぐらいしただろうか、その間、妻の両親が別途汽車で横浜までやってきて、妻子を街に連れ出してくれたので仕事が捗り、なんとか原稿を送り出すことが出来た。
横浜を出航したさくら丸が向かう次の寄港地はハワイのホノルルである。日本領海を離れると船内のバーではその頃高価だったアルコール飲料が無税で供されるので、喜び勇んで出向いた人も多かったが、下戸の私には縁のないことであった。食事は朝、昼、夕と食堂で供される。航海中テーブルはあらかじめ決められており、私たち四人家族のホストを務めてくださったのは中島機関長であった。温厚な方で、海のものとも山のものとも分からぬアメリカ行きに緊張しているわれわれ家族を暖かくもてなしてくださったことが思い出に残る。写真はその時の一光景である。
朝食のフルーツに夏みかんのようなものが半分に切って出されたことがある。それが今朝も口にしたグレープフルーツとの初めての出会いであった。そのグレープフルーツは非常に酸っぱくて一口入れただけで、口がひん曲がりそうになった。教えられるままにグラニュー糖をたっぷりまぶしてようやく口にすることが出来、この習慣はアメリカに滞在中続いた。現在食卓に上がる甘いグレープフルーツを味わうとまさに隔世の感がある。しかし息子たちは未だに砂糖を振りかけるのである。
航海中に娘の2歳の誕生日を迎え、大きなバースデーケーキで祝っていただいた。外国人で既に誕生日を同じように祝われた方がいたので、そのときの真似をしてまわりのテーブルにケーキを小分けして配ったりした。なにやかや船旅のマナーを見よう見まねで習得していったのも今となると懐かしく思い出される。夕食ともなると必ずネクタイ着用でそれなりに気が引き締まった。幼い息子と娘であったが、日頃の躾が効を奏したというか、物怖じすることなく椅子に腰を下ろして一人で食べるのに目を見張ったことであった。
食事の間には乗客は思い思いに時間を潰していた。デッキをジョギングしたり歩き回ったりするほかに卓球や輪投げなどがあった。輪投げで少し手元が狂うと投げ輪が太平洋に飛び込んでしまう。私もその一人であったが、そうそうに投げ輪が姿を消してしまった。キャンバス地で出来た即席プールに水が張られ水遊びをすることもあったし、デッキチェアーに身を委ね大海原を飽かず眺めるのも一興であった。
船が主催するビンゴ大会では一等賞を獲得したし、家ではやったことのなかった盆踊り大会にも加わって、見よう見まねの手振り足振りを楽しんだりした。映画の上映もあり船客を退屈させない為の盛り沢山な催しがあった。
ある日、下のエコノミー・クラスのデッキで演芸大会があるというので覗きに降りた。南米移民の船客が大部を占めていたのだろうか、今でいうコンテナーを積み重ねたように見える天幕地で仕切られた蚕棚ベッドが一面に設けられていた。舞台がそのデッキの一郭に作られてそこで演芸が披露されたのである。
はっきりと記憶に残っている出し物の一つが寸劇で、上の船室ではシャワーに真水が出てくるのにエコノミーでは海水で塩辛い、とか云った内容のものだった。かねてから船では等級での区別がはっきりしているとは云われていたが、それは戦前のことのように漠然と聞き流していた。ところがプロムナード・デッキは一等船客用とか、それなりに差別があるので『戦後の民主主義教育』を受けた身には少しこたえていたのである。まあ船室に違いがあるのは料金の違いと割り切ればそれまでだったが、真水に塩水の対比は少しこたえた。
もう一つ記憶に残っているのがフラダンスで、結構年配の女性がハワイアン・ダンスの衣装を身にまとい極めて優雅にそして素人離れした踊りを披露したのである。達者な人だなと感心していたら近くの話し声が耳に入ってきた。あのダンサーは澤田美喜さんだというのである。あのエリザベス・サンダース。ホームの?と確かめたら間違いなくそのご本人であった。
澤田美喜さんは戦前の大財閥の一つ、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎氏の孫として生まれて、後に国連大使となった外交官の澤田廉三氏と結婚、戦前の華やかな外交官生活を経験された方である。戦後、占領軍兵士と日本女性の間に生まれそして捨てられた混血孤児を育てるべく、私財を擲ってエリザベス・サンダースホームと名付けられた養育施設を創立したのである。世間の無理解と偏見と闘いながらも2000人といわれる混血孤児を育て上げられたあの澤田美喜さんが、ブラジルに移住する孤児たちと一緒に蚕棚ベッドのあるエコノミー船室で寝食を共にされていたのである。
かれこれ40年経った現在でも、彼女のそのときの舞姿を思い描くと感動を覚える。戦後の混乱に左右されることなく、戦前のよきエリートのノブレス・オブリージを自らの行動で示された澤田美喜という日本女性の気高さに心が打たれるからである。
エコノミー船室で過ごしたのは僅かな時間であったが、私ごときにわか一等船客が小さく見窄らしく思えてきたひとときであった。。