久しぶりに須磨寺を訪れた。一弦琴「須磨」の曲が宝物殿から流れてくる。なかなか風情があっていい。唄い方が私の習ったのと少し違うが、琴の演奏はほぼ同じである。
世界大百科事典の一弦琴の項目に《松平四山の「当流板琴大意抄」(1841)では、9世紀に在原行平が須磨に流されたとき、庇の板で一弦の琴を作りつれずれを慰めたので須磨琴と呼ばれて一弦琴の祖となったと記している》と、いわゆる須磨琴伝説が紹介されている。須磨の浦に流れ着いた船板を細工し、冠の緒を張って作ったとの説もある。
謡曲「松風」では、行平が須磨の浦で過ごした間、松風、村雨という二人の海人を寵愛したが、三年後に御立烏帽子と狩衣を形見に残して都に帰り、その後いくらも経たないうちに行平が亡くなった、と村雨に語らせている。
国史大辞典によると、行平は寛平五(893)年七月十九日没す。七十六歳、とある。謡曲「松島」の物語を信じるなら、須磨に住んでいたのがすでに七十歳代になる。それで二人の美女を寵愛したとは私もあやかりたいところであるが、ちょっと事実とは考えにくい。それに行平が須磨に流されたという史実は確認されていないということで、国史大辞典にもそのことは記されていない。
在原行平朝臣の歌として古今集(962)に、この「須磨」で歌われる歌が載せられている。それには題詞がある。
田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨
といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに
侍りける人に遣はしける
わくらばに問ふ人あらば
藻塩たれつつわぶと答へよ
事にあたりて、という事件の内容は不明であるが、特に罪人にならなくても、一時都の外に身を潜めた、と受け取ることが出来よう。とすれば、須磨には住んだことになるのだろうが、昔から空想力豊かな歌人は、自由自在にどこにでも飛んでいくから、これでもって史実であるとするわけにはいかないだろう。
さらに行平の作ったとされる一弦琴の弦の材質や、その張り方も気になる。冠の緒の弦では、弾いてもただ震えるだけで、耳に聞こえる音が出そうでない。まあ須磨琴伝説は『神話』として受け取っておればよいだろう。
ところでこの「須磨」こそが一弦琴の最古の曲なのである。中川藍窓の「板琴知要」(1803)にそう記されているそうである。作曲者は不詳となっている。須磨寺で耳にした演奏に刺激されて、私も奏でてみた。
世界大百科事典の一弦琴の項目に《松平四山の「当流板琴大意抄」(1841)では、9世紀に在原行平が須磨に流されたとき、庇の板で一弦の琴を作りつれずれを慰めたので須磨琴と呼ばれて一弦琴の祖となったと記している》と、いわゆる須磨琴伝説が紹介されている。須磨の浦に流れ着いた船板を細工し、冠の緒を張って作ったとの説もある。
謡曲「松風」では、行平が須磨の浦で過ごした間、松風、村雨という二人の海人を寵愛したが、三年後に御立烏帽子と狩衣を形見に残して都に帰り、その後いくらも経たないうちに行平が亡くなった、と村雨に語らせている。
国史大辞典によると、行平は寛平五(893)年七月十九日没す。七十六歳、とある。謡曲「松島」の物語を信じるなら、須磨に住んでいたのがすでに七十歳代になる。それで二人の美女を寵愛したとは私もあやかりたいところであるが、ちょっと事実とは考えにくい。それに行平が須磨に流されたという史実は確認されていないということで、国史大辞典にもそのことは記されていない。
在原行平朝臣の歌として古今集(962)に、この「須磨」で歌われる歌が載せられている。それには題詞がある。
田村の御時に、事にあたりて津の国の須磨
といふ所にこもり侍りけるに、宮のうちに
侍りける人に遣はしける
わくらばに問ふ人あらば
藻塩たれつつわぶと答へよ
事にあたりて、という事件の内容は不明であるが、特に罪人にならなくても、一時都の外に身を潜めた、と受け取ることが出来よう。とすれば、須磨には住んだことになるのだろうが、昔から空想力豊かな歌人は、自由自在にどこにでも飛んでいくから、これでもって史実であるとするわけにはいかないだろう。
さらに行平の作ったとされる一弦琴の弦の材質や、その張り方も気になる。冠の緒の弦では、弾いてもただ震えるだけで、耳に聞こえる音が出そうでない。まあ須磨琴伝説は『神話』として受け取っておればよいだろう。
ところでこの「須磨」こそが一弦琴の最古の曲なのである。中川藍窓の「板琴知要」(1803)にそう記されているそうである。作曲者は不詳となっている。須磨寺で耳にした演奏に刺激されて、私も奏でてみた。