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北斗の拳の南斗人間砲弾

2017-07-27 20:54:13 | アニメ・コミック・ゲーム


少年ジャンプの北斗の拳がテレビアニメ化決定!と発表された時には、いささか驚いたものだ。
当時、少年ジャンプの漫画はほとんどがアニメになっていたと思うが、それでも、北斗の拳はないだろう、と考えていたからだ。
まずは、あの線の多さ、そして、体が砕け散るバイオレンスな描写である。どうやって、これをテレビアニメにするのだ?と誰しも思ったのではないだろうか。

しかし、そこは見事にテレビアニメとなっていた。線は極力減らし、戦闘シーンも止め絵を多用、そして「あべし!」なシーンも透過光で処理するという、いやあ、放送コードを考えたら、こうなるよね、というものだった。
だから、正直、第4話くらいまでを見る限りは、がっかりもしなければ興奮もしなかった。もう、本当に「ああ、こうテレビ向けに処理したか」と思うだけだったのだ。

だが、人類は死に絶えてはいなかった!
アニメ北斗の拳の真骨頂は、以降のアニメオリジナル部分から始まるのだ。

北斗の拳のファーストエピソード、シンとの決着編は、原作では1巻に収まるくらいの少ない分量である。
しかし、アニメ北斗の拳は、オリジナルを交えつつ、これを半年(22話)かけてやったのだ。
もちろん、後期のエピソードの前倒しもあったが、ほぼアニメオリジナルの世界観で支配したのである。

まず、初陣を切ったのは、上原正三脚本の「南斗蝙蝠拳」である。
え?なにそれ?
その頃、原作では、おそらく南斗水鳥拳のレイが出てきていて、ああ、南斗にも他に派閥があるのだなあ、と言った流れだった。
しかし、それをテレビアニメはあっさりとオリジナルでやってしまったのだ。
そして、この回がターニングポイントとなる理由はもう一つあって、ユリアを追い、シンの部下と戦うケンシロウという流れに、1話完結のロードムービー的要素を持ち込んだことである。
この回を境に、1話完結で、毎回、女性ゲストが出てきて、クライマックスは悪の南斗の拳法使いと決着をつけるという、それこそヒーローものと化したのだ。

特筆すべきは、悪の描写であり、とんでもない南斗の別派閥が跋扈する。
南斗龍神拳のドラゴン、南斗百斬拳のダンテ、南斗暗鐘拳のザリア・・・すらすら覚えている。この辺はまだしも、後半になると、ケンシロウと戦車が戦うは、列車砲まで出てきて、もうストイックな原作がどっかに行ってしまうのである。
ただ、私は独自の道を歩み始めたアニメ北斗の拳が毎週楽しみで仕方がなくなった。

正直「どこが拳法やねん!」という技が多い。原作にも登場するジャッカルなんて爆弾投げるだけで「南斗爆殺拳!」とかぬかす。
その極めつけが、南斗人間砲弾である。これ、ただ単に大砲から人間を打ち出して、上空から襲い掛かるだけの技だ。どこが拳法やねん!
それが仰々しくテロップで「南斗人間砲弾」とか書かれるのだから、笑わずにいられるか?
そして、そこがよかったのだ。

北斗の拳は、熱いドラマもあるが、基本的にはギャグマンガだと思っている。
もちろん、ケンシロウが南斗爆殺拳でやられてしまっては、洒落にならないのだが、どうせケンシロウにやられるのだから、それくらい陳腐な方が面白いではないか。
いかにも小悪党が「南斗爆殺拳~」とか言いながら、ケンシロウに「アホかお前」的にやられてしまう。
南斗人間砲弾の終幕なんて、ケンシロウの遊び心が満載である。
北斗の拳を熱血人間ドラマと考えている人は腹立たしかっただろうなあとは思うが、少なくとも、私は評価する側だ。

さすがに、これを何年も続けられたら「ちょっと待て」と言いたくはなるが、22話に収めたことは素晴らしい。
しかも、ケンシロウに味方するバイク乗りのジェニファーやら、原作ではほとんど出番がなかったユリアの生前の姿が描かれて、それを見守る付き人のサキ、シンの配下で反乱をもくろむバルコム将軍やら、そして隠密ジョーカーなど、一方で南斗なんでも拳でギャグをやりつつ、一方で原作の基本路線を膨らませたキャラクターを配置して、前半を乗り切ったスタッフは大したものだと思うし、私も原作とは一味違うアニメを存分に楽しんだものだ。
これは、原作の尺が足りないから、引き伸ばしましたというものではなく、「アニメ北斗の拳」という世界なのである。それもあって、きちんと、ジェニファーやサキ、バルコム、ジョーカーに見せ場を与えつつ、原作の以降の展開に引っかからないような、それぞれに幕引きを用意してあげたのはさすがである。(なお、サキに関しては、かなり後半のユリアの墓参りシーンで再登場する。と言うか、よく忘れていなかったな。あれだけユリアを慕っていたサキが墓参りしないわけがないし、よくぞ拾い上げてくれたと思う。この心遣いはうれしかったものだ)

ただし、アニメ北斗の拳はここまでである。
シンとの決着以降も、オリジナルなエピソードが入ったりもするし、絵も格段に良くなっていくのだが、基本的に原作をなぞるだけである。
私は、芦田豊雄や上原正三が作り上げた「アニメ北斗の拳」の世界観を楽しんでいたのだ。

テレビアニメの場合、どうしても原作の量が少なくてオリジナルエピソードやキャラクター、演出を配置する例は多いが、そのほとんどが失敗している。失敗は言い過ぎかもしれないが、どうしても浮いてしまうのだ。
そんな中、「アニメ北斗の拳」は、あの原作をテレビアニメ化するには制約が多すぎて、それを逆手にとって開き直ったともとれるのだが、それが成功した稀有な例だろう。

そんな私は、劇場版「北斗の拳」のムチャクチャさがかなり好きです。
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大スポの女教師キャサリンの課外授業

2017-07-20 20:02:46 | アート・文化


私の大スポ(大阪スポーツ)歴は長い。
もともと、プロレスファンであり、プロレスをまともに扱っていたのは、スポーツ紙の中でも大スポくらいのものだった。だって、何があろうが1面は「猪木血だるま」だったりするのだから。
そして、今は、競馬目当てに大スポは読んでいる。いろいろなスポーツ新聞の競馬欄は見てきたが、大スポの競馬欄さえあれば、予想にはすべて事足りるとの結論を持っている。それくらい、競馬予想ツールとして優れた媒体だと思っている。

しかし、大スポの魅力はそれだけではない。「プレスリーは生きていた」「岡本綾子バンカーにおしっこ」「落合家チ○ポまるだし」などのバカ記事である。20年前くらいは、大スポは一般記事でもひたすらネタに走っていたのだ。(今はだいぶ落ち着いているのが残念)
プロレスの結果に一喜一憂し、バカ記事に笑い、阪神タイガースに関するホンマかいな?という記事に苦笑し、みこすり半劇場で〆るという、最大の娯楽だったのだ。

そして、切っても切り離せないのが、紙面半ばに構成されているエロ記事である。
これも10年くらいまでは、かなり面白かったのだ。(今はちょっとえげつない)

結局、エロって何だろう?と考えると、私の中では笑いになってしまう。
それは、明るい安村やアキラ100%のように、また「ついでにとんちんかん」の抜作先生の「いきなり尻見せ」のように、男も女も、脱げば面白いのである。
エロティシズムではない。大スポのエロ記事で、おケツを出した女の子が載っていれば、もうそれだけで「うわ、この子、尻まるだしやん。おしりを出した子一等賞かよ!」と、笑えてしまうのだ。びんぼっちゃまに通じる笑いだ。

もちろん、ハードな記事はあったが、それらとのバランスが絶妙で「街頭淫タビュー」やら風俗嬢の紹介でも、当時は明るく笑えるノリが多かったように記憶している。
極めつけが、どこかのAV女優がやっていた「全裸番長」シリーズだった。いや、もう、エロのかけらもなくて、「全裸で1000本ノック」とか「全裸でフルマラソン」とか、おバカ満載で、読んでいてそれだけで楽しくなるシリーズだった。
私の印象は「笑える」だったが、当時は、淫靡さよりも「エロってこんなに開放的で面白いものなんだよ」と言う方針の紙面づくりだったことは間違いないと思う。

しかし、そんな中、姿勢が一貫しているのは、エロ小説である。私も30年くらい読んでいるのだけど、全く変わらない。

私は、結構、新聞小説というものが苦手で、話題の作家が連載していても、最後まで読みきった記憶がない。途中でだれてしまうのだ。
筒井康隆の「朝のガスパール」なんて、新聞連載の頃は「なんてつまらないんだ!」と思って、途中で読むのをやめたのだが、単行本にまとまったものを読むと、異常に面白いのだよね。新聞連載から大筋が変わっていないにもかかわらず。
なぜだろうと考えると、字数が限られている新聞連載は、山場が感じ取りにくいからだと思う。また、毎日、決まった字数を読まされるのも苦痛なのだ。本なんて、読みたいときは100ページでも読めばいいし、読みたくないときは表紙を開く必要もない。それを毎朝開く新聞に載せられても、強制的に読まされる苦痛しかないのだ。

ただし、大スポのエロ小説は、おそらく内部で取り決めがあると思うのだが、毎日が濡れ場である。
もうね、週に6日、濡れ場ですよ。普通の小説だったら、濡れ場に持っていくためのおぜん立てから始まるものだが、そんなものは数行で終わらせて、とにかく、強引にでも毎日濡れ場が発生する。ある意味、読みきり小説に近いし、宅配される朝刊紙とは異なり、気が向いたときに駅で買う夕刊紙だからこそ、一見さんを大切にする作りなのだ。

私は、実はエロ小説は好きではなくて、1冊も持っていない(ホントだよ)。
別にエロ小説を見下しているわけではなく、生々しすぎるのだ。
例えば、AVなどは映像が固定化されていて女優さんもいる、完全にフィクションと割りきって楽しめるものだ。
しかし、文章でねちっこくエロをやられると、自分の実体験とどこか重なってきて、ひじょーに鬱な気持ちになってしまう。文章の描写だけで女性の顔が見えるわけではなく、ある程度、読者のイマジネーションに委ねられているだけに、それが苦痛になってしまうのだ。普通の小説を読む際は、この感受性が最大の武器になるが、エロものはかなりきつい。

それが、大スポの様に、原稿用紙3枚くらいでエロをやってくれれば、イマジネーション広げる前に終わってしまうし、基本的に読みきりだから、後にも引きずらない。月曜日に読んだ話が、土曜にもやっている辺り(つまり、毎日、同じ相手とシチュエーション変えてエロっているわけです)も、「もうこの人たちは、本当に好きなんだから」と微笑ましくさえなる。ストーリーもあってないようなものなので、筋を追いかけたりする必要もないしね。

ただ、当たり前の話だが、マンネリである。そりゃもう、週6日もやっているわけで、作者は異なれど、やっぱりパターンは限られてくる。
「ああ、またこのパターンか」という例はあまりにも多い。基本、読み捨てだから、そんなには気にしないのだが、毎日の連載が楽しみかどうか、となるとちょっとまた話は別だ。

しかし、である。私の記憶の中に鮮烈に残っている大スポエロ小説がある。
たぶん、大学生から社会人になった辺りにやっていたものだと思うが、それが「女教師キャサリンの課外授業」だ。・・・申し訳ないが、タイトルはうろ覚えである(主人公がキャサリンと言う名前だったかどうかも定かではない)。
日本人の官能作家が、入れ替わりで連載していた当欄に、突如、外人作家が翻訳家付きで参入してきたのだ。(今となっては、本当に外人だったのかはすごく怪しい)。

内容は、タイトルから想像できる通りであり、女教師キャサリンが生徒たちと関係を持つ話である。そして、これも大スポパターンを守って、毎日が濡れ場だった。
しかし、気付くと、私は夢中になっていた。もう夕方近くになると、駅に大スポが置かれることを待ち構えるくらいだった。

なぜ、こんなに惹かれたのか?
それは、別にキャサリンは淫乱でもなく、純粋に生徒を愛していたのだ。その愛の証明がエロだったという話だったからだ。
さすがに、原本がないので、記憶をたどるしかないが、短い中にキャサリンの心理描写が繊細になされた上で、しかも濡れ場にまで持っていく。毎日読んでいると、その心理描写が積み重なって、どんどんキャサリンに感情移入してしまうのだ。
エロ小説の場合、読者にいかに登場する女性とエロをやりたくなるか、と思わせることが至上の命題であり、世の官能小説家はそれを成し遂げてきていた。
しかし、キャサリンは違う。キャサリンとやりたいとはついぞ思わなかった。それより、満たされない寂しいキャサリンに、ひたすら幸せになってほしいと思わせるものだったのだ。ちょうど、風と共に去りぬのスカーレットオハラに近しい存在である。

更に、この作者が異能だったのは、決して、暗い話ではなかったのだ。エロ行為だけではなくて、キャサリンの人間性をしっかり描いている点(何度も言うが、新聞連載と言う短い字数の中で)が秀逸だったのである。
お話自体は、結局、何も物語が終わらないまま、あっさりと完結したが、単行本になってまとめて読んだとしても、さほど面白くはないはずで、これは新聞小説だから、面白かったのだろうなとは思う。
あれから、30年、凡百の大スポエロ小説には目を通してきたが、未だにこれを上回る文学の香り漂うエロ小説には出会っていない。
もちろん、今読むと、がっかりする気もする。だから、これはもう、ひたすらキャサリンに夢中になった過去を美化しておけばいいのだ。

そんな私は「SKE48の暴れ馬、松村香織の炎上予想」が、毎週楽しみです。
どぎついエロページの横で、競馬予想している松村さんを見ていると、なんか複雑な気持ちになります。
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海底鬼岩城のバギーちゃん

2017-07-13 20:35:47 | アニメ・コミック・ゲーム



ドラえもんそのものは、アニメ放映前から好きだった。それは、ドラえもん中心に構成されたコロコロコミックの存在が大きいと思う。
さて、テレビアニメが放映されて間もなく、ドラえもんが映画化されるというニュースが飛び込んできた。
ただし、原作漫画が好きだった自分にとっては、テレビアニメのドラえもんが映画になる!という興奮よりも「のび太の恐竜」の後日談が描かれることの方が衝撃だった。
ご存知の方も多いと思うが、ドラえもん劇場版第1作「のび太の恐竜」は、中編として単行本に収録されているエピソードの続きなのである。
最初の中編では、恐竜の卵を手に入れたのび太が、現代でそれをふ化させるところから始まる。そして、いろいろあって、現代社会で生きるには大きくなり過ぎたピー助(恐竜)をタイムマシンで白亜紀に返すところで物語は終わる。これはこれでよくまとまっていて、のび太とピー助が別れるところなんて、涙なくしては見れない名作だと思う。
しかし、映画「のび太の恐竜」は、その続きが書かれるというのだ。そして、同時にコロコロコミックでは、藤子不二雄による漫画連載が始まった。これはちょっと画期的なことだったのだ。

事例は異なるが、「伝説巨神イデオン」はテレビ版では打ち切りに終わった作品である。敵であるドバ総司令が軍団に総攻撃を命じるところに、突如イデの発動が起こり、ナレーションで経緯が語られて、投げ出すようにして物語は終わった。
その後、ファンの後押しもあり、イデオンの続きは劇場版で描かれることになった。これはリアルタイムで劇場で見たのだが、テレビ版で打ち切りになったシーン・・・総攻撃命令の後に物語が続くのだ。この時、劇場内は私も含めてどっと沸いたものである。

「のび太の恐竜」もまた同じである。コロコロコミックで、原作のラストシーンから続きが始まった時には、自分の中では興奮がマックスになった。そして、それは期待を裏切らない出来だった。白亜紀の冒険、恐竜狩り、タイムパトロールと言ったSFマインド溢れる展開、そしていつもは万能なドラえもんの道具が無力化する展開により、のび太と仲間たちの勇気と友情が描かれ、そして、のび太とピー助の愛溢れるドラマ・・・これは傑作だった。
「どらえもーん」「もうのび太君は仕方がないなあ」と言った、いつものドラえもんを見ていた子供からすると、この映画は衝撃的だったと思う。ただ、それでも「ドラえもん」の世界を守っているところが素晴らしい。後述するが、この頃は「ドラえもん」の世界観の拡大なのである。
それは、次作「のび太の宇宙開拓史」も同様であり、白亜紀の次は宇宙へと冒険のフィールドを広げる。テレビとはちょっと違うドラえもん。のび太と殺し屋ギラーミンの対決なんて燃える展開ですよ(さすがに原作でやり過ぎたのか、映画ではソフトになっていたことが残念)。

何といっても、SFマインドなのである。恐竜が闊歩する白亜紀のど真ん中に叩き落とされたのび太達。空間がねじれて畳の下に異星がつながってしまう世界観。こんなワクワクドキドキさせるシチュエーションがあろうか?
この初期2作の魅力ならいくらでも語ることができるが、一番魅力的なのは、秘密道具に頼らない展開なのだろう。「のび太の恐竜」ではタイムマシンが壊れ、タケコプターも電池切れ寸前で、彼らの知恵と工夫が描かれる。映画になると、やたらカッコよくなるジャイアンもいいが、テレビ版ではダメダメなのび太が、その勇気と決意でヒーローになる展開も魅力的だ。

後に「クレヨンしんちゃん」が「オトナ帝国の逆襲」やら「戦国大合戦」などの傑作を生みだして、私も気に入ってはいるのだが、ドラえもんとはやや趣は異なる。この2作は、レトロな昭和を体感していたり、黒澤明の映画を見ていたりしなければ、その魅力は伝わらない(子供が見てつまらない、というわけではないよ)。アンパンマンの傑作「ふしぎの星のドーリィ」も同様であり、大人の持つ感性のスイッチをひねりにかかってくるわけですよ。少なくとも、童心に訴えかけるものではない。
半面、ドラえもんは純粋にアドベンチャーなのだ。

ただ、申し訳ないが、ドラえもんの映画版はここまでである。
もちろん、その後も面白い作品はあるものの、正直な話、この初期2作に全ての魅力は詰まっているし、これらを上回るような作品も見当がつかない。舞台を変えただけの亜流も結構多い。

ただし、「海底鬼岩城」は、ちょっと別格である。
海底王国アトランティスの自動報復システムによる人類の危機が描かれる作品であり、もろに核兵器を思わせる武器も登場する。
そんな奴らと、ドラえもんたちは戦うことになる(まあ、後の作品でもっとイカれた敵は出てきたりはするが)。恐竜ハンターやら地上げ屋とはスケールが異なり、相手は人間を殺しにかかってくるわけであるし、のび太たちも、相手がロボットとは言え、殺し合いを演じることになる。さすがにやり過ぎだろう、と正直思った。
逆に、こういうやつらをドラえもんがクルパー光線銃とかで倒してしまったり、ハリセンが何かでたたき合うような笑える戦闘シーンを演出しちゃったらそれはしらけるわけで、この映画は、その対策と言うか、仕掛けが面白いのである。

それがバギーちゃんなのである。

バギーちゃんは、ドラえもんの道具の一つで海底バギーなのだが、自らの意思を持つロボットのような存在である。
ただ、こいつが生意気だし弱虫だし、ジャイアンとスネ夫を「ああ、人間ってあっけなく死ぬんですねー」と見殺しにしかける描写もある。
どうしようもない存在なのだが、唯一、しずかちゃんにだけは心を開く。まあ、明らかに惚れたな。

最終局面。秘密道具で戦っていたのび太たちだが、徐々に力尽き追い詰められていく。頼みの綱のドラえもんもついにダウン。
そして、自動報復システムポセイドンに囚われたしずかちゃんが、今まさに殺されようとした時、ドラえもんのポケットの中から声がする。
「シズカサン、ナイテルノ?」

ああ、ここからは涙なくしては書けない。
ぶっちゃけると、出来損ないで役に立たないバギーちゃんが、ポセイドンと刺し違えるわけである。

この手のシチュエーションはありがちといえばありがちである。
ただ、藤子不二雄が異なるのは、その主がバギーなのだ。単なる車である。
車だったら感動するのか?と言われると、例えば、ナイト2000がマイケルをかばって同じ事やっても、感動こそすれ、涙までにはつながらないように思う。
しずかちゃんを守るためだけに(たぶん世界の平和とかはどうでもいい)特攻したバギーちゃんと、地上人を滅ぼすことしか考えていないポセイドンという、両ロボットの対比も面白いのですよ。結論などもすでに出ていて、手塚治虫や石森章太郎が延々と描き続けていた人間とロボットの共存というテーマを、藤子不二雄があっさりと万人に伝わる方法でさらっと書いちゃったあたりに、ちょっと戦慄を感じたりもするのだ。(考えてみれば、ドラえもんもロボットなのだけど)

更にまた、声優の三ツ矢雄二が上手い。このラストから逆算して最初からセリフを組み立てて演技をしていたのではないか、と思うくらい。キテレツ大百科でトンガリを見ていても、このバギーちゃんを思い出して泣けて来てしまうという。

正直なところ、「海底鬼岩城」は自分の中ではちょっと受け入れられない作品ではある。ドラえもんと言う世界を拡大させた初期2作と比較すると、違う方向に向いてしまっているように思う。それはこの後に続く作品にも言えることだ。
ただし、この映画はバギーちゃんが全てなのだ。バギーちゃんこそ、ドラえもんやオバQになりたかったのになれなかった存在だ。海中を走るだけで、ドラえもんほど感情もなくまた力もない。ドラえもんになれなかったバギーちゃんが、「しずかちゃんを泣かさないために」自分が取ることのできた方法が自爆だったという悲劇でもあるのだ。
それもあって、印象深い一作である。

そんな私ですが、実は「鉄人兵団」のリルルも泣けました。すいません。
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そして誰もいなくなったっちゃの頃

2017-07-06 21:03:21 | アニメ・コミック・ゲーム


うる星やつらは時代だったなあ、と感じる。

昭和50年代に突如として現れた画期的な漫画として印象的なのは、少年ジャンプのDrスランプである。
一方の少年サンデーのうる星やつらに関しては、面白かったのは確かだが、画期的とまでは言えなかった印象なのである。
表現が難しいが、Drスランプが衝撃なら、うる星やつらは安定だった。確かに、設定もキャラクターも画期的ではあったものの、手慣れた感のお話づくりは、ちょうど「こち亀」に近いものがあった気がする。
余談ながら、サンデー系は「タッチ」とか「ふたり鷹」とか、手慣れたプロを思わせる漫画が多く、ジャンプ系は「東大一直線」やら「キン肉マン」やら、パワーとノリで読ませるような漫画が多かった記憶がある。

しかし、そんなうる星やつらの印象ががらりと変わるのは、アニメ放映が始まってからである。

フジテレビ系水曜7時台は、前述のDrスランプとうる星やつら、8時からの大映ドラマも併せて、黄金の時間帯であった。そして、それは我が家でNHKの連想ゲームの厚い壁が破られた時であった。さようなら、加藤芳郎。

とは言え、残念ながら、この2本のアニメはあまり面白くなかったのである。思いっきり子供向けにシフトしたDrスランプは仕方がないかなと思うが(←子供だったくせに偉そうだ)、うる星やつらの初期はホントに面白くなかった。正直な話、「何でこんなつまらなくできるの?」と思ったくらいである。その分、きっちりページ内で構成された原作の面白さを再確認したりする作業だった。
おそらく3か月後に放映された「ときめきの聖夜」がなければ、連想ゲームに戻っていたかもしれない。

ただ、その「ときめきの聖夜」も、面白い面白くないじゃなくて、何というかキュンときたのですよね。言ってて恥ずかしいが、青春の淡い味わいと言うか。ああ、ラムちゃん、かわええなあ、という。平野文のラムちゃんの魅力を感じてきたのもこの頃だし、なんじゃこのおばちゃん声は―――!と憤りさえ覚えたサクラさん(鷲尾真知子がやってたんだよなあ)の声にも、妙に味を感じ始めていた頃だ。
そして、異彩を放ち始めたメガネと言うキャラクターを忘れてはいけない。当時、まだ主要キャラの一人である面堂終太郎が登場しておらず、その代わりなような感じで活躍していたキャラクターなのだが、千葉繁の声もあって、異常な存在感を放っていたのである。もちろん、原作にも登場しているものの、その性格付けや活躍はアニメオリジナルと言っていい。(面堂が登場してからも、メガネはアニメオリジナルのキャラとして君臨する)。

だが「ときめきの聖夜」の後も、「君去りし後」が放映されるくらいまで、再び低迷する。
結局、アニメ「うる星やつら」が暴走を始めるのは、1年くらいたってからなのだ。それまでは手探りもあったし、原作に縛られ過ぎていたきらいもややあったのは確かだ。

これを書くためにラインナップを改めてみたが、「君去りし後」以降は明らかに印象に残るものばかりである。それまでは、原作に準拠しつつ、尺が足りない分は水増しして・・・と言った感じだったのだが、「原作を映像化したら、残った時間は好きにやらせてもらう」的に、初期からだいぶ入れ替わったスタッフが、はっちゃけ始めるのだ。

「戦りつ化石のへき地の謎」なんていろいろぶっ飛んでいるし、「さよならの季節」は泣けるし、「みじめ!愛とさすらいの母」なんてわけがわからない面白さがある。この頃になると「原作にある以外の要素」を面白がるようになっていた。ギャグもあり、アクションもあり、涙もある。ラインナップがバラエティに富んでいたのだ。その極めつけが、映画の「ビューティフルドリーマー」なのだろう。

そんな中、「そして誰もいなくなったっちゃ」という作品が放映された。原作にないアニメオリジナルである。
タイトル通り、「そして誰もいなくなった」オマージュで、登場人物が次々と殺されていく話である。・・えー!?
もちろん、ギャグアニメなのだ。本当に死んでいるわけがない。・・・のは当然わかっているのだが、もうね、えぐいというかなんというか、浴槽で湯につかったまま息絶えているラムちゃんを見た日にはねえ。
ちなみに、一切ギャグはない。ギャグアニメの線を守りつつ、笑える形の死に方をしたキャラもいるが、基本はホラーミステリーとして話が進む。ラムちゃんまで殺された諸星あたるが、けん銃片手についに追い詰めた犯人のその正体は・・・と言う流れなのだが、これがもうギャグアニメと言うことを忘れるくらい真に迫っているのだ。
先に書いたように、この頃のスタッフの暴走ぶりはよくわかっていた。だからこそ、「これ、本当は誰も死んでないのだよね」と言う予定調和さえ実はぶち壊してしまうのではないか、と思わせるくらいの緊迫があったのは確かだ。

「機動戦士ガンダム」の大ヒットで、アニメファンと言う言葉がすっかり定着していた頃である。
同時にビデオデッキも普及し始めたころだ。うる星やつらは、そんなファンをくすぐるように、ビデオでコマ送りにしないと気付かない部分を入れたり、他にアニメのキャラをエキストラで登場させたり、というお遊びを入れまくった。それは、アニメをよく見ているアニメファンの共通言語となっていったのである。

ちなみに、そのうる星やつらも終盤は失速する。もちろん、上記のようなはっちゃけぶりやファンサービスは満載だった。
しかし、それがスタンダートになってしまったのである。原作と言う枠をはみ出した掟破りを続けてきたところに魅力のあった作品が、その掟破りがマンネリになってしまったのだ。挿入されるスタッフのお遊びがうざったくなって、原作通りにやれよ!と思ったりもした。

最終回の締めを飾ったのは、初期EDである「宇宙は大ヘンだ」だった。結局、うる星やつらは原点に回帰して終了したのであった。

今、現在、うる星やつらの知名度はどんなものなのだろう。
高橋留美子先生が未だに健在なのは驚くが、歴史に残ったアニメだとは思えないのである。「めぞん一刻」の方が語られる機会が多い印象がある。
そして、おそらくなのだが、今見たら、ノリだけで作られていて、楽しめないと思う。きっと、空回りしているはずだ。
当時、アニメファン文化が開花していて、アニメ雑誌片手にアニメ映画の初日に列をなす。その時代を知らなければうる星やつらは楽しめないのではないだろうか。
うる星やつらは、長いお祭り、それこそビューティフルドリーマーだったと思う。祭りの後は若干の余韻を残して消えていくのだ。

そんな私は「夢はLOVE ME MORE」を、今でも口ずさんでいます。
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