玄倉川の岸辺

悪行に報いがあるとは限りませんが、愚行の報いから逃れるのは難しいようです

死神の力

2008年06月26日 | 死刑制度
私が「よく阿部寛と間違われる」と言えばたいていの人は笑う。
どこからどう見ても勘違いであり、浅はかな思い上がりでみっともないからだ。
「死神」騒動で抗議した「被害者団体」もそれと同じくらい見苦しい。

「死に神」に被害者団体抗議=「侮辱的、感情逆なで」(時事通信) - Yahoo!ニュース
 13人の死刑を執行した鳩山邦夫法相を「死に神」と表現した朝日新聞の記事について、「全国犯罪被害者の会(あすの会)」は25日、東京・霞が関の司法記者クラブで記者会見し、「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。侮辱的で感情を逆なでされた」とする抗議文を、同日付で朝日新聞に送ったことを明らかにした。
 抗議文で同会は「法律に従って執行を命じたにすぎない法相を非難することは、法治国家を否定することになる」と批判。記事の意図などについて同社に回答を求めた。


死神とは人間に死を与える力を持つ存在だ。
その力は絶大だ。普通の人間には逆らう術がない。
死神の腕につかまれた人間は「ゴルゴ13のスコープで狙われた」とか「デスノートに名前を書かれた」のに等しい。デューク東郷は死神の化身、デスノートは死神の道具だからそれも当然だ。ターゲットには確実に死が訪れる。

逆に言えば、死を与える「力」を持たないものは死神ではない。
不能犯を実行犯と呼ばないのと同じである。誰かをどれほど熱心に呪い、相手が死んでしまったとしても、殺人罪に問われることはない。

朝日のコラムは13件の死刑執行命令を出した鳩山法務大臣を「死に神」と呼んだ。
死刑を執行するには執行命令書が必要であり、執行命令書には法相の署名がなければならない。鳩山法相の署名が死刑囚の死を決定したことは明らかだ。署名なしに死刑が行われることはない。現在の死刑制度とはそういうものだ。
死刑執行命令書の絶大な力、法相の「死神」性を否定することはできない。正義を愛する心優しい死刑制度支持者たちはどうしても否定したいようだが無理である。

それでは殺人事件の被害者遺族に「死神の力」はあるのか。あるはずがない。
どれほど熱心に、あるいは切々と「死刑判決を望む」と訴えても、裁判官に強制することはできない。裁判官はあくまでも法と証拠と良心に基づいて判決を下す。
めでたく死刑判決が下ったとしても、被害者遺族が法務省に執行命令書を作らせたり、法務大臣に署名を強制することは不可能だ。仮に法相に命令できるものがいるとしたら総理大臣だけである。一般人にできることはせいぜい「お願い」することだけだ。要望が何千件、何万件と集まれば政治的圧力となり、それなりの力を発揮するだろう。だがそれは圧力どまりで強制力はない。
これほど無力な被害者遺族がどんなに望んでも死神になれるはずがない。彼らにできることは死神への嘆願だけだ。
死を与える力を持たなければ死神にはなれない。力のないものは死神の応援団になるか、死神の道具になるか、どちらかだ。

現在の日本では「悪人」の死を願うことが正義となっているらしい。秋葉原の事件で噴出した「射殺」煽り、光市事件裁判や「死神」騒動に見られる「吊るせ吊るせの大合唱」。どちらも権限も責任もない一般人がお気楽に(私にはそうとしか思えない)騒いでいる。彼らは死神の応援団だ。
その一方で、法を守り、国民に期待され、ストレスに耐えて命令に従い、死刑に関わる業務を遂行する人たちがいる。彼らは(こういう言い方はしたくないが)死神の道具だ。
私は命令に従い死刑に関わる業務を遂行している人たちを批判しない。むしろ気の毒に思っている。私なら(戦争でも起きればともかく平時に)「意図的に確実に人の命を絶つ」仕事はできない。社会のため、正義のためと信じて辛い仕事をしている人は立派である。
だが、死神の応援団には同情しない。彼らはあまりにもうるさすぎる。仮に死刑が日本にどうしても必要だとしても(私はそうは思わないが)、それはあくまで必要悪だ。「射殺しろ」とか「吊るせ」とか大声で騒ぐものではない。鳩山法相の言葉ではないが死刑は「粛々と」行うべきであり、可能なら死刑など無くしたほうがいいのは言うまでもない。

朝日のコラム自体について言えば、「死に神」として名指しされたのは鳩山法務大臣だけだ。被害者遺族については何も言っていない。私は「死神騒動」について書かれたブログをずいぶん読んだが、「抗議」以前に「それなら被害者遺族も死神になる」という読み方をしたものはほとんどなかった。それが普通の読解力だ。
「全国犯罪被害者の会(あすの会)」が主張する「死刑執行を望む犯罪被害者遺族も死に神ということになる。」という理解のしかたはよく言って誤解、はっきり言えば曲解であり言いがかりにすぎない。ヒステリックで「当たり屋」めいた下品なやりかたである。
私は朝日新聞に抗議した「あすの会」の主張にまったく同情しない。


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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2008-06-27 04:07:57
初めて書き込みます。


番組名は忘れましたが、つい最近、死刑執行に係る人々を特集したラジオ番組を拝聴する機会がありました。
刑務官がどんな気持ちで、またどんな方法で死刑を執り行っているのかに関して扱った内容で、番組中には実際の死刑の場面を録音した音も流されました。
精神的にも色々と感じるところのある刑務官たちが、それを押し殺して人の死に死刑執行に立会うということがどんなことなのか、非常に考えさせられる番組だったと思います。
執行に係る刑務官たちのインタビューとは対照的に、日本の死刑制度について知識も無いのに『死刑は必要だ』と楽観的に述べる街の人々の姿がまた印象的でした。


日本では警察を始めとする権力、それにメディアや市民まで一緒になって、犯罪者を裁くことに傾倒しすぎなのではないかと思います。
被害者に感情移入しすぎて、被告にも人権があることや、死刑執行を執り行う、つまり人を殺さなければならない役回りを押し付けられる人達がいるということが忘れられがちです。
確かに、犯罪は許せない行為ですが、それに対して罰を決めるのは我々ではなく、法律でなければならないはずです。
このようなズレた感性を持っているは先進国の中でも日本だけではないでしょうか。
EUでは人道的な考えから死刑制度を廃止しました。米国でも州によっては死刑制度を廃止しています。
それなのに、日本では国民が死刑制度について知ることも無く、陪審員制度などと言っているのですから本当に恐ろしいことです。


最近、特にそのような傾向が顕著に出ているのが光市星殺害事件ではないかと思います。
私は、あの事件の被害者の方に全く同情できません。
あの事件によって被害者の方々は、正に「悪い奴は死刑にするんだ」というイデオロギーの記号になってしまったと思います。
本来なら犯罪の社会的問題性と、再発を防ぐ為の議論がなされなければならないはずなのに、被告を罰することばかりに注目が集まり、被害者の方もそれを訴えるスポークスマンに成り下がってしまいました。
これは、自ら進んで死神の道具になってしまった人々の悪例の一つではないでしょうか。
被害者の方の感情に対して配慮しないわけではありませんが、被害者が復讐するために社会があるわけではないことをもう少し全体として考えなければならないのではないかと思います。
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