風雲中津城 3

2007-12-01 11:53:39 | Weblog
先日の大分合同新聞に川嶌先生が中津城の天守について寄稿されていました。中津城には天守(天守閣は明治以降の呼称)があったと。小生もその説に賛成です。貝原益軒(黒田藩士/儒学者1630~1714)の「黒田家譜/寛文11年(1671年)~宝永元年(1704年)に書かれた」には関ヶ原(1600年)の前、如水公が天守より金銀を大広間に並べ領内の男子に与え兵として雇ったとありますが、同じ益軒の「豊国紀行/1694年」には中津城に天守無しとあります。黒田家譜は詳細な取材の上で書かれていますが関ヶ原時代のことは益軒がまだ生まれる30年前のことなので実際に自分の眼で見たものではありません。豊国紀行は自分の足で訪ねた土地のことを見たまま書かれたと思われるのでそのときには天守は無かったのでしょう。とまれ中津城のことを色んな方々が興味を持って戴くことは嬉しい限りです。因みに菱屋平七の書いた筑紫紀行は享和2年(1802年)の紀行文ですからやはり天守は無いということになります。当時徳川幕府はいかにして大名家を潰したり改易させようかと睨んでいましたので各大名家は天守を築いたり、浪人を雇ったりすることは幕府に謀反ありとみなされるのでとても警戒していたのです。事実徳川時代に取り潰しや改易になった大名家は250家ほどあり、中津藩の小笠原家もその一つです。有名なのは広島城主(49.8万石)福島正則は水害で破損した石垣を幕府に無断で修理したのを咎められ(武家諸法度)川中島城主(4.5万石)の小大名に改易されました。その後福島家は正則没後幕府の検視を受けないまま火葬にしたということで領地没収,改易となった。それだけ各地の大名は幕府に気を使っていたのです。中津城も如水公は天守を築きましたが、後に壊したと見るのが正しいと思われます。

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