黒田官兵衛(如水)と高取焼

2016-12-01 08:28:41 | Weblog

文禄・慶長の役(1592~1598/秀吉の朝鮮出兵)の折、黒田官兵衛、長政は朝鮮の陶工「八山」を日本に連れて帰った。

その後、八山たち陶工はしばらく黒田家の領地である豊前国中津に居住していたが、官兵衛・長政が関ヶ原の合戦で武功をあげ、筑前52万石福岡藩へ転封したのでそのまま、共に福岡へと移った。

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黒田官兵衛(如水)と黒田節4

2016-11-25 09:02:31 | Weblog

この程、練習している正調黒田節の歌と踊りが、ビッグな催しに出演できることになりました。

来年の5月に開催される中津文化会館での出演です。

新しい歌詞で堂々と踊れるように、練習も頑張らねばなりません。

踊り子の中津黒田武士の皆さんは、仕事で忙しいなか、時間を見つけての練習です。

今からおよそ10年ほど前になりますが、踊りを発案したのは、黒田官兵衛(如水)を世に出したいとの一念で、それまで盆踊りも踊ったことの無いおっさんどもが、恥も外聞も振り捨てて取り組んだのが始まりでした。

今では、大観衆の前で歌ったり踊ったりするのに、快感を覚える?ほどになってしまいました。

人間の悲しい性??を身に沁みて感じているこの頃であります

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田節3~新歌詞~

2016-11-10 08:42:36 | Weblog

福岡県民謡「黒田節」の歌と踊りを今、練習しています。

『黒田節』

1.酒は飲め飲め飲むならば、

     日の本一のこの槍を

  飲み取るほどに飲むならば 

     これぞ真の黒田武士

2.峰の嵐か松風か、

     尋ぬる人の琴の音か

    駒ひきとめて(駒をひかえて)

     聞くほどに(立ち寄れば)、

     爪音しるき想夫恋 (謡曲/小督の物語からの作)

筑前民謡「黒田節」は今日まで酒席や祝いの席で、黒田武士の誇りとして、またそれは今様として越天楽のメロディーにのせて歌われてきましたが、今まではこの2番までが特に知られています。

しかし、その他にもまだ数々の歌詞がありますが、踊りに相応しい勇壮な歌詞が欲しいと思い中津黒田武士顕彰会で作詞しました。

3.酒は飲め飲め飲み干して、

  天下の秋(とき)を語るべし

  この世に生を受けたなら

  飲みて果たさん我が使命

三番をまた元の母里太兵衛の物語に戻し、武士の生き様を描くことにしたので、エンディングもキリッと締まった姿形で納められそうです。

これで、黒田節も武士の勇壮な踊りとして、皆さんの前でご披露できるのではないかと思います。

唄も我ら顕彰会の専属歌手浦橋英男の美声に乗せて、バッチリCD録音できています。

中々のものが出来上がりました。

何時か何処かで「新正調黒田節」の歌と舞でお会いしましょう。

*中津黒田武士顕彰会の作には、「豊前中津の黒田武士」と「軍師官兵衛」があります。「軍師官兵衛」はYou Tubeで「軍師官兵衛踊り」で歌と舞が観れます。ぜひ一度ご覧ください。

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田節 2

2016-11-01 08:29:56 | Weblog

福岡県民謡 黒田節の主人公母里太兵衛の銅像は博多駅前ともう一体、福岡市西公園にあります。

この像は、右手に名槍日本号、左手に大杯を抱えており、博多駅前の像と違っています。

福岡市は黒田節が有名なので、その物語の主人公である母里太兵衛の銅像がシンボルとなっています。

ただ、今日九州の大都市として発展した福岡市は藩祖黒田官兵衛(如水)が縄張りし、町の礎を築いたことを忘れてはなりませんし、その銅像がないのが不思議なくらいです。

これから何時の日か、福岡の地に恩人でもある藩祖黒田官兵衛(如水)公の銅像が建立され、福岡城が復元されんことを全国の黒田武士フアンとしては願うばかりです。

焉んぞ有志の出で奉らんことを!

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田節

2016-10-21 08:36:31 | Weblog

福岡県民謡として有名な黒田節ですが、我々中津黒田武士顕彰会でも ”豊前中津の黒田武士” ”軍師官兵衛” に続いてこの ”正調黒田節” も踊りのレパートリーの一つとしています。

ご存知のように、黒田節は戦国時代の侍大将で黒田二十四騎の一人、母里太兵衛が福島正則から名槍日本号を飲み取った故事を讃えた物語です。

民謡の一番は有名な ”酒は飲め飲め~” 二番は ”峰の嵐か松風か~”となっています。

この黒田節の歌詞は最初から決まったものではなく、様々な方により創られ、変遷してきました。

それで中津黒田武士顕彰会ではオリジナル歌詞を作詞しました。

*写真は博多駅前の黒田節像

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NHK大河ドラマ2018は 西郷どん

2016-10-12 10:46:18 | Weblog

NHK大河ドラマ2018は西郷どんと発表されました。

明治維新の立役者であり、江戸開城に当たって勝海舟との会談で江戸を戦火から守ったことも広く知られています。

明治維新後は政府の重鎮として近代日本の礎を築き、「子孫に美田を残さず」という無欲な人間性は多くの日本人に愛されました。

その西郷さんが何故征韓論を問い、政界から離れ下野して鹿児島の城山で自死したのか、その波乱万丈の生涯がどのように描かれるのか、楽しみです。

 

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黒田官兵衛(如水)と別冊宝島

2016-10-01 07:50:13 | Weblog

全国誌で有名な宝島社からこの程、”外国から見た戦国・幕末の日本”特集で別冊宝島が出版されました。

その中の黒田官兵衛のページに中津城をバックに官兵衛公と光姫様の像(中津黒田武士顕彰会提供)が載せられています。

戦国時代に宣教師と関わりのあったキリシタン大名など、とても詳しく当時のことが載っています。

皆様、別冊宝島をぜひ購入され、お読みになってください。

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎図

2016-09-21 08:09:22 | Weblog

前回の黒田惣右衛門直之をもって、かねてからの懸案であった黒田官兵衛(如水)を支えた黒田二十四騎の紹介が全て終わりました。

黒田二十四騎は豊前中津時代に文禄・慶長の役(朝鮮出兵)で大暴れした侍大将が選ばれている。

黒田二十五騎と呼ばれたときもあったが、それは軍団の中で最も勇猛果敢であった黒田長政を入れていたからである。

長政は、戦場では常に軍の先頭に立ち軍団を鼓舞し、刀槍を振る猛将でした。

黒田二十四騎は元文年間(1736~41)に、福岡藩主黒田継高が,家臣原種次に黒田藩に尽くした武将を選ばせ、お抱え絵師尾形美淵に肖像画を描かせたのが伝わっているが、既に江戸初期にはその勇猛さが評判となって二十四騎の掛け軸が巷に流布していた。

黒田二十四騎は肖像画と共に、その生涯も詳細に伝えられており、私達黒田武士フアンにとっても心躍る伝記となっている。

*参考文献ー黒田長政と二十四騎(福岡市立博物館)、黒田官兵衛と二十四騎(本山一城・宮帯出版社)

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 黒田惣右衛門直之

2016-09-13 08:50:13 | Weblog

 黒田惣右衛門直之は官兵衛の異母兄弟として姫路で生まれた。

幼少時秀吉に仕えたが、官兵衛の九州攻めのとき、黒田家にに戻るが豊前国中津で妻と共にキリシタンの洗礼を受け、それ以来熱心なキリシタンとなった。

文禄・慶長の役では侍大将として出兵、大いに活躍し高名を上げる。

関ヶ原合戦時、官兵衛は九州の西軍地を攻めていたが、惣右衛門は豊後国東の富来城攻め、肥後久留米城攻めで活躍し、久留米城番を務める。

切支丹であった官兵衛は切支丹信徒の家臣や領民がたくさん居た久留米城番には熱烈な切支丹であった惣右衛門直之が適任との判断であった。

黒田家が筑前福岡52万石に移封した時、惣右衛門は秋月で1万2千石を拝領。

1604年(慶長9年)如水が伏見の藩邸で死去、遺骸は博多の教会に運ばれ、棺の先導を惣右衛門(洗礼名ミゲル)が務めた。

黒田惣右衛門は慶長14年(1609)大坂で死去、長崎のキリシタン墓地に埋葬される。

享年46歳、稀代の戦国武将黒田官兵衛(如水)の異母弟として、よく官兵衛を助け、官兵衛に倣いキリシタンとして信仰に生きた一生であった。

 

 

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黒田官兵衛(如水)と黒田二十四騎 井口(村田出羽)兵助吉次

2016-09-02 07:59:59 | Weblog

黒田二十四騎の一人、井口(村田出羽)兵助吉次は先祖を播磨の赤松家に発し、小寺家や広峯氏(広峰神社神官)と血縁関係にあった。

幼少時、兄三人が官兵衛にスカウトされて武士となったがみな討ち死にしたので親は芳次を武士にするのを拒んだ。

しかし、官兵衛のたっての要望で武士となった経緯があり、官兵衛は芳次を大事にした。

幼少の長政が信長の人質に出されたとき、付き人として秀吉の長浜城へ入り、竹中半兵衛の菩提山城で匿われたときにも同行したと伝えられている。

また、平助の叔母は後に官兵衛が有岡城に幽閉されたときに、密かに衣食の世話をして瀕死の官兵衛を助けた恩人でもある

常々、馬を欲しがっていた兵助はある戦で敵の武者を討ちその武具刀槍を奪い取り立派な甲冑騎士武者として凱旋するほどの猛者であった。

豊前国入国後は宇佐神宮神主宮成家へ婿養子へ官兵衛が算段したが、武士を捨てる気はさらさらなく、その話を断った。

文禄・慶長の役では一日で首七つ取ると朱柄の槍を用いる事と言う名誉を得るほどの勇猛な戦武将であった。

1600年天下分け目の関ヶ原の合戦の時、官兵衛軍は九州を席巻しつついたが、柳川攻撃中包囲軍の鍋島直茂を訪ねた折、その家臣の村田隠岐が武功多く無傷な武将と紹介されたので、官兵衛はその幸運に肖るべく村田の姓を戴き、それより兵助は村田兵助と名乗った。

 

 

 

 

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