黒田官兵衛(如水)と南蛮船 3

2017-02-17 09:00:11 | Weblog

ヨーロッパのロッテルダム港を出港して、太西洋を南下し、アフリカ大陸西端をめぐり、南米大陸の南端マゼラン海峡を越え、太平洋を北上し、2年もの長い航海の果て、はるばるとやって来たオランダ船リーフデ号は、豊後の国佐志生(大分県臼杵市)の港に漂着した。

出港の時、5隻の船団に110人居た乗組員は日本に漂着したときは嵐や病苦で生き残ったのは20人弱という余りにも悲惨で困難な旅でした。

ただ、乗組員たちは、地元の人々に救助され、温かくもてなされた。

その後、乗組員たちは家康のもとに送られ、船の備砲や砲員は関ヶ原の合戦に活用されたという。

この船がもし隣の豊前国に漂着して居たら、官兵衛は南蛮船の先進的な武器や戦術を利用し、天下取りの野望を膨らまし、歴史を変えるほどの働きをしたのではないかと想像するのも歴史を愛する者としての楽しみではあります。

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黒田官兵衛(如水)と南蛮船 2

2017-02-10 08:50:13 | Weblog

当時の航海は生死を賭けた壮絶なものであった。

このリーフデ号の航跡を見ても、

オランダ・ロッテルダム港を出港し、

大西洋を南下、

南米大陸最南端の沖を回り、

太平洋を北上してはるばるやって来たその日々は

想像を絶する荒天や船中での疾病等の中、

なんと二年近くに亘るものであった。

 

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黒田官兵衛(如水)と南蛮船

2017-02-03 08:58:26 | Weblog

1598年6月オランダロッテルダムの港を出港したデ・リーフデ号は、1600(慶長5)年4月豊後の国臼杵(大分県臼杵市)佐志生に漂着した。

時は秀吉が薨去して、今まさに風雲急を告げようとしている頃であった。

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黒田官兵衛(如水)とキリスト教異聞

2017-01-28 08:32:54 | Weblog

黒田官兵衛(如水)が豊前国中津城主のころ、隣国の豊後の国に一艘のオランダ船が漂着しました。

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黒田官兵衛(如水)と高取焼6 高取焼略考

2017-01-16 08:43:39 | Weblog

過日、藤香会の催しで戴いた高取焼の略考です。

 黒田官兵衛(如水)、長政が朝鮮出兵(1592~1598)の際、井土という地で八山という陶工を見出し、筑前(ではなく、その時代は豊前国中津)に連れて帰ったことから、後の高取焼が誕生したようです。

高取焼は黒田藩御用窯として、今日まで営々とその技を受け継ぎ、今やその名声は筑前地方のみにとどまらず、全国的にも認知されるほどの銘品に育っています。

今後も益々多くの好士の皆さんに讃嘆される作品を創作されてゆくことを願ってやみません。

     *参考文献―福岡県史(編纂財団法人西日本文化協会)

 

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黒田官兵衛(如水)と高取焼5

2017-01-10 09:06:44 | Weblog

高取焼年表です。

注目すべきことは、文禄元年(1592)朝鮮人陶工八山が黒田長政に拝謁し、後藤又兵衛家臣桐山常右衛門が八山夫婦及び一子を連れて日本へ帰国したという記述です。

ご存知のようにその年、黒田官兵衛(如水)、長政は豊前中津城主でした。

関ヶ原の合戦(1600)までの8年間は、中津城下に棲んでいたことが考えられます。

長政が帰国した文禄3年(1593)年から慶長の役(1698/第二次朝鮮出兵)の間は大きな戦もなく、陶工たちの生活も落ち着いていたので、その間、黒田家は八山たち陶工に豊前国内で窯を築かせ、十分にその技を行使したのではないかと想像に難くありません。

さてその窯(黒田豊前八山窯?)は豊前国の何処にあったのでしょうか?

想像するだけでも楽しく興味のあるところです。

故に、古高取焼が幻窯たる所以でもあるのでしょう。

 

 

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黒田官兵衛(如水)ブログより新年のご挨拶

2017-01-01 13:22:46 | Weblog

2017年新年明けましておめでとうございます。

旧年中は、黒田官兵衛(如水)公顕彰のブログをご愛読して戴き、有難うございました。

大河ドラマ「軍師官兵衛」の放映により、天才軍師黒田官兵衛(如水)の人間像は日本中の人々の知るところとなり、益々魅力ある戦国武将としてその存在感を示して来ました。

大河ドラマで描き切れなかった官兵衛(如水)像をもっと掘り下げて行きたいと思っています。

本年もどうぞよろしくお願い致します。

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黒田官兵衛(如水)公ブログより一年間の感謝

2016-12-31 10:57:01 | Weblog

激動の2016年も本日、大晦日を迎えました。

この一年間、黒田官兵衛(如水)のブログをご愛読して戴き、ありがとうございました。

大河ドラマが放映されて2年が過ぎました。

官兵衛ゆかりの地では、まだまだ熱い顕彰の催しがなされています。

当地、中津市でも多くの官兵衛フアンの皆様が訪ねて来られています。

中津城黒田の石垣傍の、「官兵衛・光姫像」も観光客の皆様の写真スポットとして大忙しです。

お正月にはお近くに来られましたら、ぜひお寄り下さい。

官兵衛公もきっとお喜びになることと思います。

来る年2017年が皆様にとって、今まで生きて来た年月の中で、最も記憶に残る素晴らしい年になりますように祈念申し上げ、お礼の言葉とさせていただきます。

一年間ご愛読して戴きありがとうございました。

これからも黒田官兵衛公のブログを宜しくお願い申し上げます。

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黒田官兵衛(如水)と高取焼4 ぐい呑み

2016-12-26 08:54:14 | Weblog

高取焼のぐい呑みです。

藤香会(黒田家家臣のご子孫の方々を中心に、黒田武士を顕彰する会)の記念行事で戴いたものです。

黒田家の家紋入りで、色合いといい、形といい、何か上品な趣がします。

末永く手元に置いて、ハレの時に取り出してまずは一献。

そのかみの黒田官兵衛(如水)、長政公を偲びつつ美味しいお酒を戴きましょう。

 

 

 

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黒田官兵衛(如水)と高取焼3 窯マップ

2016-12-18 08:40:54 | Weblog

黒田官兵衛(如水)と長政が文禄・慶長役(1592~1598/朝鮮征伐)の際、朝鮮人の陶工八山を日本に連れ帰ったことから始まった高取焼ですが、初期の窯の様子はまだ謎の部分が多く、良く分かっていません。

この地図では窯の年代が1580~1860年となっていますが、黒田家がこの地を治めたのは、豊前国六郡から筑前に転封した1600年(関ヶ原の合戦勝利)以降ですから、間違いだと思われます。

1600年までは豊前国中津城(大分県中津市)に居ましたので、高取焼の窯はそれ以降です。

ただ、文禄・慶長役(1592~1598)の折に朝鮮から連れて帰ったことから、陶工たちは中津(大分県)に1600年まで滞在したので、その間領内の何処かで官兵衛のために窯を創り、作陶していたことは想像に難くはないと思われます。

察すれば、高取焼のルーツは中津(官兵衛の豊前国六郡時代)ではないかという思いに至りますが如何でしょうか?。

ただ、1580年から窯があったとすれば、朝鮮の陶工八山ではなく、それ以前に別の陶工が窯を築いたとも考えられます。

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