黒田八虎・黒田図書助直之(1564~1609)

2007-12-28 11:01:15 | Weblog
黒田図書助直之は如水の異母弟で播磨において如水とともによく戦い、後に秀吉、秀長に仕え、如水が九州征伐の恩賞で豊前中津に入国後、黒田家に戻り4千5百石を賜る。中津城下の教会で洗礼を受け如水、長政、利高とともにキリスト教の信者となるが直之がもっとも敬虔な信者であり、天正18年の小田原北条攻めでは北条家の家臣由良氏の娘を娶りともに洗礼を受け熱心な信者となった。朝鮮の役、石垣原(大分県別府市)の合戦、富来(とみく/大分県国東町)城、安岐(あき/大分県国東安岐町)城攻めに従戦し、接収した久留米城(福岡県久留米市/城主毛利秀包もクリスチャンであったが訳あって関が原の合戦では西軍に付くも、もしその間東軍の武将が攻めてきて久留米城の攻め手の中にに黒田如水が居れば速やかに城を明け渡すようにと家臣に言い残し関が原に出兵していた)の城番を命じられる。久留米はキリスト教徒が多く如水の配慮であった。筑前入封後は秋月城主として1万2千石を拝領。秋月城下にはキリシタンが多勢保護されていた。慶長18年徳川幕府がキリシタン禁教令を発布、長政は即教会を閉鎖した。先に没した父如水についても記録上ではキリシタンの棄教を装い、キリシタン臭を消し、また長政は福岡城の南蛮造りの天守閣を壊し黒田家は生き残りのためキリスト教の痕跡を消すことに必死となり幕府に恭順の姿勢を示した。どうにか黒田家が転封を免れ明治まで続いたのは藩祖如水と初代藩主長政の武勲によるところが大であるが時代が変わっても藩の存続を賭けて歴代の藩主や家臣達が黒田家を必死で守りぬいた。
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