水早 -mizuha- 神社と写真と一人旅。

カメラ片手にゆるり神社めぐり。
公共機関&徒歩での日帰り参拝記録をメインに綴っています。

続) 合う神社、合わない神社

2016-01-04 | 夢うつつ

 

 

あっという間に三が日が過ぎ、我が家は早々に平常運転です。

元日の初詣では、静かな境内でとても穏やかな時間を過ごすことができ、

心身ともに清められて幸先のいいスタートを切ることができました。

 

地方の山あいにひっそりと佇むひとけのない神社は、

17時近くという微妙な時刻だったのにもかかわらず、

境内はどこも清らかでした。

日没直前の薄暗さは全く問題ではなく、

山林の中にある御祭神の陵墓といわれる場所ですら、光を感じられる。

どんな環境下であろうと清々しい気持ちになれることに

あらためて神域の力のすごさを感じました。

 

そんな参拝ついでにふと頭に浮かんだ、神社との相性の良し悪し について、

この機会にちょっと記事にしてみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

よく、

相性のいい神社とかってあるの?と時々聞かれる事があるんですが、

基本的には、相性の良し悪しなんて無い と思っています。

 

合う合わないと難しく考えるより、単に、「好きと感じるか否か」。

そこを基準にして参拝すれば何も問題ないといつも答えています。

 

写真を見たり、境内に自分がいるところを想像したときに、どう感じるか。

きれい、明るい、素敵、清らか、心地よい、楽しい、うれしい、行きたい・・

そう思えたら、きっと好きな神社。

同様に、

実際に神社の前に立って(or境内に足を踏み入れて)、どのように感じたかも。

 

もし、

何か変なかんじがする、落ち着かない。清浄さがない。暗さを感じる・・

そんな印象を受けたら、素直にやめておけばいい。

 

なんか単純なようですが、それが基本中の基本です。

視える視えないは別にして、いちばん大事なのは直感だと思います。

 

 

 

 

その直感に、根拠の薄い「理屈」を加えようとすると、何やら面倒なことになってきます。

 

神社で蝶が舞っていたから歓迎されてるとか、

蛇を見かけたから呼ばれているとか、

ついつい結び付けたくなるものなんですが、

正直それって別に特別なことでも何でもなくて・・。

 

ちなみに私が神社で遭遇するものベスト3は、

 1:蝶 (黒、白、黄色・・。ほぼ毎回とんでる。)

 2:蚊 (夏は100パー。水場はこれにメマトイが参戦して突撃してくる。orz)

 3:とかげ、ヤモリ、ヘビ (都心部じゃなければ必ずいる)

 

蝶なんて、場所柄とんでるのが当たり前だと思ったほうがいいし、

ちょっと地方に行けば爬虫類も普通にいるので。 

(時期にもよりますが、乱舞する蝶々に出会いたい人は真名井神社など如何でしょう。)

 

どうせなら、挙式とか七五三とか、

もう直球で幸せ100%なものに出会った時に、

「なんてラッキーなのかしら」と喜ぶほうがいいかも。

 

ただ、プラスの印象が持てるんだったら、こじつけもアリかもしれませんね。

歓迎されてると思える = 好き ということで。

 

 

 

 

あと、○○系などといった家系的な部分が気になる人もいるかもしれませんが、

そんな系統別や敵味方の相性なんて、ほぼ存在しないと気楽に思っとけばOKです。

 

御先祖さんのはじまりは両親(2人)であり、誰しもその2人の血を50%ずつ受け継いでいます。

2代前の祖父母(4人)からは、25%ずつ。

3代前の曾祖父母(8人)からは、12.5%ずつ。

4代前の高祖父母(16人)からは、6.25%ずつ・・。

さかのぼる程に血が薄くなり、7代前(128人)になると1%以下。

10代前の御先祖さん(1,024人)の血だと、0.01%。 ほぼゼロです。

 

そう考えると、血族とはいえ10代前なんて他人も同然。

代々平均25才で子が生まれたとして、自分の場合10代前と言うと250年前。

江戸時代の中期あたりですよね。

たった250年前の先祖の縁ですら、良くも悪くもとっくに薄まっています。

 

恨みつらみの多かったであろう戦国時代なんて、

そこからさらに250年ぐらいさかのぼるから、20代前あたり。

その当時の先祖の数だけみても、105人ほどになります。

(105万っていうと、仙台市あたりの人口と同じぐらいかな?)

戦国時代に生きていた、互いに縁もゆかりもない105万人が、自分の先祖なのです。

 

 

しかし同時に、

1代~10代前までの御先祖さんを全部足すと、累計 2,046人。

20代前までの累計となると、なんと200万人以上もの血を受け継いでいる事になります。

私の住んでいる名古屋市の人口は、228万6千人強ですから、

それに近い数の人間が、500年後の自分へとつながっているわけですね。

 

500年前から現代までの、合計 200万もの人たちが自分の先祖。

そうなるともう、誰が誰とつながってるのか訳わからん状態。

因縁も御縁も、いいかんじにゴッチャになって共存してきたんですから、

もはやホームもアウェイもありません。

 

 

ここで「先祖」を「子孫」に置き換えてみると

代々こどもが二人うまれたとして私の子孫は250年後までの累計で2,046人。

500年後なら、計200万人もいることになります。

 

仮に、私がどこかの誰かを恨んだとしても、

その人の子孫は10代後までに2,000人を超えてるわけで、

たとえ私が超強力な呪い(笑)を放てたとしても、全員に行き渡らせる自信はありません。

せいぜい「直系子孫」の3代目あたりまで?(笑)

 

現実的には7代前でギリギリ 「血のつながりがある(血の濃さ1パー)」 と言えるでしょうから、

いわゆる 『7代末まで祟ってやる~』 てのも理にかなってるのかもしれませんね。

 

 

というわけで、

『私は嫡流直系子孫で、代目当主です。』 という人ならまだしも、

あとはもうほとんど全てが、「その他大勢」 ですから、

あちらからすれば、『・・・だれ?(・ω・?)』 って感じでしょう。

こっちが勝手に気にしてるだけで、

向こうにとっては、くさるほどいるうちの一人なので、ぜんぜんヘーキ。

大丈夫

 

それに有名どころの武将や歴史上の人物だからこそ、

もうあらゆる所で長年に渡り手厚く祀られ続けてきてるから、とっくに成仏してるでしょう。

些細なつながりを見つけて攻撃してくるほど、器の小さい人たちではないはずです。

過剰に気にして、小さな不安要素を 「神社からの拒絶サイン」 に結び付ける必要は

無いとおもいます。

 

○○塚の祟り」 といった類のもののように、

何かを破壊するだの失礼な行いをするだのでない限り、

ごく普通にマナーを守って参拝するだけなら、何も問題ないと考えています。

 

 

 

 

もうひとつは、タイミング的なもの。

 

行こうと思うたびに用事が出来て行けなくなるとか、

○○系の神社に行くと必ず雨が降るなどという事もありがちですが、

何か良くないことが続くと、やたらとそこに「理由」を見出したくなるのが人間です。

でも、因果関係が必ずしも存在するとは限らないし、

さらには霊的な部分にそれを求めてしまうのは、ちょっと違うかなーと思います。

 

運命や天候をも動かしてしまうほど、その神さんが自分一人を敵視してるのだろうか。

逆にいえば、それほどまでに自分は物凄い存在なのだろうか・・。

 

たぶん、気のせい。たまたまです。

そう思いたいだけです。

また次の機会にしようって気楽に考えればいい。

 

逆に、

急に行きたくなる。

なんか気になる。

・・そう感じたら、思うにまかせて参拝すればいいと思います。

時期的にもベストなんでしょうから、

これも素直に自分の直感を信じればOKじゃないでしょうか。

 

行きたいと感じたときが、行く時。

思い立ったが吉日です。

しいて言うならそれがご縁なのでしょう。

タイミングを逃すと、何年も先延ばしになってしまうかもしれませんし。

(実際私も、あの時だったから行けた という神社が結構あります)

誰しも、明日元気に生きてるって保証はないのだから、

できるうちにやっとく。

物事がスムーズに運んだり偶然が重なったりして、やたらご縁を感じるようなら、

それを好機と思って素直に足を運べば良いのだと思います。

 

私も、

夢で知らない神社が出てきたり、日常的にふと何しらのご縁を感じる事などがあると、

本能的、潜在的に惹かれているんだろうなーと思って、参拝しています。

心の中にあるアンテナに引っかかったのなら、

自分にとって素敵な場所に違いないと。

また、どんな遠方であろうと、参詣も移動も恐ろしいほどスムーズに運ぶし、

毎回、分単位の公共機関乗り継ぎを繰り返しているのに、

乗り遅れたり電車が遅延したりというハプニングは一度もありません。

なので、怖いくらいタイミングいいなーと思うことは多々あります。

 

しかし、だからと言って、

「神社に呼ばれてる」とか、「神さまが来いと言ってくれている」

とまで思うことはありません。

そこまで考えてしまうと妙なこだわりが生まれてしまうし、

そんな、お呼ばれしちゃうほど自分が特別なわけないしね。

今日もいい参拝ができたなーって、しみじみ思うだけです。

 

相性の良し悪しにこだわって理由を探そうとするより、

自分がその神社を好きなのか、参拝して心地よかったのか、

そんな感覚的な部分を大切にするほうが、よっぽど自然で健全だと思います。

 

直感に従って訪れた神域で癒されながら、日々の平穏を感謝する。

そこでようやく縁が生まれるのではないでしょうか。

 

そうやって参拝を繰り返していると、

時折、神さんがお土産を下さることがあります。

いわゆる、良縁とか御利益とか。

だいたい参拝直後あたりに戴けるので、わかりやすいです。

なので、

何ケ月も後に起きた幸・不幸は、神社のせいでも神さんのおかげでもない。

ただのこじつけに過ぎない部分が大きいので、

良くも悪くも気にしないことです。

 

 

 

 

さて。

 

神社はそもそも、

神職さん、氏子さんたちの日々の御奉仕や、参拝者の志といった、

多くの人の崇敬の念により、何百年ものあいだ清浄に保たれてきた場所です。

 

特に、地域の方々による深い信仰心がなければ、

今日までこの素晴らしい姿を維持することは出来なかったはずです。

金銭面や生活面においても、それは大変なことであったろうと思います。

 

天災や飢饉、兵火、さまざまな困難を乗り越え、

人々が思いをつないで大事にしてきた神さま。

私がどれだけ神社や神さんが好きでも、

氏子さんや篤信者らの深い思いには、絶対にかなうことは無いと思っています。

 

よそから来た者の、相性云々を気にする気持ちなんて尚のこと、

そんなんどーでもいいよwってぐらい浅くて、取るに足らない問題でしょう。

 

たいした問題じゃないからこそ、

「なんか良いなあ~」っていう思いだけで参拝しても、

神さんは拒絶したりなんかしない。

真摯に手を合わせる気持ちとマナーさえ持ち合わせていれば、

どんな人でも迎えてくれるはず。

 

 

自分との相性云々にこだわるより、

その積み重ねられた思いに感謝しつつ手を合わせることが、

神社とつながる第一歩じゃないかなと思います。

 

 

 

 

 

八百万の神は、身の回りのどこにでもいる身近な存在で、

何も神社でなくとも、その存在に思いを馳せ、感謝することは出来るはず。

さらに現実的な見方をすれば、ほとんどの御祭神はかつての有力者(人間)なんで、

亡くなった方に手を合わせるのに、特別な理由も関係性もいりません。

 

人でも物でも場所でも、

好きと思える対象は、自分からみて本質的に合うものです。

合うからこそ好きになる。

人と人の関係で言えば、それはまだ片思いの段階であり、

相手もこちらを好きと思ってくれたら両想い。

ここではじめて「相性が良かった」となる。

 

そんなふうに、相性とは「互いに合うかどうか」なので、

まだ会ってもいない、意思を伝えてもいない段階で、

「この神社と相性いいのかしらぁ」なんて先走ってたら、

上手くいくものもいかなくなっちゃう。

そもそも、恋愛や一般的な人間関係とは根本的に違うのだから、

神社や神さんが受け入れてくれるのか(両想いになれるか)という事まで

気にする必要はないと思います。

そんなん、実際に会ってから考えたらいいんじゃないでしょうか。

 

振り向いてくれない片思いの相手とは違い、

基本、神さんはウェルカム状態。

自分に手を合わせ、話しかけ、マナーを守って参拝してくれる人となら、

誰とだって両想いになってくれるはず。

タイミング悪くても、頑張ってチャレンジして来てくれたり、

因縁などの不安を抱えつつも境内に足を踏み入れてくれたとしら、

なおさら嬉しく思うのではないでしょうか。

 

もし、加護や守護を本気で神社に求めるならば、

一番大切にすべきなのは自分が住んでいる地域の氏神さまです。

神社のご祭神は本来、氏子地域および氏子を守るもの。

テリトリーの外から来た参拝者を拒むことはないけれど、

やっぱり第一は自分とこの氏子さん。

なので、あなたを一番かわいがってくれるのは、あなたの氏神さんです。

 

 

そんなわけで、

スピ系に傾倒している方には物足らない結論かと思いますが、

唯一の判断基準は、好きかどうかの直感だけ。

それで十分だと思います。

 

( 合う神社・合わない神社 追記 →  )

 

 

 

 

 

 

 


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