クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

歌劇<ナヴァラの娘>

2008年01月27日 | 作品を語る
前回語った歌劇<タイス>からの連想で、今回のトピックは同じマスネの歌劇<ナヴァラの娘>(1894年)。参照演奏は、ヘンリー・ルイス指揮ロンドン交響楽団、他による1975年のRCA録音である。

―歌劇<ナヴァラの娘>のあらすじ

〔 第1幕 〕

1870年代のはじめ、内戦下のスペイン。政府軍を指揮するガリード将軍(Bar)が、不利な戦況を嘆いている。やがて、軍隊が激しい戦闘から帰還。アニータ(SまたはMs)は、その行進の中から恋人アラクィル(T)の姿をやっとの思いで見つけ出す。2年前の出会いから永遠の愛を誓い合っている二人だが、アラクィルの父親(B)はナヴァラ出身という“よそ者”のアニータが気に入らず、「わしの息子と結婚したいなら、2000ドゥロスの持参金を用意しろ」と過酷な要求を突きつける。そのような金を、孤児のアニータに用意出来るはずもない。

(※全曲の演奏時間が約48分というこの短いオペラは、当時イタリアでもてはやされていたヴェリズモ・オペラの流儀を使って書かれたものだ。そのことは、冒頭の前奏曲からすぐに分かる。いかにも一大悲劇の開始を告げるような、重厚にして悲壮感漂う音楽が流れるのだ。聴きながら、「おおっ、いきなり最初から来るか」と思わずニンマリ。)

(※第1幕前半部で音楽的に面白いのは、出会った時のことを回想するアニータとアラクィルの二重唱で、その背後に流れるオーケストラ伴奏。これはスペイン情緒が巧みに醸し出された、実に味わいのある音楽になっている。マスネ先生は、こういうのが本当に上手である。この二重唱の後、アラクィルの父親が加わってのやり取りとなるのだが、その三重唱では再びイタリア・ヴェリズモ風の“どべぐしょーっ!”サウンドが炸裂する。w )

親友の戦死を知って打ちひしがれたガリード将軍は、「敵軍の指導者ツッカラーガを倒した者には、金と名誉をいくらでも与えよう」と口にする。何とかして結婚の持参金を作りたいアニータは、その役目を引き受けようと名乗り出る。そして、この契約を秘密にすることを、将軍に約束させる。アニータが出発した後、彼女を探すアラクィルは同僚のラモン(T)から思いがけない話を聞かされて、驚く。「アニータは、ツッカラーガに会いに行ったそうだ」。不安と疑いの念に苛(さいな)まれるアラクィル。「彼女は、敵のスパイだったのか?それとも、まさか・・」。

(※上記のような展開の後、兵士たちが酒を飲みながら陽気に騒ぐ場面となる。これは、一種のディヴェルティスマン・シーンと言ってよいものだろう。男声合唱を中心にした景気の良い音楽が、オペラの舞台に華を添える。弦のピチカートが刻むリズム、そして手拍子を間に挟んだ意気の良いコーラスが、いかにもスペインらしい雰囲気を作り出し、聴く者を楽しませる。ちなみに、今回参照しているルイス盤では、この場面だけで活躍する下士官ブスタメンテの役を、ガブリエル・バキエが演じている。なかなか贅沢なキャスティングだ。)

〔 第2幕 〕

女と思って気を許したツッカラーガを、見事に刺し殺したアニータ。帰還してその報告をする彼女にガリードは賞金を与え、「約束どおり、このことは俺が死ぬまで秘密にしておいてやるよ」と、アニータに改めて誓う。「これで、私にも幸せが・・」と喜ぶアニータだったが、そこへ瀕死の重傷を負ったアラクィルが運び込まれてくる。彼はアニータがツッカラーガの情婦になったものと思い込み、彼女を連れ戻そうと敵地に乗り込んでいたのだった。そこで撃たれたのである。

アニータが大金を持っているのを見るや、アラクィルはますます疑念を深め、彼女をののしる。「お前は、ツッカラーガに身を売ったんだな」。そうじゃないわ、と必死に否定するアニータだが、アラクィルの疑念は晴れない。やがて、遠くから弔いの鐘が聞こえてくる。ラモンがやってきて、「ツッカラーガが、暗殺されたぞ」と皆に伝える。その時、アラクィルはアニータの手が血で赤く染まっていることに気づき、事の真相を悟る。「そうか、その金は・・・。なんと恐ろしいことを」とうめきながら、アラクィルは息絶える。アニータは愛する人の亡骸にすがり、「アラクィル、お金は用意したわ。教会へ急ぎましょう。幸せはすぐそこよ」と言って、すすり泣く。しかし、その様子を見ていたガリード将軍は、彼女の精神状態がもはや普通ではなくなっていることに気付く。不幸なナヴァラ娘がやがてゲラゲラと狂い笑いを始めるところで、全曲の終了。

(※前回語った<タイス>から、今回の<ナヴァラの娘>が連想された理由は、まさにこのラスト・シーンにある。タイスは第2幕第1場のエンディングで、まるで狂ったように笑い出した。一方、ナヴァラの娘は、ドラマの最後に本当に狂って笑い出すのである。)

(※今回参照しているルイス盤では、主人公のアニータをメゾ・ソプラノのマリリン・ホーンが歌っている。彼女は肉太でアクの強い声の持ち主だが、逆にそうであるからこそ、この不幸な娘の役にはドンピシャの歌手であると言ってよいように思う。オペラの全編にわたって役になりきった熱演が聴かれるが、特にラスト・シーンでの笑い声、これはもう真に迫って怖いほどである。恋人アラクィルの役は、若き日のプラシド・ドミンゴ。ここでも見事な出来栄えを見せる。この人のフランス物は、その声質から暑苦しい印象を与えることが少なくないのだが、ヴェリズモ・タッチで書かれたこのようなオペラには非常によく似合う。ガリード将軍は、シェリル・ミルンズ。いつものことながら、まあまあの出来。)

(※指揮者のヘンリー・ルイスも、非常に良い仕事をしていると思う。ロンドン響という、日頃オペラとはあまり縁のないイギリスのコンサート・オーケストラから、こってりした濃厚なヴェリズモ・サウンドを引き出すことに成功している。先頃ちょっと本で調べてみて分かったのだが、この人はアメリカの黒人指揮者だそうだ。元々はロサンゼルス・フィルのコントラバス奏者としてキャリアをスタートし、1955年に兵役に就く。そこでシュトゥットガルトの第七陸軍楽団の音楽監督を務め、名指揮者ベイヌムに認められて、教えを受けた。除隊後ロサンゼルスに復帰し、急病となったマルケヴィッチの代役で指揮をして成功を収める。そこからボストン響、ニューヨーク・フィル、さらにはメトロポリタン歌劇場などへと活躍の場を広げていったらしい。ただ、録音には恵まれず、LP時代から一般に流布していたのは、今回採りあげた<ナヴァラの娘>全曲ぐらいしかなかったようである。デッカにR・シュトラウスの<ツァラトゥストラ>などの録音もしていたそうなのだが、すぐにカタログから消えたようだ。ちなみに、この<ナヴァラの娘>で主演しているマリリン・ホーンは、彼の奥様であるとのこと。)

―という訳で、次回もマスネのオペラ。前回語ったマゼール盤<タイス>に出ていたビヴァリー・シルズとニコライ・ゲッダの共演による別の全曲CDを中心材料にして、マスネの代表作の一つを採りあげてみることにしたい。
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歌劇<タイス>(2)

2008年01月13日 | 作品を語る
前回の続きで、マスネの歌劇<タイス>。今回は、その後半部分の内容。

〔 第2幕第2場 〕 タイスの邸前の広場 

夜明け前。アタナエルとタイスの二人。「信仰の道に入ります」と決意を語るタイスに、アタナエルは尼僧院のある方向を示す。そして、「世俗の垢(あか)を捨て去るために、そこへ行く前に邸も財産もすべて焼き払うのだ」とタイスに厳しく命じる。

変わって、ニシアスが仲間たちとパーティ騒ぎをしている場面。ディヴェルティスマン(=お楽しみ)の音楽が次々と流れる。そこへ、質素ななりをしたタイスを連れてアタナエルが登場。「彼女は神の子に生まれ変わった」と居合わせた者たちに告げる。驚き怒った人々がアタナエルに向けて石を投げつけるが、やがてタイスの邸から炎が上がるのを目にして、皆呆然となる。タイスの決意がただならぬものであることを知ったニシアスは、いきなり金貨をばら撒いて人々の注意をそちらに向け、二人をその場から逃がしてやる。

(※この第2幕第2場の冒頭では何とも異国情緒溢れるメロディが流れて、「気分はエジプト」にさせてくれるのだが、これがいわゆる“異国オペラ”のお約束。別に本物のエジプト音楽を使う必要はなく、なんかそれっぽいね、でいいわけである。w 主役二人のやり取りに続くニシアスたちのディヴェルティスマンでは、まさに絢爛豪華な音楽が展開。ダイナミックな前奏曲、手拍子に乗って流れるエキゾティックな旋律、優雅な舞曲と爆発的な舞曲、さらにはポンキエッリの『時の踊り』を思わせるような一節等、作曲家の充実した筆が冴えわたるところ。)

(※金貨をばら撒いてタイスとアタナエルの二人を逃がすニシアスに、私はちょっとカッコイイものを感じるが、今回採りあげているマゼール盤で同役を歌っているニコライ・ゲッダはまさに圧巻。オーケストラと合唱の大音響が轟く中、彼は際立った存在感を示す。ほとんど、主役の二人を食ってしまっているほどだ。)

〔 第3幕第1場 〕 砂漠の中のオアシス

照りつける太陽。激しい疲労を訴えるタイス。彼女の白い足から血が流れているのを見て、アタナエルは傷口に唇を寄せる。目的地となる尼僧院を指差してタイスを励ますと、アタナエルは井戸の水を汲みに行く。「あの方は厳しいようでも、親切な方」と、タイスは幸福を感じる。ほどなくしてアタナエルが水と果物を持ってくると、タイスは喜んでのどを潤す。やがて、尼僧院長アルビーヌ(Ms)と修道女たちが現われ、二人を迎える。彼女らにタイスを託したアタナエルは、「これで、私の使命は果たされた」と安堵するが、「さようなら、永遠に」というタイスの言葉を耳にした瞬間、彼は愕然とする。「永遠に・・もう会えない?」。

(※このオペラの場合、主役男女の特殊な関係性から、一般的な意味での「愛の二重唱」は求められない。しかし、この砂漠の場面では、ささやかながら、それらしきデュエットを聴くことができる。ちょっと貴重なシーンである。)

(※第3幕第1場の最後、「永遠に、さよならだって?」と、愕然とする思いを吐露するアタナエルの歌の背景に、あの『瞑想曲』の美しい旋律が流れる。で、これがまた、実に切なそうに流れる。どうやらこの名旋律は、単に「逸楽と信仰の間で揺れ動くタイスの心」を描いているだけでなく、アタナエルの煩悩や身悶えをも表しているようである。このあたりは、全曲を聴いてこそ感じ取れる部分であろう。やっぱりオペラは全曲よね、である。 )

(※今回参照しているマゼール盤では、シェリル・ミルンズがアタナエルを歌っている。ゲッダの名唱、シルズの熱演に比して全体にいまひとつの印象をもたらす彼ではあるが、この場面での歌唱は大変に素晴らしい。泣き声混じりの歌い方が見事ツボにはまって、非常に強い感銘を与える。)

〔 第3幕第2場 〕 ナイル河畔にある修道士たちの小屋

放心状態のアタナエルが帰ってくる。「タイスの魂を救ったが、私は彼女の虜になってしまった」と、彼は長老パレモンに告白する。若き修道士に神の加護を祈り、長老は立ち去る。やがて、一人になって眠りについたアタナエルは、闇の中でタイスの幻影を見る。彼に甘い誘惑の言葉をささやいて、幻は消える。しかしその後、「タイスが天に召される」という女声合唱が響き、天使たちに囲まれるタイスの姿が見えてくる。「タイスが死んでしまう!会いたい!彼女がほしい」と、アタナエルは半狂乱になって外へ飛び出していく。

(※かつてアタナエルを誘惑したタイスの幻影と嬌声、それに続く天上の女声合唱、そして我を忘れて外へ飛び出すアタナエルの疾走と、この第3幕第2場は短いながらもダイナミックな場面展開を持っている。音楽的には、アタナエルが狂ったように走り出す場面でのたたきつけサウンドが迫力満点。)

〔 第3幕第3場 〕 修道院の中庭

木陰に横たわるタイス。修道女たちの祈りの歌。尼僧院長アルビーヌが、これまでの3ヶ月間にわたるタイスの祈りと贖罪(しょくざい)の日々を回想する。やがて駆けつけたアタナエルに彼女は、タイスの死期が近づいていることを告げる。タイスとアタナエルの再会。アタナエルからの熱烈な愛の言葉も、もはやタイスの耳には入らない。真の安らぎを得た喜びを歌い、神の名を呼びながら、タイスは静かに息を引き取る。その亡骸にすがりつきながら、アタナエルは苦悶の叫びをあげる。

(※この最終場の冒頭で再び『瞑想曲』の旋律が流れるが、それは途中から変容を遂げ、あたかも浄化の音楽のように聞こえてくる。タイスとアタナエルの最後の出会いの場も、この名旋律が美しく効果的に彩る。)

(PS) アナトール・フランスの『舞姫タイス』

娼婦が聖女となるタイスの物語は、10世紀にドイツのとある修道女によって書かれたものらしい。それが後に作家アナトール・フランスの詩(1867年)となり、さらに小説(1890年)になったのだそうだ。小説の方は現在数種の日本語版が出ているが、今私の手元にあるのは、白水社刊『舞姫タイス』(アナトール・フランス著 水野成夫・訳)である。

原作を読んでみると、オペラの台本からカットされた部分、逆にオペラの方だけに見られる場面等、当然のことながら、いくつかの相違点が見つかる。中でも特に大きく違うのは、タイスを信仰に導きながらも自らは迷いに堕ちてしまう修道士の設定である。オペラに登場する青年僧アタナエルは、原作ではもっと歳のいったパフニュスという名の人物。彼はなんと、24人もの弟子たちを抱える立派な修道院長さまである。本稿の締めくくりとして、同書巻末の解説(堀江敏幸氏によるもの)から、この原作とマスネ歌劇との関連に触れた箇所の周辺を、抜粋・編集して書き出してみることにしたい。

{ 結論から先に言えば、これは少年の日の純愛に近い肉体への憧憬を、最後の最後まで見誤っていた冴えない男の片思いにほかならず、ほんとうはすぐにも抱きたい気持ちを、知識と信仰の枷(かせ)で押さえつけていただけの、悲しき恋愛譚なのである。

・・・この誉れ高き修道士が、タイスの幻影のまえに、あるいは本物のタイスのまえに、いつ屈するか。物語の興趣はそこに尽きると言っていい。周知のように、淫蕩の陰に隠れていた踊り子の聖性と、恋を知ったあわれな修道士の堕落のうち、前者をより美しく、後者をより若々しくすれば、マスネが作曲した3幕のオペラになる。・・・現在『タイス』といえばむしろマスネの作品であり、原作者の影はきわめて薄い。「わが幸薄き踊り子を、あなたはもっとも抒情的なヒロインのひとりに高めて下さった」と、アナトール・フランスはマスネに礼を述べているほどだから、翻案には何ほどかの真実が正確に転写されていたのだろう。

しかし、・・・マスネの歌劇には、身悶えするたびにパフニュスの額にうかびあがり、掌をじっと湿らせる、なまぐさい汗の臭いがない。これに対して、アナトール・フランスは、屁理屈の展開に力を注ぎつつ、パフニュスとともにしっかり汗をかいている。宗教の教義と理性のフィルターを通過してにじみ出る汗を、いっしょに味わっている。美しい二重唱では再現できない、むさ苦しいまでの粘液感がある。・・・だとすれば、読者もまた、それに倣うべきではないか。途中から一挙に聖性をまとっていった舞姫にではなく、彼女に惚れた男の掌の脂汗のごとき欲望に寄り添ってこそ、このおどろくべき仮想情痴小説は真価を発揮するに違いない。 }

―以上で、歌劇<タイス>は終了。という訳で(←何が?)、次回もマスネのオペラ。第2幕第1場の終わり部分で狂ったように笑い出すタイスの姿から、ふと連想された作品を採りあげてみることにしたい。
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歌劇<タイス>(1)

2008年01月06日 | 作品を語る
前回まで語った歌劇<エロディアド>からのつながりで、今回のトピックは歌劇<タイス>。これは、マスネが書いた代表的な“異国オペラ”である。以下、いつものように、全曲の中身を順に見ていくことにしたい。(※参照演奏は、ロリン・マゼール指揮ニュー・フィルハーモニア管、他による1976年のEMI録音。)

―歌劇<タイス>のあらすじ

〔 第1幕第1場 〕 ナイル河畔にある修道士たちの小屋

修道士たちが神への感謝を捧げつつ、食事をしているところ。そこへ布教活動の長旅からアタナエル(Bar)が帰還し、仲間たちに自分が見聞きしてきたことを語る。「アレクサンドリアの町は、腐っている。タイス(S)という遊女がいて、男たちを地獄に落としている」。さらに彼は、「私もかつては、彼女に惹かれた。しかし、信仰の道に入って平安を見出した。彼女の魂を救ってやりたい」と続ける。それを聞いた修道士の長老パレモン(B)は、「世俗の者たちとは、関わらない方がよい」と諭す。

その後眠りについたアタナエルは、幻影を見る。アレクサンドリアの劇場で、半裸のタイスが踊っている場面だ。それはやがて露骨で煽情的なものになっていくが、幻は突然消え、夜明けの光が差し込む。目を覚ましたアタナエルは、「何という恥!恐ろしいことだ」と苦悩する。信仰の道へタイスを導くことが自分の使命だと決意したアタナエルは、再び退廃の町アレクサンドリアへ向かう。

(※アタナエルの夢の中でセミ・ヌードのタイスが踊りだすところは、さすがに音楽も官能的なムードを漂わせる。しかし、やはりここは映像があってこそ楽しめるシーンだろう。私は残念ながら、マゼールのCDしか知らないが・・。)

〔 第1幕第2場 〕 アレクサンドリアの海岸にあるニシアスの豪邸

貴族ニシアス(T)は、アタナエルが出家する前に付き合っていた友人である。みすぼらしい姿で豪邸を訪れたアタナエルに、ニシアスは懐かしそうな様子で挨拶を交わす。「娼婦タイスの魂を、救ってやりたい」という旧友の言葉を面白く感じた彼は、じゃあ手伝ってやるよと、二人の奴隷女に命じてアタナエルに化粧を施し、きれいな衣装を着けさせる。

そこへ、タイスがやってくる。彼女はニシアスを相手に愛の歌を歌った後、そこに立っている見慣れぬ好青年に興味を示す。アタナエルは早速信仰を説き始めるが、彼女の方は笑って取り合わない。それどころか、「私が信じるのは、愛だけよ」と、アタナエルを誘惑しにかかる。「その手に乗るものか」と必死に抵抗するアタナエルだが、前に夢で見たときのような姿をタイスが見せると、彼は恐怖を感じてその場から逃げ去る。

(※ここで最初に流れる前奏曲は、たいそう素敵である。巧みな管弦楽法によって、いかにもそこが海に臨んでいる場所であることをイメージさせてくれる。さすがは、マスネ先生。ちなみに、この音楽は「これが、恐ろしい罪業の町だ」と歌うアタナエルのアリアにも、効果的な伴奏として使われている。)

〔 第2幕第1場 〕 タイスの邸

取り巻きの者たちを追い払って、一人になったタイス。彼女は鏡を前にして、「本当の幸福とは何か」を自らに問い、女神ヴィーナスに永遠の美を祈る。そこへアタナエルがやって来て、彼女に肉欲ではない精神の愛を説く。タイスはやがて、青年の真剣な説得に心を動かされ始める。やがてアタナエルは借り物の衣装を脱ぎ、自分の正体を明かす。「私はアタナエル。アンティノエの修道士だ」。

情熱的な修道士に向かって、「あたしも、好きでこんなことをしているわけではないわ」と憐れみを乞ううちに、タイスは魂が洗われるような気持ちになってくる。しかし、邸の外からニシアスの声が聞こえてくると、彼女の心は激しくかき乱れる。そして、「朝まで外で待っているぞ」というアタナエルの強い言葉を聞くや、タイスはついに錯乱状態に陥る。

(※タイスの逸楽を表現するような木管の陽気なパッセージに続いて、物思いに沈み始めるヒロインの姿を不安げな弦が描く。ここから「鏡の場」と呼ばれるタイスの聴かせどころが始まるが、それも含めて、第2幕第1場は、このオペラの音楽的ハイライトになっているようだ。特に、アタナエルが自ら正体を明かすところからタイスが錯乱するラストに至る展開はまさに圧倒的で、音楽がまるでヴェルディのオペラみたいな爆発を起こす。マゼール盤のニシアス役はニコライ・ゲッダ、アタナエル役はシェリル・ミルンズ、そしてタイス役はビヴァリー・シルズだが、それぞれに熱演だ。ここではとりわけシルズが凄く、ラスト・シーンで彼女は狂気のような笑い声をあげ、聴く者を驚かせる。そこへもってマゼールの指揮が、これまた疾風怒濤の猛タクト。w 正直言ってマゼールは全く私好みの指揮者ではないのだが、このオペラの演奏は非常にイケてると思う。)

―上記のような激しいエンディングを持つ第2幕第1場が終わった後、ヴァイオリン・ソロを主役にした美しい間奏曲が流れる。これは俗に、『タイスの瞑想曲』という名で知られる名品である。この曲だけなら知っている、という方も多くおられることと思う。ちなみに、マゼール盤では指揮者自身がこのソロを弾いているそうだが、さすがに堂に入ったものである。(※但し、ここでの演奏はあくまでオペラの間奏曲としてのものであり、コンサート・ピースとしての扱いにはなっていない。当然と言えば、当然かもしれないが・・。)

なお、CD付属の短い日本語解説によると、この有名な曲は、「逸楽と信仰の間で揺れ動くタイスの心を暗示するもの」であると書かれている。ああ、なるほど、という気はするものの、しかし、ただそれだけの使われ方で終わっているものでもなさそうである。そのあたりの補足はオペラの後半を聴きながら、ということで、この続きは次回・・・。
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