クラシック音楽オデュッセイア

2009年の大病以来、月1回程度の更新ペース。クラシックに限らず、身の回りの事なども、気の向くままに書いております。

ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>(1)

2008年09月25日 | 作品を語る
今回のトピックは、デンマークの作曲家カール・ニールセン【※注1】の歌劇<仮面舞踏会>(1906年・初演)。思いっきり有名なヴェルディの同名悲劇とは対照的に、こちらは至ってお気楽なコメディ・オペラである。

【※注1】 今回は<グアラニー>からのしりとりという形で、ニールセンと表記したが、この作曲家の名前はニルセンとつめて発音した方が原語に近いみたいなことを、どこかで読んだことがある。NHKも、ニルセンの方を採用しているようだ。ちなみに日本語版・ウィキペディアによると、ネルセンという表記もあるらしい。一応、参考までに。なお、これから並べるあらすじは、ウルフ・シルマーの指揮によるデッカの輸入盤CDに付いている解説書の英文を当ブログ主が抄訳したものなので、人物名等のカタカナ表記については必ずしも正確さを保証できるものではない。その点はどうか、悪しからず。

―ニールセンの歌劇<仮面舞踏会>のあらすじ

〔 第1幕 〕

舞台は、コペンハーゲン。1723年の春。若者レアンダー(T)と家来のヘンリク(Bar)が、午後5時にのんびりと目を覚ます。前の晩に参加した仮面舞踏会の興奮も冷めやらず、「今夜もまた、行くお」と、レアンダーは再び出かける構えで気もそぞろ。と言うのも、彼はそこで出会った娘と恋に落ちてしまったのである。しかし、ヘンリクは「あなたはお父様の手配どおり、レナード卿のご息女と結婚することになっております。その縁談を破棄するとなると、法的にいろいろと面倒なことになりますから」と、恋する男に注意を促す。そこへレアンダーの母マグデローネ(Ms)が現れ、彼女もまた仮面舞踏会に興味津々であることを打ち明ける。「私だって、踊りはまだまだ現役ですよ」。

(※内容が楽しいコメディということもあって、このオペラの序曲はさすがに華やか。しかしやはり、書いたのはカール・ニールセン。どこか仄暗く、重厚な響きを持った音楽で、北欧の交響曲作家の面目躍如といった感じの一曲になっている。一方、マグデローネがうきうきしながら歌う場面で聞かれるメヌエットの音楽は、思いがけず軽やか。)

続いて、レアンダーの父イエロニムス(B)が登場。「お前たちが仮面舞踏会へ行くのは、許さん」と、彼は一同に禁止令を出す。そして、息子がいまだにレナード卿のところに挨拶しに行っておらず、それどころか舞踏会で出会った見知らぬ娘に入れ込んでいるという話を聞くや、彼は怒り心頭。「何が仮面舞踏会だ。持つべき公共心も持っておらんのか」。するとそこへ、当のレナード卿(T)がやって来る。彼は何やら申し訳なさそうに、イエロニムスに話しかける。「実は、うちの娘が、貴殿のご子息との縁談に乗り気ではありませんで・・。ええ、なんでも、仮面舞踏会で出会った若者と恋に落ちてしまったなどと申しまして」。(←いきなりオチが見えてしまった方、しばらくご辛抱を。w )

(※ここで登場する厳格親父のイエロニムス。この人こそ、ドラマの原動力だ。ちょうど、モーツァルトの<後宮>に出てくるオスミンを思わせるような存在感がある。なお、今回参照しているデッカ盤は、そのイエロニムスを歌うオーゲ・ハウグランドの他、レアンダーを歌うゲルト=ヘニング・イェンセン、ヘンリクを歌うボー・スコウフスら、出演者が皆、お国もののオペラを楽しく演じている様子がCDを通じた音声だけでもよく伝わってくる。ウルフ・シルマーが指揮するデンマーク国立放送響&合唱団による演奏も、これまた優秀な出来栄えと言ってよいと思う。)

イエロニムスは召使のアーヴ(T)を呼び、「今夜は誰も出かけたりしないように、よく見張っておれ」と命じる。ヘンリクは仮面舞踏会の意義を熱心に語るが、そんな話にさっぱり感心しない様子のイエロニムスは、「レナード卿によくお詫びし、明日の3時、そちらの娘さんとお前は結納を交わすのだ」とレアンダーに言いつける。レアンダーの方は勿論、拒否。家来のヘンリクともども、自分たちが楽しむ権利を主張する。父子の主張は、かくして平行線。レナード卿もイエロニムスに賛同している様子を見せるが、内心では彼も、「仮面舞踏会には、行ってみたいのう」と思っている。

(※召使のアーヴというテノール役は、いわゆる“いじくられキャラ”として、あちこちで笑いのネタを提供してくれる。主人のイエロニムスと並ぶ重要?キャラクターの一人だ。w なお、この第1幕を締めくくるのは、畳み込むようなリズムによる快速アンサンブル。で、このあたりがまたニールセンらしいというか、音楽の充実ぶりがオペラティックというよりむしろ、シンフォニック。)

〔 第2幕 〕

その日の夜。夜警(B)が8時を告げて、通り過ぎる。アーヴが主人の指示通り、屋敷の見張りに立っている。迷信深い彼は、悪霊から身を守ろうと賛美歌を口ずさむ。そこへ幽霊の扮装をしたヘンリクが現れ、彼を仰天させる。「今までに犯した罪を告白せよ」と幽霊に迫られたアーヴはすっかり怯え、しょうもない懺悔(ざんげ)を始める。「台所で、私はこれまでにいろいろな物を失敬してまいりました。はい、食べ物から何から、いろいろ。そこで働いているメイドの処女も、いただいちゃったし」。大笑いのヘンリクはそこで素顔を見せ、「俺とレアンダーを屋敷から出させてくれたら、お前の秘密は絶対内緒にしといてやるよ」と、アーヴに持ちかける。学生たち、兵士たち、そして若い娘たちが揃って通りかかる。彼らの行く先は勿論、舞踏会が催されるプレイハウス。その中にはレナード卿も混じっていたが、彼はアーヴに気づくや、「これから、家に帰るところですわ」と嘘をつく。

その後、首尾よく屋敷を抜け出したレアンダーとヘンリクは、仮装して輿(こし)に乗った二人の若い女性と道で遭遇。そのうちの一人は他でもない、レアンダーと昨夜恋に落ちた娘である。で、もう一人は、彼女の侍女であるペルニッレ。そこからは四人揃っての道行となり、向かうは勿論プレイハウス。しかし、その頃、レアンダーの屋敷では大騒ぎとなっていた。若い二人が抜け出したことを知ったイエロニムスが、怒り狂って収まらないのである。

―この続き、オペラの後半部分の展開については、次回・・。
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歌劇<グアラニー族>

2008年09月15日 | 作品を語る
前回まで語ったハンガリーの作曲家フェレンツ・エルケルと同様、ブラジルの作曲家カルロス・ゴメス(1836~96年)も、ドニゼッティやヴェルディをお手本にしたようなオペラを書いた。今回は、そんな彼の代表作と言ってもよいであろう歌劇<グアラニー族>(1870年)を採りあげてみることにしたい。参照演奏は、ジョン・ネシュリング指揮ボン市ベートーヴェン・ホール管弦楽団、他による1994年6月のライヴCD(ソニー盤)。これは輸入廉価盤のため歌詞対訳も解説も全くついていないので、以下に並べるあらすじ文は、ネット上の英文サイトで見つけたsynopsisを当ブログ主が訳出したものである。

―歌劇<グアラニー族>のあらすじと音楽

〔 第1幕 〕

時は1660年。リオ・デ・ジャネイロの近くにあるポルトガル人ドン・アントニオ(B)の城。ポルトガル人とスペイン人の一団が狩猟グループを結成し、気炎を上げる。ドン・アントニオは、「インディオの娘が白人の男に凌辱された事件以来、アイモレ族が復讐を誓っている。気をつけろよ」と、彼らに警戒を促す。インディオのリーダーであるペリ(T)は、争いが起こったときは西洋人に協力することを約束する。と言うのも、彼はドン・アントニオの娘であるセシリア(S)とひそかに愛し合っているのである。そんな秘め事を知る由もないドン・アントニオは、「お前は、ポルトガルの貴族ドン・アルヴァロと結婚するのだ」と愛娘に伝える。セシリアは不本意ながらも、父親への恭順さを示そうと、うなずいて応じる。鐘が鳴ると人々は、『アヴェ・マリア』を唱和。やがて二人きりになったペリとセシリアは、愛の二重唱を歌い始める。

(※序曲はまず堂々たる前奏で開始され、続いて本編に出てくるいくつかのテーマがつながれて演奏される。これはたたみかけるようなリズムとメロディアスなテーマが交互に現れ、どこかヴェルディの<シチリア島の夕べの祈り>を想起させるような一曲になっている。その後、狩猟グループが気勢を上げる場面で聞かれる男声合唱もやはり、ヴェルディ風だ。背景に流れるホルンがいかにも、角笛の響きを連想させる。)

(※ヒロインであるセシリアが登場するときの歌には、かなり高度なコロラトゥーラの技巧が要求されている。このあたりはまあ、ドニゼッティ風といった感じになろうか。これは途中から男声合唱も加わり、非常に華麗な音楽に展開していく。)

〔 第2幕 〕

洞窟の中。スペインの探検家ゴンザレス(Bar)と彼の仲間たちが、ドン・アントニオの城を略奪する計画について相談している。ペリが少し離れたところで、彼らの会話を耳にする。場面変わって、セシリアの寝室。眠りについた彼女を誘拐しようと、ゴンザレスが忍び込んでくる。しかし、外から放たれた矢によって、彼は手を負傷する。この騒ぎを聞いて人々が集まったところで、ペリはゴンザレスの陰謀を暴露。「裏切り者ゴンザレスを、処罰しろ」と皆がいきり立った時、アイモレ族の襲撃が始まる。城の住人は団結し、防衛戦の構えに入る。

(※不穏なムードを漂わせる弦のアンサンブルに木管が色を添える書法、まさにヴェルディ流の前奏曲で第2幕が始まる。ここでは、ゴンザレス一味による合唱、ゴンザレスのアリア、セシリアが歌うバラードといったあたりが一応の聴きどころになっているのだが、ゴンザレスがセシリアの寝室に入り込む場面での音楽が私には面白く感じられる。「すべてが静かだ」というゴンザレスのセリフはふとルナ伯爵を連想させるが、実はその後に続くセシリアとのやり取りもまた、どことなく<トロヴァトーレ>風なのである。やがて彼女を助けに来たペリが登場し、城の人々も集まっての壮麗なコンチェルタータが始まる。今回聴いている全曲盤でペリを歌っているのは、プラシド・ドミンゴ。声自体はさすがに盛りを過ぎているものの、その熱演ぶりは全盛期さながらである。セシリア役のベロニカ・ビラロエルという人も、力のこもった歌唱で健闘している。しかしながら、このソニー盤は指揮者とオーケストラが力不足のため、歌手たちのせっかくの熱唱を支えきれていないように感じられる。冒頭の序曲でも感じられたことだが、このオペラはムーティやシャイーのような人がきびきびと振ってくれたら、おそらくもっと生きてくるのではないかと思える。)

〔 第3幕 〕

アイモレ族の集落。城の襲撃に十分な成果をあげられなかった酋長(B)が、新たな仕返しを誓う。捕えられたセシリアが、酋長の前に引き出される。一方、ペリも今回の襲撃で捕えられており、別の捕虜グループに入れられていた。ペリがドン・アントニオの友人であることを知っているアイモレ族の者たちは、彼に死刑を宣告。儀式の踊りが準備される。そして、「処刑される者の最後のひと時は、好きな人と過ごさせてやる」という彼らのしきたりによって、ペリはセシリアとの逢瀬を許される。儀式が盛り上がる中、彼らの周りを取り囲むように銃声が響き始める。ドン・アントニオに率いられた人々が、捕虜の救出にやって来たのだ。

(※この第3幕が、歌劇<グアラニー族>全曲の中でも一番音楽的に充実しているのではないだろうか。ここでは開幕早々に聞かれるアイモレ族の勇猛な合唱、セシリアとペリの二重唱、そしてアイモレ族の酋長が歌うアリアとそれに続く合唱等、聴き栄えのするナンバーが次々と展開するのである。なお、ここでもまた、その音楽的な雰囲気には、ヴェルディの<トロヴァトーレ>を髣髴とさせる要素があちこちに見受けられる。)

〔 第4幕 〕

城の地下。ドン・アントニオを排除しようと企むゴンザレス一味は、アイモレ族と協定を結ぶ用意をしている。そのことを知ったドン・アントニオはペリを呼び、「無駄な抵抗をするよりも、君は逃げた方がよい」と彼に勧める。ペリは、「自分が助かるだけでなく、セシリアも助けたい」と願うが、自分の娘を異教徒に委ねることにドン・アントニオはためらいを感じる。そこでペリは改宗を決意し、キリスト教の洗礼を受ける。セシリアは父親を置いていくことを嫌がったが、結局ペリと二人で城を離れることとなった。やがて、ドン・アントニオを捕えんとするゴンザレス一味が、城に乗り込んでくる。その時、ポルトガル人たちが火薬庫に火をつけ、城に大爆発を起こす。燃えあがる炎はドン・アントニオと仲間たち、そしてゴンザレス一味も、皆容赦なく焼き尽くしていく。かなたにある丘の上から、セシリアとペリの二人は、すべてを呑み込んでいく炎をじっと見つめるのだった。

―歌劇<グアラニー族>に対する賛辞と疑問

ヴェルディ風の国民歌劇が南米ブラジルの作曲家によって書かれていたというのは、ちょっと意外な感じがするけれども、実はどうしてどうして、歴史的にブラジルという国はかなりオペラに親近感を持っていた側面があるらしいのである。岡田暁生著『オペラの運命』(中公新書)によると、作曲家ゴメスが活躍していた頃のブラジル皇帝はペドロ2世という人だったそうなのだが、この皇帝がまさにペラキチ(?)で、リオ・デ・ジャネイロに宮廷歌劇場を作らせたり、当時不遇だったワグナーを呼び寄せてイタリア語によるワグナー作品の上演を試みたり(※ただし、実現しなかった)、バイロイトの杮(こけら)落としに列席してみたり、まあ、とにかく熱心にオペラ文化の興隆に尽力していたようなのだ。(※ちなみに、そのリオの歌劇場で伝説的な指揮デビューを飾ったのが、あのトスカニーニである。)

カルロス・ゴメスはそんな皇帝から奨学金をもらってミラノ音楽院で学び、スカラ座で上演するために歌劇<グアラニー族>を書いた。で、そのエキゾティシズムが聴衆に受けて、オペラは大ヒット。ちょうど、ヴェルディの<アイーダ>がエジプトで初演される1年前のことになる。大家ヴェルディにも高く評価された<グアラニー族>は、以来ブラジルの代表的なオペラとして位置づけられることとなった。

―とまあ、ここまでの話ではゴメス歌劇に対する賛辞のオンパレードなのだが、私個人的にはちょっと引っかかりを感じてしまう部分がなくもない。まず、音楽的な面で、このオペラにはブラジルらしさを感じさせてくれる要素が乏しいこと。たとえば、序曲など「第二のブラジル国家」とまで呼ばれたりしているそうなのだが、音楽的な作りはイタリア・オペラそのものなのだ。

あと、もう一つ。主人公ペリの人物像にも疑問がある。ブラジルの国民的英雄と呼ぶには、このインディオのリーダーはあまりにもヨーロッパ人にとって都合の良いキャラクターになってはいないかという点である。ポルトガル人の娘と愛し合い、戦争になったらヨーロッパ人の味方をすると約束し、そして最後には土着の宗教をあっさり捨ててキリスト教に改宗までしてしまう。つまるところ、この主人公は、「ヨーロッパ人にとって好ましい植民地のヒーロー」なのだ。逆に、もともとそこに住んでいたネイティヴの人たちにとっては、海の向こうから乗り込んできて勝手放題(たとえば、現地の少女に辱めを与えるなどの悪行)をしているヨーロッパ人に対して反旗を翻すアイモレ族の酋長、その酋長のような人こそむしろ、英雄的存在なのではないのだろうか。と、どうもそんな風に思えて仕方がないのである。結局このオペラ、国民歌劇なるものが国際的に認知されるには、イタリアやフランスなどの西ヨーロッパ諸国で評価されねばならないという重い現実を如実に証明している作品の一例と言ってよいようである。

―以上で、歌劇<グアラニー族>のお話は終了。次回登場するのは、今回語った<イル・グアラニー>の「ニー」をしりとりして、ニールセン。デンマークの作曲家カール・ニールセンのオペラを、一つ。
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歌劇<バーンク・バーン>(2)

2008年09月05日 | 作品を語る
前回の続きで、エルケルの歌劇<バーンク・バーン>。今回は、その後半部分。

〔 第2幕・第2場 〕・・・王妃の寝室

寝室に突然現れたバーンクに、王妃は驚く。「退出せよ」と彼女は命令するが、バーンクは従わない。二人の緊迫したやり取りが始まる。「妻のことでは、あなたに感謝している」「そなたは、今自分でしていることが、正当なことと思っておるのか」「王の留守中に享楽の馬鹿騒ぎ、それは正当なことか?私の妻を呼び寄せ、気が狂うまでに追い詰めた。それは正当なことか?私の家庭は崩壊し、残されたのは恥辱だけ。これが正当なことと思うのか」。詰め寄るバーンクに、王妃は必死に威厳を保って対抗する。「わらわに触れるでない!そなたの前におるは、女王なるぞ」。

「私はマジャールの国土を旅して歩き、いたるところで人々の悲しみの声を聞いた。そのことを私はずっと訴えてきたが、あなたはまったく聞き入れなかった。・・・人民の敵め、呪われるがいい」と、バーンクは王妃に迫る。「そなたは死罪じゃ」と叫び、王妃は部下の助けを呼ぶ。そこにオットーが駆けつけるが、彼はバーンクの形相を見るや、青ざめて逃走。王妃は短剣を抜き、バーンクに切りかかる。しかしバーンクはその剣を取り上げ、それを逆に王妃の身体に突き刺す。うめき声をあげながら、王妃はくず折れて絶命。「終わった。・・・喜べ、我が名誉よ。お前の穢れは、血の洗礼によって雪(そそ)がれた。おお、メリンダ!」とバーンクが叫ぶところで、第2幕が終了。

(※不穏なムードがいっぱいの前奏曲、そしてバーンクが王妃を殺害する場面で漂う<オテロ>みたいな雰囲気。ここはなかなかスリリングで、面白い。ところで、今回参照しているタマーシュ・パールの指揮による全曲盤では、エヴァ・マルトンが王妃を歌っている。当ブログで昔<トゥーランドット>を話題にし、いくつかの全曲録音について感想文を並べたことがあったが、その最後に扱ったジェイムズ・レヴァインの映像盤でタイトル役を歌っていたのが、このマルトンだった。今回の<バーンク・バーン>では、彼女のキャリアの最後期らしいかすれた声しか聞けないが、まあ、役柄的にはこの声量でも十分かな、とも思う。彼女はもともとハンガリー出身の人でもあり、歌詞が母国語というのは、それだけでも強みと言えるだろう。風貌もまた悪辣な王妃のイメージにぴったりで、舞台ではきっと凄い存在感を示してくれていたに違いない。)

〔 第3幕・第1場 〕・・・夜のティサ川のほとり

子供を抱いたメリンダが、ティボルツと一緒にティサ川のほとりまでたどり着く。しかし、すでに正気をなくしている彼女は、ティボルツが何を話しかけても応じない。嵐がすぐ近くまで来ていることを感じ取ったティボルツが船の用意をし、メリンダに早く乗るようにと促す。遠くから、「船には乗るな。嵐が来る」という声が聞こえてくる。ティボルツが改めてメリンダに乗船を急かすと、彼女は夫への別れの言葉を口にするや、幼い子供を抱いたまま荒れ狂う川の流れに身を投げてしまう。

(※ここは木管楽器群のゆらめくパッセージが何とも印象的なシーンだが、これは深く傷ついたメリンダの姿を暗示しているのだろうか。あと音楽的に面白いのは、「船には乗るな」と遠くから呼びかける男声合唱。これがまるで、教会か修道院の中で歌われているミサ曲みたいに響くのである。もう、この世のものではないような、いわく言いがたい不思議な音響世界だ。)

(※第3幕第1場は、メリンダ役の歌手にとって最もやりがいのある場面であろう。「昔々、やさしく愛し合う2羽の小鳥がおりました」と、バーンクと過ごした幸福な日々を暗示するような内容をまず歌う。その終わりの部分では、ドニゼッティが『狂乱の場』で使いそうな高音のパッセージが出てくる。続いて、稲光と雷鳴を表すオーケストラの間奏。これはごく短いものながら、なかなか充実した音楽だ。そして、クラリネット・ソロと弦楽の前奏に導かれ、曲は悲しい『子守唄』へと進む。<バーンク・バーン>全曲を通しても、この場面がひょっとしたら一番の音楽的ハイライトと言ってよいかもしれない。今回参照しているパール盤では、アンドレア・ロストという若いソプラノ歌手がメリンダを歌っている。私は寡聞にしてこの人については何も知らないのだが、清純派みたいなイメージを持った歌手のようである。歌の線は細いが、役柄の性格は十分に歌いだしてくれていると思う。)

〔 第3幕・第2場 〕・・・王宮の祝宴の間

王宮の人々が、死んだ王妃の喪に服している。戦に勝利を収めて帰ってきた国王エンドゥレ2世は、「我が栄光への報酬が、これか?」と悲しみ、憤(いきどお)る。「犯人は誰だ」と叫ぶ王の前にバーンクが歩み出て、王妃殺害の理由とそれまでの状況を語る。「人殺しめ」とののしる王に、「人殺しというのは、違います。私は裁きを行なっただけです」とバーンクは応じる。怒りに燃える王が剣を抜いてバーンクを討とうとすると、そこへティボルツが入って来る。彼はメリンダと幼子の遺体を、ここまで運んできたのであった。「メリンダ様はお子様を抱いたまま、川へ身を投げてしまわれました。お助けしたかったのですが、激しい嵐のために出来ませんでした」。バーンクは愛する妻と息子の亡骸にすがりつき、「王よ、これであなたの復讐も果たされたでしょう!」と悲痛な叫びをあげる。「偉大なる神のお力!死せる者を受け入れ、そして憩わせたまえ」と人々が揃って祈るところで、全曲の終了。

(※国王エンドゥレ2世はバス歌手の役だが、パール盤で歌っているのはコロシュ・コヴァーチ。ちょっと懐かしい名前だ。ショルティの指揮によるバルトークの<青ひげ公の城>で、青ひげを歌っていた人である。このショルティ盤は、ずいぶん前にレーザー・ディスクで鑑賞したのだが、ユディット役のシルヴィア・シャシュに比べるとコヴァーチの青ひげはいささか聴き劣りがするように感じられた。演出家の指示かどうかは不明だが、顔のメイクも、あまりうまくいったものとは思えなかった。むしろノーメイクでやっていた方が良かったんじゃないかと、当時感じたものである。と言うのも、この方、素顔が結構怖いのだ。眉毛がほとんどなくて、目がギョロッとして。w と、これはあくまで、今から30年近くも前にこの人の顔写真を見たときの印象である。半分は冗談という感覚で、お読みいただけたらと思う。)

―以上で、エルケル歌劇のストーリーは終了。ところで、ブログ主はオペラのことしか知らないのだが、バーンク・バーンはハンガリー史の上でもかなり有名な人物のようで、日本語版・ウィキペディアにもちゃんと独立した項目がある。そこを読んでみると、物語への理解が少し深まる感じがする。ペトゥール・バーンやハンガリーの貴族たちが王妃追放を計画していた理由は勿論、彼女の専横にあったわけだが、それをもう少し具体的に言えば、「ドイツ人優遇政策」ということになるようだ。つまり、王妃ゲルトゥルドと彼女の弟オットーはともにドイツ人で、国王遠征中の留守をあずかった彼女は、ハンガリー人を押しのけ、ドイツ人ばかりを重用する政策をとったらしいのである。このオペラに出てくる貴族たちは、彼女によって領地を取り上げられてしまっていたようだ。勿論、ハンガリーの民衆に対しても王妃は厳しかった。そんな事情から、多くの人々がバーンクを支持するので、妻を殺されて激昂した国王エンドゥレも結局、バーンクを処罰することは出来なかったそうである。ただし、「王妃の弟に、バーンクの妻がレイプされた」という部分はおそらく、オペラ台本のための脚色ではないかと思われる。

―次回予告。かつて当ブログで採りあげたグリンカの<イワン・スサーニン>、そして今回語った2つのエルケル作品など、イタリア・オペラを手本にして書かれた国民歌劇は決して少なくない。その流れで次回は、オペラとはちょっとイメージがつながりにくい南米の作曲家が書いた“イタ・オペ流儀による国民歌劇作品”というのを一つ、語ってみることにしたい。
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