(小千玉純 愛媛県今治市別名 1982年5月)
「玉澄さんの楠」と呼ばれているところは、越智玉澄の墓所である。また、別名(べつみょう)の地は、大宝の頃(701~704)大三島大山祇神社の大祝(おおほうり)職であった玉澄の子安元が屋敷を構えたところである。その後代々三島大祝を世襲し、天正五年(1577)までこの地に住していたが、世継ぎが無かったために分家鳥生大祝家に家督を譲った。
玉澄は伊予国越智郡大領(郡司長)で、別名の地に居を構えていた。玉澄は大山祇神社の社殿造営や、和銅五年(712)には別宮大山祇神社(今治市別宮町)を勧請、養老元年(717)には宇摩郡に三島神社を勧請(旧伊予三島市、現四国中央市)、天平元年(729)には温泉郡(松山)石手寺を再建している。
天平十九年(747)玉澄が没し、この別名の地に墳墓を造った。その墳墓の上に植えられたのがこの大楠といわれ、今でも「玉澄さんの楠」として親しまれている。
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