flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

明智 長山城

2008-04-14 00:00:07 | 城郭・城下町
(岐阜県可児市瀬田 市指定史跡)
 康永元年(1342)明智(土岐)頼兼が、標高175mの長山に築城したのが始まりである。ここでは、稲葉山城主斎藤道三の正室となり、後に織田信長の正室、濃姫を産んだ、「小見の方」が生まれている。
 斎藤道三の子ではなく、土岐頼芸の子ともいわれる斎藤義龍が、弘治二年(1556)道三と長良川で戦った際、明智氏は、道三に正室を嫁がせた関係上、道三側に味方し、そのため義龍は明智城を攻撃するに至った。城主明智光安は、一族870余人を集めて籠城したが、落城が間近となったため、光秀に光安の子光春と甥の光忠を託し、城を脱出させたと、元禄時代に書かれた『明智軍記』等に記されている。

 城郭南側は、標高が比較的高いにも関わらず、この辺りの急速な人口増加から「広眺ヶ丘団地・羽生ヶ丘団地」が造成され、北側の山林と対照的な姿となっている。その団地を見下ろす場所に、落城の際の武士達が眠る「七ッ塚」がある。
   (次郭跡)
(主郭跡付近)
 
(搦手郭跡)

 通称「桔梗坂」を下りると、大手口となる。
城の前には、築城の際創建(或いは再興)されたという天台宗太元山東栄寺があり、隣接して明智氏を祀る浄土真宗光蓮寺、曹洞宗天龍寺、そして鎮守の太元神社がある。天龍寺には、明智氏一族の墓と、184cmの高さのある光秀の位牌があるが、駐車場の傍らに集められた明智氏の墓は、少々場違いではないかと感じた。
「桔梗坂」
   (大手口跡)
(天龍寺)
(明智氏一族墓碑)
(明智光秀位牌)  (太元神社)

 光蓮寺西側の搦手口、「梅洞」と呼ばれる谷から改めて上る。
「搦手の支砦」と呼ばれる丘陵には、昭和48年(1973)にこの場所で発見された「六親眷属幽魂塔」と刻まれた碑が祀られている。この碑は、落城の際に討死した一族を供養するために、建てられたものという。
       

 搦手の支砦から主陵と分断された堀切を下り、水の手と呼ばれる谷を下りると、散策道を整備する光景がみられた。ウッドチップを敷いた足元は、程よいクッションとなり、足への負担も小さく感じた。更に稲荷洞の谷を下り、麓の居館跡の集落を抜け、広見東、伏見方面へと向かった。
   

 この後は、瀬田地区から化石株のある平貝戸地区に向かった。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 花みこし | トップ | 安座真海岸 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿