(挙母城 愛知県豊田市小坂本町 市指定史跡)
矢作川の洪水に度々見舞われた東方低地の桜城に代わって、高台のこの地に内藤学文(さとふみ:政養(まさもち))によって、天明二年(1782)に城が築かれた。七州(しちしゅう)の名の由来は、城の中央に存在した築山「七州台」からの眺望が、三河から尾張、美濃、伊勢、近江、遠江、信濃を望めるようだというところから名付けられた。然し、城は未完成のまま廃藩を迎え、南西隅の昭和53年(1978)に再現された二重櫓付近以外は、明確な遺構は残されていない。
現在城跡は、主に豊田市美術館の敷地となっており、西側には旧寺部城書院又日亭(ゆうじつてい)が建っている。平成4年、城跡に建つ童子山小学校の移転解体が行われ、終了後に美術館建設が始まった。文化面では相通ずるものがあるものの、近世城跡に現代建築家デザインの美術館は果たしてどうだろうかという感は否めない。然し近年は、北側の豊田東高校の移転後の城跡整備構想や、城下町整備構想等、今まで工業都市として走ってきた豊田市の文化、観光に対しての今後の行動に注目したいところである。
(関連記事:七州城大手)
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ポチ☆
ある程度輪郭だけはできていたようですが、立派な構えまではいかなかったようです。
二万石ですしね、、
今後の整備で、往時より素晴らしいものができるといいなぁと思います♪