(1991年12月23日の日記から)(旧宝飯郡一宮町上長山)
「城山くずれ」の遺跡、袖切橋を調べていたところ、ある古老に会った。
お耳が遠いようなので、紙に書いてお聞きした。そうすると「うちの裏だ」ということで付いていくことになった。
そしてこの古老は、上長山の最長老93歳の白井音平さんということがわかった。
袖切橋の道は昔、足山田城まで道(馬道)が続いていたそうだが、現在は白井家二軒に行くだけの私道となっている。
石橋の袖切橋、現在は幅1.5m、簡易舗装され数個の石材が水路下手の道路脇に残されている。水路は以前、武将が橋下に潜んでいたということで、ある程度深かったと思われるが、現在は浅くなり、道路下には暗渠管が通してある。
白井さんからは次のように語って頂いた。「江戸末、明治初頃までこの橋で転んだとき、自分の着物の袖を切って橋に置いていった。また宝川合戦の折、秋山新九郎が橋の下で身を隠しているとき、鎧の袖が敵方に見つかりその場で首を斬られ、斬った首が白井さんの先祖が居た家(橋上手の竹薮辺り)の縁の下に飛び込んできた」ということである。
その後白井家が新九郎を地の神として祀ったが、粗末にすると障りがあるということで、元禄二年に石垣を組み、その上にキチンと祀り直したそうである。
通説に次の説がある。武田方の武将が重傷で橋下に潜んでいたところ、鎧の袖が見つかり、付近の住民「道善」の看護を受け、温かい心遣いに感激し、白井家の守護を誓い絶命したといわれる。「道善」は寛永二年に亡くなり、末裔が現在でも毎年盆火を灯して供養している。
と二説が若干異なっている。
敵方にすぐ殺されるか、村人に救われてから他界するかの違いだが、どちらも異説とは言い切れない。このように偶然説話が伝わってきたのは、前者の説が実際に存在して、目に見えない力が働いて私たちを通じて世に知らせようとしたのではないか?と非科学的ではあるが、そのような感覚が生じ、そのように理解した。
ここで仮にではあるが、現在のところとして結論を出しておくことにする。
二説あるということは、いつまで費やしても形になりそうもなく、些か強引だが次のようにすると辻褄が合う。
通常、戦の中弱っている武士を村人が見かけたとすると、驚いてその場から離れてしまうものだが、それをその場で看護したという勇気ある良心で武将は感激し、その家の守護を誓ったが、その後「道善」がその場から離れている間に敵方の武士が来て鎧の袖を見つけ首を斬られてしまった。その場面をある村人が陰から見ていたのではないだろうか、それ以来供養のためその場所で転んだとき、着物の袖を置くようになり、道善の家で武将の御霊を丁重に祀ったのではないだろうか。
ちなみにこの橋下の水路は、宝川の上流から引いた水を村の田畑を潤すために掘られた水路であったということである。今は使われなくなってしまったが、この場所に伝わる歴史と共に残されている。
「城山くずれ」の遺跡、袖切橋を調べていたところ、ある古老に会った。
お耳が遠いようなので、紙に書いてお聞きした。そうすると「うちの裏だ」ということで付いていくことになった。
そしてこの古老は、上長山の最長老93歳の白井音平さんということがわかった。
袖切橋の道は昔、足山田城まで道(馬道)が続いていたそうだが、現在は白井家二軒に行くだけの私道となっている。
石橋の袖切橋、現在は幅1.5m、簡易舗装され数個の石材が水路下手の道路脇に残されている。水路は以前、武将が橋下に潜んでいたということで、ある程度深かったと思われるが、現在は浅くなり、道路下には暗渠管が通してある。
白井さんからは次のように語って頂いた。「江戸末、明治初頃までこの橋で転んだとき、自分の着物の袖を切って橋に置いていった。また宝川合戦の折、秋山新九郎が橋の下で身を隠しているとき、鎧の袖が敵方に見つかりその場で首を斬られ、斬った首が白井さんの先祖が居た家(橋上手の竹薮辺り)の縁の下に飛び込んできた」ということである。
その後白井家が新九郎を地の神として祀ったが、粗末にすると障りがあるということで、元禄二年に石垣を組み、その上にキチンと祀り直したそうである。
通説に次の説がある。武田方の武将が重傷で橋下に潜んでいたところ、鎧の袖が見つかり、付近の住民「道善」の看護を受け、温かい心遣いに感激し、白井家の守護を誓い絶命したといわれる。「道善」は寛永二年に亡くなり、末裔が現在でも毎年盆火を灯して供養している。
と二説が若干異なっている。
敵方にすぐ殺されるか、村人に救われてから他界するかの違いだが、どちらも異説とは言い切れない。このように偶然説話が伝わってきたのは、前者の説が実際に存在して、目に見えない力が働いて私たちを通じて世に知らせようとしたのではないか?と非科学的ではあるが、そのような感覚が生じ、そのように理解した。
ここで仮にではあるが、現在のところとして結論を出しておくことにする。
二説あるということは、いつまで費やしても形になりそうもなく、些か強引だが次のようにすると辻褄が合う。
通常、戦の中弱っている武士を村人が見かけたとすると、驚いてその場から離れてしまうものだが、それをその場で看護したという勇気ある良心で武将は感激し、その家の守護を誓ったが、その後「道善」がその場から離れている間に敵方の武士が来て鎧の袖を見つけ首を斬られてしまった。その場面をある村人が陰から見ていたのではないだろうか、それ以来供養のためその場所で転んだとき、着物の袖を置くようになり、道善の家で武将の御霊を丁重に祀ったのではないだろうか。
ちなみにこの橋下の水路は、宝川の上流から引いた水を村の田畑を潤すために掘られた水路であったということである。今は使われなくなってしまったが、この場所に伝わる歴史と共に残されている。
末裔の方が今も盆に供養をしているんですね。なんだか竹広の火おんどりなどを重ねてしまいました。
このように調べ歩いていて聞かせていただくお話しや出会いは、財産だと感じます。
当時は衝撃的な出来事だったのでしょうね。
このような伝統的な行事をしなくなっているところも各地で増え、残念です。