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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

館山城

2007-10-17 01:00:26 | 城郭・城下町

(里見城 千葉県館山市)
 南総里見八犬伝の舞台、館山を訪れた。この地は、亡き父が何度か語っていた場所である。
現在丁度、生涯学習の授業が「小学校道徳教育と家庭教育」であり、その中では「仁義礼智忠信孝悌」の八文字を基に進められているところであった。
 
 先ず、城山北麓に建つ館山市立博物館に立ち寄り、原始古代、中世、戦国時代、江戸時代の安房、安房の屋敷構、そして里見氏の興亡について見学した。
 続いて館山の地名の由来とされる標高75mの城山(根古屋山)に上り、本丸跡に達した。そこには昭和57年(1982)に建てられた、博物館分館でもある三層の模擬天守があり、曲亭(滝沢)馬琴が著した里見八犬伝についての歴史が紹介されていた。
本丸跡からは、館山のまちや鏡ヶ浦の海が一望できる。この城山は第二次世界大戦中に軍事施設(高射砲陣地等)が建設され、地形が改変されており、往時からの遺構が思いのほか少ない。
        
 館山城は天正八年(1580)新田氏族里見義頼が築いたとされるが、それ以前の遺物等が見つかっており、中世からの城郭施設が存在したと考えられている。
天正十六年(1588)義頼の子義康のとき、城郭を拡大、城下町が形成され、水堀として鹿島堀等が築かれた。
 天正十八年(1590)豊臣秀吉が小田原城を攻めた際、義康が出遅れたために上総国の領土を没収されたという。然し安房国は保障され、九万二千石の所領となった。
慶長十九年(1614)義康の子忠義のとき、同室の出身大久保家で大久保氏とは血縁ではないが、大久保長安による疑獄事件が起き、その連座によって里見氏は改易された。
その後天明元年(1781)からは稲葉正明が城山南東麓に館山陣屋を築き、一万石の藩となった。
 
 本丸跡と二の丸跡との間には、若干の石積みが残り、二の丸跡付近は、日本庭園や万葉園として整備されている。
南の梅園へ下って行くと堀切があり、郭の片面は切岸となっている。
  
 城山南麓、城主の館跡が存在した場所の東側には、「姥神」、或いは「八遺臣の墓」「八賢士の供養塔」と呼ばれる八基の五輪塔がある。里見忠義が改易により伯耆倉吉に蟄居させられた際、家臣八人が殉死し、その供養のために建てられたという。これが里見八犬伝のモデルになっているともいわれる。然し、明治時代に城跡から室町時代の陶器片と共に出土したものともいわれ、里見義頼以前のものであろうとする説もある。
 
 この後、館山城の馬屋があったという宗真寺、館山城の外郭惣構えであった天王山、御霊山へと向かった。

(関連記事:東国紀行


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