コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

本の名前

2010-04-22 18:09:00 | 
ちょっと前の記事にコメントがあったのに気づいていなかったらしく(コメントが入るとメールで知らされるのだけれど、見逃したらしい)、ちょっと失礼してしまいました。

反省を込めて、少し補足。

山東京伝の絵本の書名、『四時交加』か『四季交加』か。
もとの記事をご覧いただければ有り難いが、かいつまんで言うと、

私は手元の「日本風俗図絵11」(柏書房 1983)を引用して当該記事を書いた。
その時は、書名に関して全く頓着していなかった。

それに対して、(こんにちは)と言う名前でコメントを下さった方がある。
ネット上で「四時交加」という書名を見かけるが、「四季交加」の誤りではないのか、と言う疑問。
その根拠として、
  図書館データベースでは「四季交加」しかヒットしない。
 "四時交加" の検索結果 約 7,480 件
  "四季交加" の検索結果 約 209 件
  だが、出版物や書誌情報らしきものは「四季交加」の方。

と言うことが挙げられている。

この「検索結果」が具体的に何を指しているのか判然としないので数字のことはさておき、江戸時代以前の書名というのは本当にややこしいんです、と言う話。

で、ちょっと検索してみると、この問題について最近書かれた記事がある。
この人も、この素敵な本を「漫画の語源」がらみで扱っているので、ちょっと寂しいのだけれど、ともかく、yajifun 氏(このブログ(?)は、画像中心だけどかなり面白い)は、問題の所在を明らかにしつつ、 「浮世絵類考」をはじめとする各種の浮世絵文献が「四季交加」を使っている事を主たる根拠として 「四季交加」(Siki no Yukikai)に与することに今決めた。という。

経過説明も詳しいし、むかしから慣習的に使用されている言葉を変えてしまうと古文献にたどり着き難くなってしまう。という懸念も理解できる。

ただ、問題なのは、現代の我々が、検索の便のために分かりやすくすることが、江戸文化にとって良いことなのかどうか、と言うのは別の問題だ、と言う話なので……。

この問題を“解決”するためには、出版広告や書籍目録、随筆類など、当時の資料を博捜する必要があるので、手元ではどうにもならないのだけれど、yajifun 氏が既に指摘しているように、一つの本の中で、書名が違う、と言うことは、珍しいことではない。

前の記事のコメントに書いたように、題簽は残らなかったり張り替えられたりすることが多いので、特別な事情がない限り正式書名としては使用せず、内題を使うことが多いし、カード取りの場合、すべての題を書き取る事が求められる。そして、最近のデータベースでは、表記の揺れに対応できているはずだから、検索云々は、余り大きな問題ではない気がする。

実は、私の手元にある「日本風俗図絵」は、「四時」を採用しているのだけれど、最初に複製を刊行した黒川真道は、解題冒頭、いきなり「四季交加二巻は……」と書いている。この複製本ではもとの外題がどうなっていたか分からないのだが、内題・序題・目録題はなく、上下とも尾題は「四時」だ。もう一種類手元にある名著全集も「四時」(「日本風俗図絵」は何度か復刊しているので、図書館のデータベースで「四季」しかヒットしない、と言うのは、何か別の原因があるのだと思う)。
yajifun 氏によると、筑波大学本には見返しに「畫圖四旹交加」(畫圖は小字横書、旹は時の異体字?)と書かれているというのだから、「四時」を支持したいところ。

ところが、水野稔『山東京伝年譜稿』では「四季」を採って(『四時交加』とも)と注記しているし、佐藤至子著の最も新しい評伝も「四季」だ。

ここまで来ると、唯一の正解はないのだ、と言うのが正解、と言うことが理解されるのではないかと思う。ただ、当時慣習的にどう読まれていたか、京伝自身、この本をなんと呼んでいたか、と言うのはまた別に検討の余地はある。


ついでに書いておくと、大学生になると『奥の細道』が『おくのほそ道』になり、『土佐日記』が『土左日記』になって、何故?? と思わせられる。
後者のことはよく識らないが、前者は、西村本(所謂素龍清書本)に付された芭蕉自筆題簽の表記を正解とする考え方なのだけれど、暫く前に“発見”された“自筆本”が「おくの細道」だったために、すこしややこしくなりかけた。元々書名の表記を統一することを重視していなかった上野洋三先生は、岩波から“自筆本”を出版するとき、あえて『奥の細道』にされた。これは先生のファンとして、ちょっと痛快だった。

そう、人間にいろんな側面があるように、本の名前は一つではない。
そういうことに頓着しないからこそ、思いがけない遊びも出来て、江戸の出版物は豊だったんだと思う。

唯一の正解を求めるのではなく、いろんな可能性、全部ひっくるめて、その本はある。
テクノロジーのために分かりやすくするのではなく、そういう豊かさを支える情報技術であって欲しいな、と思う。

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