コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

学際とか総合とか教養とか。

2009-06-06 07:22:57 | 
15日から、担当授業が一つ増える。

世界の地域と文化」。
これは、人文学部共通科目というので、学部の一般教養科目のような物。
当時学部長だった山本義彦現副学長の発案で、総合学部としての一体感を持てるような授業、と言うアイデアから“派生”した物、と理解している(最早起源伝説の世界だな)。
これは、言語文化学科の教員が、他学科の学生に提供する授業なので、言文の学生は履修できず、しかも300人規模という、“少人数教育”を謳った学部で何やってるんだか、という……。

後期には、3年連続で「茶の世界」という授業を担当するのだけれど、これは大学全体の共通科目の中にある“学際科目”。

実際、「静岡の文化」にしても、扱っている“内容”をみたら、どこが言語文化なんだよ?? と言うことになる。


私の“専門”は、日本近世文学、つまり、江戸時代の“ブンガク”と言うことになってるんだけどね。



私は、埼玉大学教養学部卒なので、“教養学士”(修士は文学だけれど)。
指導教官であり、学部長でもあった長谷章久先生は、日本文化コースの新歓コンパで「文学でも歴史学でも国語学でも言語学でもないことをやりなさい」と仰った。
それが嬉しかった。
実際、2年生から古文書演習(泊まりがけの旅行だった)にも参加したし、柴田武先生の方言フィールドワーク~言語地図作りも体験した。

大学院に入って、妙に専門に詳しい人たちに出会ったけれど、逆に、ほんの僅かでも専門を離れると何も識らない、と言うことに愕然としつつ、自分が、小さな国立大学で学んだことを幸せに思った。

もう四半世紀以上前のことだ。




だから(と繋げるのが適切かどうか判らないけれど)、私は“専門性”の高い授業を好まない、というか、やってない。
元々、近世文学の研究は、出版や印刷だけでなく、法律・経済・芸術、あるいは医学や植物学などの理系分野まで、様々な、一見すると“隣接”とさえ思えないような分野も学ばなければ理解できないと言うところから出発している。
江戸時代文化の全てが、“近世文学研究”の対象だったと言っていい。



「静岡の文化」も、“左官の仕事とは?”とか“精密機械工業史”とか、なんだかとんでもない方向にどんどん拡がっている。
そこに、須弥山儀も加わって、更に収拾つかず。

しかし、実際、世の中というのはそういう物だし、学問も、試験管の中で純粋培養される“自然”とは違う。

学問は、専門化が進むにつれて細分化されてしまったけれど、本来は一つなんだと言うことを、若い内にちゃんと認識しないと、文系だから、理系だから、専門外だから、ということで物事を見え無くさせてしまう。


なんだか偉そうなことを書いてしまったけれど、勿論、私の手の届かないところの方が遙かに多いし、自分の研究に深みが欠けると言う自覚はある。

深く広く、というのは、凡人には叶わぬ事だ。





なんだかとりとめなくなってしまったけれど、“各論”は追々。


夏休みには、高校生向けにもこういう話をさせていただくことになっている。

今、仮につけた講義のタイトルは


“静岡三題噺~お茶・プラモデル・時計”

解って貰えるかなぁ。

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