4/6の「I will be king, or die.」という記事に、間違いがありました。
訂正です。
(Henry VI Part 3 Act I SCENE II.)のヨーク公の台詞、“I will be king, or die.”が、さいたまで観たときは、
「なりたい物になる。さもなくば死だ」だったんじゃないか、と言うところ。
この時点でちゃんとチェックすれば良かったんですが、今日、やっとちくま文庫の松岡訳を入手し、当該箇所が「私は王になる、さもなくば死ぬ。」になっているのを確認してしまったので、改めて記憶を辿って別の箇所を探してみました。
ありました。つまり、混同。
第二部第三幕第一場の最後、アイルランド出兵のために兵力を授かったヨーク公が反転攻勢を決意する独白の冒頭。
やるなら今だ、ヨーク、気弱な心を鍛え上げて鋼と化し、迷いを決意に変えろ。
なりたいものになれ、なれないならこのまま死んでしまえ。
生きがいなど何もないのだから。(松岡訳)
と言うところでした。
原文は
Now, York, or never, steel thy fearful thoughts, And change misdoubt to resolution: Be that thou hopest to be, or what thou art Resign to death; it is not worth the enjoying:
なんか、いかにもシェクスピア、って感じ。
さて、この台詞が出てきたところで、改めて、昨今の学生の迷い方の話。
今年度、私の授業はホントに、絶望的に不人気。
前は不人気なのはゼミだけで、授業にはそこそこ客が来たんだけれど……。
特に、グループワークを強調した授業は、説明の後でぼろぼろ抜けていく。
で、どうやら、「途中で抜けるとみんなの迷惑になるので、続けられないなら最初から取らないで」という“アドバイス”が、異様に“効果的”だったらしい。
私としては、というか、ちょっと前の学生なら、寧ろ「やってやろうじゃん」と言うことだったと思うし、百歩譲っても「自信はないけど、これを機会に成長したい」くらいのことは言ったはずだ(現に、抜けなかった学生の何人かは、そういう決意表明をしてくれた)。
“迷惑を掛ける”というのが、キーワードになっているのかも知れない。
先日キャリア・クリエイトの杉山孝さんが、ブログで静岡新聞掲載、理想の子供像調査のことに触れて、
多くの保護者が、「リーダーシップには期待しないから、人にだけは迷惑かけないでね!?」と考えているんだとすると…。
と、心配なコメントをしているのが、妙にシンクロしている。
授業の後、「やっぱりやめます」というメールをくれる学生達の多くが「迷惑を掛ける可能性がある」と言うことを理由にしている。
私も教育者として面倒をあらかじめ避けてるようで狡いとは思うけれど、社会に出る前に、いろんな人に迷惑を掛けてしまう経験を積んでおいた方が良いんじゃないのかな(静岡の文化はそういうわけに行かないんだけれど)。
杉山さんも言うように、「人に迷惑を掛けない」ことと協調性があると言うのとは、全く違う。
逆に、様々な場で「迷惑掛けてないんだから」がまかり通るのも悲しい現状だ。
先日の「静岡の文化」第一回に来てくれた二年生の一人は、グループワークの大変さを話す中で、誰か一人の意見に委ねる危険性に触れ、賛成でも反対でも、一人一人がその場で意思表示をして進めていくべきだ、と言ってくれた。
多分、私の授業に出ていなくても言えるだけの資質があったんだとは思うけれど、実際に、本当に苦労した実感でもあったと思うし、そうやって体感したことは思い出さなくても忘れることはないはずだ。
そうやって、社会で生きていく糧になる。
そういうチャンスから予め逃げてしまう学生達を、どうしたら良いんだろう。
そういう人たちの“生きがい”って何なんだか、きいてみたい。
訂正です。
(Henry VI Part 3 Act I SCENE II.)のヨーク公の台詞、“I will be king, or die.”が、さいたまで観たときは、
「なりたい物になる。さもなくば死だ」だったんじゃないか、と言うところ。
この時点でちゃんとチェックすれば良かったんですが、今日、やっとちくま文庫の松岡訳を入手し、当該箇所が「私は王になる、さもなくば死ぬ。」になっているのを確認してしまったので、改めて記憶を辿って別の箇所を探してみました。
ありました。つまり、混同。
第二部第三幕第一場の最後、アイルランド出兵のために兵力を授かったヨーク公が反転攻勢を決意する独白の冒頭。
やるなら今だ、ヨーク、気弱な心を鍛え上げて鋼と化し、迷いを決意に変えろ。
なりたいものになれ、なれないならこのまま死んでしまえ。
生きがいなど何もないのだから。(松岡訳)
と言うところでした。
原文は
Now, York, or never, steel thy fearful thoughts, And change misdoubt to resolution: Be that thou hopest to be, or what thou art Resign to death; it is not worth the enjoying:
なんか、いかにもシェクスピア、って感じ。
さて、この台詞が出てきたところで、改めて、昨今の学生の迷い方の話。
今年度、私の授業はホントに、絶望的に不人気。
前は不人気なのはゼミだけで、授業にはそこそこ客が来たんだけれど……。
特に、グループワークを強調した授業は、説明の後でぼろぼろ抜けていく。
で、どうやら、「途中で抜けるとみんなの迷惑になるので、続けられないなら最初から取らないで」という“アドバイス”が、異様に“効果的”だったらしい。
私としては、というか、ちょっと前の学生なら、寧ろ「やってやろうじゃん」と言うことだったと思うし、百歩譲っても「自信はないけど、これを機会に成長したい」くらいのことは言ったはずだ(現に、抜けなかった学生の何人かは、そういう決意表明をしてくれた)。
“迷惑を掛ける”というのが、キーワードになっているのかも知れない。
先日キャリア・クリエイトの杉山孝さんが、ブログで静岡新聞掲載、理想の子供像調査のことに触れて、
多くの保護者が、「リーダーシップには期待しないから、人にだけは迷惑かけないでね!?」と考えているんだとすると…。
と、心配なコメントをしているのが、妙にシンクロしている。
授業の後、「やっぱりやめます」というメールをくれる学生達の多くが「迷惑を掛ける可能性がある」と言うことを理由にしている。
私も教育者として面倒をあらかじめ避けてるようで狡いとは思うけれど、社会に出る前に、いろんな人に迷惑を掛けてしまう経験を積んでおいた方が良いんじゃないのかな(静岡の文化はそういうわけに行かないんだけれど)。
杉山さんも言うように、「人に迷惑を掛けない」ことと協調性があると言うのとは、全く違う。
逆に、様々な場で「迷惑掛けてないんだから」がまかり通るのも悲しい現状だ。
先日の「静岡の文化」第一回に来てくれた二年生の一人は、グループワークの大変さを話す中で、誰か一人の意見に委ねる危険性に触れ、賛成でも反対でも、一人一人がその場で意思表示をして進めていくべきだ、と言ってくれた。
多分、私の授業に出ていなくても言えるだけの資質があったんだとは思うけれど、実際に、本当に苦労した実感でもあったと思うし、そうやって体感したことは思い出さなくても忘れることはないはずだ。
そうやって、社会で生きていく糧になる。
そういうチャンスから予め逃げてしまう学生達を、どうしたら良いんだろう。
そういう人たちの“生きがい”って何なんだか、きいてみたい。
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