コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

昔は、彼等も幸福だったんだろうがねえ。

2007-12-11 23:40:56 | 
私にとって今年はパラオ年だ。

パラオ-ふたつの人生 鬼才・中島敦と日本のゴーギャン・土方久功
世田谷美術館 企画展 開催中(~08年1月27日)

文庫の全集で読んで知っていたことばかりのはずなのだけれど、立体的に構成された展示を見て、いろんなことが理解できたように思う。

パラオという土地に今住んでいる人たちの顔を具体的に思い浮かべることが出来るから、土方の作品にも、彼のたくさんの詩や文章にも共感できる。



……さて、今度旅行して見て、土人の教科書編纂という仕事の、無意味さがはっきり判って来た。土人を幸福にしてやるためには、もっともっと大事なことが沢山ある、教科書なんか、末の末の、実に小さなことだ。所で、その土人達を幸福にしてやるということは、今の時勢では、出来ないことなのだ。今の南洋の事情では、彼らに住居と食物とを十分与えることが、だんだん出来なくなって行くんだ。そういう時に、今更、教科書などを、ホンの少し上等にして見た所で始まらないじゃないか。なまじっか教育をほどこすことが土人達を不幸にするかも知れないんだ。オレはもう、すっかり、編纂の仕事の熱が持てなくなって了った。土人が嫌いだからではない。土人を愛するからだよ。僕は島民(土人)がスキだよ。南洋に来ているガリガリの内地人より、どれだけ好きか知れない。単純で中々可愛い所がある。オトナでも大きな子供だと思えば間違いがない。昔は、彼等も幸福だったんだろうがねえ。パンのミ・ヤシ・バナナ・タロ芋は自然にみのり、働かないでも、そういうものさえ喰べてれば良かったんだ。あとは、居眠り、と踊りと、おしゃべり、とで、日が暮れて行ったものを、今は一日中こき使われて、おまけに椰子もパンの木も、ドンドン伐られて了う。全く可哀そうなものさ。(今の有様については、くわしく書くことを禁じられているから、これは、もう之で止める)……(1941年11月9日消印・中島たか宛)


ここのところ、時間のあるときに『逝きし世の面影』を拾い読みしているのだけれど、幕末維新期に日本を訪れた“先進国”の教養人達と中島と、その視線の先にあるものの近さを痛みを以て読み取らなければならないつらさ。

世界中の至る所で、歴史の中のあらゆる時間に、同じことが起こっていた/いる。


幸せは誰かの価値観に合わせることではない。



パラオ行きたいなぁ。

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