高校公民Blog

高校の公民科(現代社会・政治経済・倫理)教育に関連したBlogです

舛添問題に見る日本人が政治家に求める清廉性の正体

2016-06-22 10:49:20 | 政治時事

舛添問題に見る日本人が政治家に求める清廉性の正体

1か月以上にわたり政治資金の公私混同疑惑が都議会やメディアから厳しい追及を受けていた舛添要一東京都知事が6月15日、辞表を提出した。

 確かに政治資金の私的流用も問題だし、それが指摘された後の舛添氏の対応も酷いものだった。その意味では辞任は当然だろう。しかし、その一方で、どうしても一つの疑問が残る。それは、われわれが政治家に何を求めているのか、だ。

 政治資金を私的目的で流用する行為は、それが公費や政党助成金という形の税金であっても、あるはその他の形で集められた寄付金であっても、政治家は厳に慎むべき行為でることはまちがいない。政治資金規正法が政治資金の支出に対して大きな裁量を認めているのは自由な政治活動を妨げないためであり、家族旅行や個人的な嗜好のために非課税の資金の流用できるようにするためではない。そうした行為が政治そのものに対する信頼を失墜させることになる以上、舛添氏の行為は大いに批判されなければならない。

 しかし、それにしても、今回の舛添氏の政治資金の私的流用は、政治家であれば大なり小なりやっていることなのも事実だ。その内容も、また金額も、政治家としてはむしろ慎ましいレベルだったといっても過言ではないだろう。しかし、週刊誌上で公用車を使った別荘通いや政治資金の家族旅行への流用が報じられたとき、舛添氏は「一切違法性はない」と胸を張って週刊誌報道を一蹴した。それがメディアや世論の逆鱗に触れたことで、小さな政治資金の流用問題は、舛添氏の人格や政治家としての資質といった、より大きな問題へと延焼し、クソ味噌状態になってしまったわけだが、とは言え発端となった問題が政治資金問題だったことは念頭に置いておく必要がある。

 われわれは僅かな政治資金の私的流用も認められないほど、政治家に高度の清廉性を求めているのだろうか。

 政治哲学者マックス・ウェーバーは「職業としての政治」の中で、政治には「カネのための政治」と、「カネによる政治」があり、両者は明確に識別されなければならないと説いている。「政治のためのカネ」と「カネのための政治」と言い換えてもいいかもしれない。

 政治的理想を実現するためには、一定のカネを必要とする場合がある。それは政策立案のための調査や人員の費用の場合もあるかもしれないし、政党や派閥の勢力を拡大するために仲間の選挙資金を融通しなければならない場合もあるかもしれない。それを「政治とカネ」で一緒くたにし、一様に制限をかけてしまえば、有権者によって選ばれ、権力の中で官僚機構との「最終戦争」を戦わなければならない政治を弱体化させてしまう恐れがある。

 しかし、その一方で、私腹を肥やすために政治権力や政治家の特権を利用する政治家は、官僚機構との最終戦争はおろか、そもそも政治家になる資格がない。

 金額は小さいかもしれないが、今回の舛添問題からは、「政治のためのカネ」の要素が全く見えてこない。あくまで「カネのための政治」にしか見えないところに、今回の問題の本質がある。舛添氏が、「僅かな政治資金の私的流用と、その後のメディア対応を誤った」ために辞任に追い込まれた事件として記憶にとどめるのは正しくない。週刊誌報道やその後のマスコミの追及によって、舛添氏がカネのための政治を行っていたことが露呈し、その疑惑に対して舛添氏が満足の行く釈明ができなかった。だから、舛添氏の辞任は当然であり、東京都民は次の都知事には間違っても「カネのための政治」をするような候補を選ばないように気を付けなければならない。(以上はビデオニュース・ドットコムサイトよりの引用

神保哲生

じんぼう てつお
神保 哲生
ビデオジャーナリスト
ビデオニュース・ドットコム代表

1961年東京生まれ。15歳で渡米。コロンビア大学ジャーナリズム大学院修士課程修了。AP通信など米国報道機関の記者を経て独立。99年、日本初のニュース専門インターネット放送局『ビデオニュース・ドットコム』を設立。主なテーマは地球環境、国際政治、メディア倫理など。

宮台真司

みやだい しんじ
宮台 真司
社会学者
首都大学東京教授

1959年仙台生まれ。東京大学大学院博士課程修了。社会学博士。東京都立大学助教授、首都大学東京准教授を経て現職。専門は社会システム論。(博士論文は『権力の予期理論』。)
 

↑ ↑ ↑ ↑ ↑    
よろしかったら、クリックをしてください。ブログランキングにポイントが加算されます


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。