1560年時点での主な戦国大名の分布状況です。有力勢力に関しては、当主の名を記し、おおよその勢力範囲を色分けしました。
(境界線は現在の都道府県境です)
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近江守
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小野 妹子(おの の いもこ、生没年不詳)は、飛鳥時代の政治家。姓は臣。子に毛人・広人]がいた。冠位は大徳冠。
『日本書紀』によると大唐に派遣され、大禮(冠位十二階の位)蘇因高と呼ばれた。日本の通説では『隋書』が記録する「日出処天子」の文言で知られる国書を携えた使者は小野妹子とされる。
出自
近江国滋賀郡小野村(大津市)の豪族で、春日氏の一族小野氏の出身。系譜は明らかでないが、春日仲君(または仲若子)の子とする系図がある。 一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子とするが、『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔と考えられることから、敏達天皇裔とするのは仮冒である。春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだものと想定される。本当は、分かっていない。
経歴
『日本書紀』(巻第22)によれば、「十五年…秋七月 戊申朔庚戌 大禮小野臣妹子遣於大唐 以鞍作福利為通事」とあり、推古天皇15年(607年)、鞍作福利らと大唐(当時の中国は隋の時代)に渡る。 推古天皇16年(608年)に裴世清を伴って帰国。ただし煬帝の返書は帰路に百済において紛失(紛失に関しては古来より議論がある。)、一時は流刑に処されるが、恩赦されて大徳に昇進。 翌年には返書と裴世清の帰国のため、高向玄理、南淵請安、旻らと再び派遣された。
『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」には、大業三年(607年)、隋の皇帝煬帝が激怒したことで有名な 「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」との文言がある。『隋書』には国書を持参した者の名前の記載はなく、ただ使者とあるのみである。
小野妹子は「華道の祖」とされることがある。
小野妹子墓は大阪府南河内郡太子町の科長神社南側の小高い丘の上にある。
小野妹子公園(滋賀県大津市小野)そばの唐臼山古墳(からうすやまこふん)を小野妹子の墓とする説がある。 唐臼山古墳南方の古墳は妹子の父の墓である可能性が指摘されており、大津市教育委員会による事前調査が行われたものの破壊され現存しない。
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近江の国 戦国大名 Wikipedia
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近江国の合戦 Wikipedia
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江戸時代の藩
藩名 | 居城 | 藩主 |
---|---|---|
彦根藩 | 佐和山城 (1600年~1606年) 彦根城 (1606年~1871年) |
井伊家(1600年~1871年、18万石→15万石→20万石→25万石→30万石(35万石格)→20万石→23万石) |
膳所藩 | 膳所城 |
戸田家(1601年~1616年、3万石) |
水口藩 | 水口城 |
加藤家(1682年~1695年、2万石) |
大溝藩 | 大溝陣屋 |
分部家(1619年~1871年、2万石) |
仁正寺藩 | 仁正寺陣屋 |
市橋家(1620年~1871年、2万石→1万8,000石→1万7,000石) |
山上藩 | 山上陣屋 |
安藤家(1604年~1695年、1万石) |
近江宮川藩 | 宮川陣屋 |
堀田家(1698年~1871年、1万石→1万3千石) |
三上藩 | 三上陣屋 |
遠藤家(1698年~1870年、1万石→1万2千石) |
堅田藩 | 堅田陣屋 |
堀田家(1698年~1826年、1万石→1万3千石) |
朽木藩 | 朽木陣屋 | |
大森藩 | 大森陣屋 |
最上義俊(1622年~1632年、1万石) |
近江高島藩 |
佐久間安政(1600年~1616年、1万5千石→2万石) |
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近江小室藩 | 小室陣屋 |
小堀家(1619年~1788年、1万2460石→1万1460石→1万630石) |
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戦国武将 蒲生氏郷公銅像(氏郷公園)・・・・・近江 日野町松尾 国道307交差点
近江蒲生氏
藤原秀郷を祖と称する藤原氏の一族。近江国蒲生郡を中心に勢力を築き、藤原惟俊の代から蒲生氏を称した。 室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に客将として仕えた。 戦国時代の初期の蒲生貞秀は、守護の六角高頼をよく補佐し、六角氏の戦国大名化に貢献したが、嫡男の秀行が早世したため、その死後に嫡孫の蒲生秀紀の子の蒲生高郷との間に争いがおき、高郷が勝利し以後は高郷系が当主として続いた。
高郷の子の蒲生定秀は六角氏の宿老として活躍するが、蒲生賢秀の代に六角氏が織田氏に滅ぼされると、蒲生氏は織田氏に属し、賢秀の子である蒲生氏郷が織田信長の娘婿に迎えられるなど重用されたため、織田政権とそれを継承した豊臣政権において蒲生氏は大大名として大きく躍進した。
しかし、名将として知られた氏郷が若くして没したため蒲生氏は衰退し、徳川幕府の大名として存続することには成功したものの、その後も当主の夭折が続いたため後継がなく蒲生氏は断絶した。
戦国大名、蒲生氏郷を生んだ日野城
蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。 初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川(会津若松)城主。
蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(ますひで)、または教秀(のりひで)。またキリシタン大名でもあり、洗礼名はレオン(あるいはレオ)。
日野氏の居城は音羽の城山にあったが、御家騒動によって音羽城は廃城となり、天文二年(1533)蒲生定秀が三年の歳月をかけて築いたのが日野(中野)城である。蒲生氏郷はこの城で弘治二年(1556)に誕生した。かつての城域の大部分は、日野川ダムが築かれたことによって水没してしまったが、稲荷神社・涼橋神社が祀られる丘陵に、石垣、堀切などが残っている。稲荷神社は鬼門除けとして祀られたもので、そのさきの台地は物見櫓跡といい、仔細に歩くと往時の面影を感じることができる。
日野城址の一部は、江戸時代に日野を領した西大路藩の陣屋として使用され、いまも陣屋跡が残っている。涼橋神社は市橋氏の祖先六孫王を祀ったものというが、横死した藩主の怨霊を鎮めるために建立されたともいわれる。
・日野城址
城址碑 ・稲荷神社の鳥居と石垣 ・石段は往時のものか? ・曲輪址か?広場 ・仁正寺藩陣屋址
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幼少時
蒲生氏は藤原秀郷(俵藤太)系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。近江蒲生郡野に六角氏の重臣蒲生賢秀の嫡男として生まれる。幼名は鶴千代と名付けられた。
永禄11年(1568年)、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされたため、父・賢秀は織田氏に臣従した。このとき、人質として岐阜の信長のもとに送られた。
信長は氏郷の才を見抜いたとされ、娘の冬姫と結婚させた。信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀と名乗り(信長の官職である「弾正忠」から1字を与えられたとの説がある。なお、本項では一部を除いて氏郷に統一する)、織田氏の一門として手厚く迎えられた。
武勇にも優れ、永禄11年(1568年)の北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾ると、永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めや元亀元年(1570年)の姉川の戦い、天正元年(1573年)の朝倉攻めと小谷城攻め、天正2年(1574年)の伊勢長島攻め、天正3年(1575年)の長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。天正10年(1582年)、信長が本能寺の変により横死すると、安土城にいた信長の妻子を保護し、父とともに居城・日野城(中野城)へ走って明智光秀に対して対抗姿勢を示した。光秀は明智光春、武田元明、京極高次らに近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野攻囲に移る手筈だったが、直前に敗死した。
その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕えた。秀吉は氏郷に伊勢松ヶ島12万石を与えた。清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに従軍。同年に、秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。天正13年(1585年)の紀州征伐(第二次太田城の戦い)、天正15年(1587年)の九州征伐や天正18年(1590年)の小田原征伐などにも従軍する。また天正13年(1586年)には従四位下・侍従に任じられる。その間、天正16年(1588年)には飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)で新城建築のための縄張りを行い、松坂城を築城。松ヶ島の武士や商人を強制的に移住させて城下町を作り上げた。同年4月15日、正四位下・左近衛少将に任じられる。豊臣姓(本姓)を与えられる。
一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において伊勢より陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。なお、松ヶ島時代(天正13年(1585年)頃)に賦秀から氏郷と名乗りを改めているが、これは当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く「賦秀」という名が不遜であろうという気配りからであった。
会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守(現存する5層の復元天守は寛永年間に改築されたものを元にしている)を有するこの城は、氏郷の幼名にちなみ、また蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。また、築城と同時に城下町の開発も実施した。具体的には、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、江戸時代の会津藩の発展の礎を築いた。
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骨肉の争いを秘める─音羽城
お城のデータ
所在地:蒲生郡日野町音羽
別 称:日野城/智閉城/智関城
現 状:公園・山林:
区 分:山城
標 高:280m 比高差:30m
遺 構:土塁・堀・説明板
築城期:室町期
築城者:蒲生貞秀
⑩最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
訪城日:2013.7.6
お城の概要
音羽城は、北に、東西が谷となった半島状の丘陵先端部を利用して築かれた城だ。 現在、本丸・二の丸・南の丸を合わせた広々とした芝生の公園の公園となっている。
城の遺構は、空堀が公園の北・東・南に良く残り、特に南から東にかけての空堀は見応えがある。 公園内南丸と南帯曲輪との間に低いが土塁があり、北側の虎口付近にも土塁がある。
丘陵の北東先端部に北出丸がある。 ここにも土塁・空堀・虎口の遺構が良好な状態で残っていた。
城跡を歩くと大手門の石垣跡、壮大な堀切、いまも水が涌く井戸跡などが残り、過ぎ去りし往時における音羽城の堅固さを彷彿とさせてくれる。
お城の歴史
音羽城は、応仁の乱当時、蒲生貞秀が築いた山城。 蒲生氏は、日野谷を領した豪族で近江守護佐々木(六角)氏に仕えた。 音羽城は、明応五年(1496)、文亀三年(1503)に激しい合戦の舞台となった、守護六角高頼を助けての戦いの舞台となった。その後、大永2年に蒲生秀紀と高郷との間に相続争いが起き、叔父蒲生高郷に攻められた蒲生秀紀は、3年に渡る籠城戦の末に、守護六角高頼の裁定により降伏し和議が成立した。 この和議により、音羽城は廃城となり蒲生秀紀は鎌掛城へと移り、蒲生宗家を継承した高郷・定秀は、その後居城を日野中野城へと移した。いずれも蒲生氏の勝利となったが、大永二年(1522)に起こった一族の内訌により落城、音羽城は廃城となった。
伊庭出羽守貞隆は援軍細川政元の家臣赤沢朝経と共に音羽城を包囲したが、落とすことができず敗走した。
この籠城戦での糧水が乏しいのを体験した蒲生貞秀は、翌年中野に城を築き、ここ中野城を居城とし、音羽城を属城とした。
貞秀は老後家督を長子秀行に譲ったが、秀行は父に先立ち死去した。秀紀はまだ幼かったために秀行の弟、高郷は秀紀に代わって宗家を継ごうとしたが貞秀はこれを許さなかった。貞秀の死後、高郷は所領配分の少ないのを不服として大永2年(1522)六角定頼の援けを得て秀紀の音羽城を攻めた。籠城8ヶ月に及んだ後、秀紀は降伏し、定頼の調停で両家分立とした。この時に音羽城は破却され、秀紀は鎌掛城を、高郷は中野城を居城とした。
秀紀も母、妻も城内の井戸に身を投じ、蒲生家嫡流は滅ぶ。
音羽城は応仁の乱当時、蒲生貞秀が築いた山城である。 前面には日野川を配し、背後には宝殿ヶ岳を控える要害堅固な城で、明応五年(1496)、文亀三年(1503)に激しい合戦の舞台となった。 いずれも蒲生氏の勝利となったが、大永二年(1522)に起こった一族の内訌により落城、音羽城は廃城となった。 城跡を歩くと大手門の石垣跡、壮大な堀切、いまも水が涌く井戸跡などが残り、音羽城の堅固さを彷彿とさせてくれる。
・城址石碑と土塁址
参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、、パンフレット各種・現地説明板・専門員のガイド説明
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