城郭探訪

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八相山城 近江国(虎姫)

2016年01月16日 | 陣城

八相山砦八相山

お城のデータ

別 称:成道山城

所在地:滋賀県東浅井郡虎姫町中野八相山 map:http://yahoo.jp/3E17uH

現 状:公園・社地・平地+山地・山林

区 分:丘陵城(砦・陣城) 遺 構:曲郭・堀切・物見廓

築陣期:織豊期

築陣者:織田信長軍(蜂谷氏・多賀氏)

陣 守:多賀貞能・蜂屋頼隆

標高:140m 比高差:50m

目標地:三川の時游館・中野の矢合神社

駐車場:矢合神社下の駐車場

発掘調査:遺物概要県報(5世紀-鏡+剣+刀子+短甲)。 発掘概要教育キャンプ場整備事業。 

訪城日:2016.1.10 

 

お城の概要

虎御前山砦と同じ丘陵の南側を八相山砦「中野山とも呼び)多賀貞能と蜂屋頼隆の陣城は残る。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えとして位置している。

矢合神社えを挟んで、多賀氏・蜂谷氏の陣城として、公園整備されている。ハイキングコースや自動車道も整備され、顕著会のよって整備され、観光と城郭跡や説明板・石碑の建ち非常に解り易いが、虎御前山砦として一体化され、八相山砦の区分は、現地では判別されていない。

歴 史

『太平記 巻三十』に「八相山城 虎姫町」

観応2年9月7日の条・・・「同九月七日近江国へ打出、八相山ニ陣ヲ取ル」と記す

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虎御前山の尾根にあり、見晴らしが良い。「矢合」と音が通じる八相(やあい)山に鎭座し、旧称八相大明神と称した。

元亀元年(1570)までは古来の神殿があつた。元亀・天正の兵火で焼失。明治に矢合神社と改称

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‐‐‐信長公記 巻五 元亀三年  3、戦野  奇妙様御具足初に虎後前山御要害の

この虎御前山から後方の横山までは三里の距離があり、やや遠かった。このため途中の八相山と宮部郷(虎姫町宮部)にも連絡用の砦が築かれた。宮部郷には宮部善祥坊継潤が入り、また虎御前山から宮部郷までは悪路が続いて通行が不便だったため、信長公は道路の改修を命じて道(軍道)幅を三間半にまで広げさせ、敵地側の道路脇には五十町の距離にわたり高さ一丈の築地を築かせ、(水攻め)川水を堰入れさせた・・云々

軍道・築地・・・予想図

 八相山砦―東浅井郡虎姫町中野

虎御前山砦と同じ丘陵の南側を八相山(中野山とも呼び)砦を多賀貞能と蜂屋頼隆が守りについた。これで虎御前山の西にある月ヶ瀬城に対する備えが出来た。信長は次に宮部城との兵員や物資の移動が容易に行えるよう軍用道路の普請を命じた。道幅が3間半(約6.3メートル)距離が50町(約5.5キロ)の道で敵からの攻撃を避けるために1丈(約3メートル)の築地が設けられた。
11月3日この軍用道路を破壊しようと大将朝倉景鏡が出陣してきた。同時に浅井井規が宮部城を包囲した。これを見て秀吉は虎御前山砦から浅井軍の背後を突こうと出撃した。秀吉軍の梶原勝兵衛、弓衆中野又兵衛一安、毛屋猪介、富田弥六、信長から譴責を受けて湖北に残された馬廻衆滝川彦右衛門らの猛攻をみて景鏡も戦いに加わり大乱戦となった。そこへ継潤が城から討って出御前山(中野山、八相山)は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。

・虎御前山・八相山(中野山)は、日本の歴史上で2度の大きな戦場として登場します。

  • 室町時代の初め、将軍の足利尊氏と弟の足利直義が戦った八相山(はっそうざん)の合戦。
  • 織田信長が小谷山の浅井長政を攻めたときで、尾根上には信長をはじめ木下秀吉、柴田勝家、堀秀政、滝川一益、丹羽長秀などの陣地跡。
  • 近江国浅井郡宮部村(現在の滋賀県長浜市宮部町)の小豪族を出自にもち、もとは比叡山の山法師であったと伝わる。宮部善祥坊清潤の養子となって比叡山で修行をしたのち僧侶となったが、故郷宮部に戻り、近江の戦国大名・浅井長政の家臣として仕えるようになる。武勇に優れた一面もあり、長政に従って織田信長との戦いで活躍し、横山城の城将であった羽柴秀吉と対峙したが、元亀3年(1572)10月、秀吉の調略に応じてその与力となった(『浅井三代記』)。寝返りの証として浅井側の国友城を攻めた際、銃撃を受け負傷している。
  • 『信長公記』にはこれより少し早い8〜9月に、信長によって宮部村の要害を守るよう命じられたとある。

虎御前山城の遺構

虎御前山の遺構は、一部破壊されている部分もあるが、比較的良好に 残されている。
山の最高所に位置する「く」の字形の曲輪(くるわ)(伝織田信長陣)は、北・東・西の三方を高い切岸で防御されており、ここを中心に南側の砦(伝堀秀政陣・滝川一益陣)は堀切と竪堀を使った防御がなされる。 また、最も小谷城に近接する伝木下秀吉陣は、三角形の曲輪を中心に、周囲に帯曲輪が巡らされるなど、ここが最前線であったことを窺わせる。

虎御前山城図

天正元年(1573)8月、小谷城総攻撃が仕掛けられ、9月1日に長政が自刃して浅井氏は滅亡、小谷城攻略戦に終止符が打たれ、虎御前山城は廃城となった

矢会(やあい)神社は延喜式神名帳に近江国浅井郡十四座ノ一と記され、古くは八相社又は八相大明神と云へり、鎮座するこの一帯の山を八相山と云ふ。八相を“やわい”と訓読す。けだし当神社には往古より弓矢の神事ありて村民盛んに射的を神前で行ひ多くの矢が行き合うことにより、矢合の文字を以て社名とせり。
祭神の葦那陀迦神は葦の生じ易き水辺を司どり給ふ神なり。この地古くより水利の便意の如くならざりしかばこの神を祭る。世にいふ世々開長者の“せせらぎ”は水の湧き出ずる状を表す語にして村民篤く敬仰す。

天正年間信長の小谷城攻撃の際、戦火に遇い多くの古文書逸散したるも、現社殿は天明年間の作なり。境内に現存する鐘楼は戦火をまぬがれし道成寺のものを移築したものなり。

中野にある矢合神社に注目される。同名の神社は式内社の論社として、同じ長浜市域の西浅井町岩熊にもあって、そこには、「浅井姫命と気吹雄命が争った時、気吹雄命が浅井岡を襲い、浅井姫命は当地まで退き、防矢を射た」という伝承があるから、浅井姫と矢に関係深いことが分かる。倭建命西征には美濃の弟彦公が弓矢に優れた者とともに従軍したと『日本書紀』景行段に記され、矢道には弟彦公の古墳とみられる長塚古墳もあり、三角縁神獣鏡が出土した。丁野にある式内社岡本神社の祭神も食糧神ヲカ神たる保食神とみられるが、「保食神=罔象女神」でもあったから、これも浅井姫に関係がある。坂田郡には式内社の岡神社もある。 土塁

多賀氏陣所

 駐車場の石仏

参考資料: 滋賀県中世城郭分布調査、『日本城郭大系』11。『信長公記』巻三(元亀元年)、『浅井三代文書集』、虎姫時游館展示品 

       本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!


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