お城のデータ
所在地:長浜市宮部町(旧東浅井郡虎姫町宮部) map:http://yahoo.jp/0NCYoz
現 状:公園・宅地
区 分:平城
遺 構:城跡碑、堀(用水路)
築城期:江戸期
築城者:滝川一明
目標地:宮部会館・宮部西薬師寺
駐車場:公園の駐車場利用
訪城日:2016.1.10
お城の概要
宮部集落の西部に宮部西薬師堂が現存する、その東側が陣屋跡で、明治期に宮部学校が建てられて現存する。
周囲は、堀跡(用水路)がは巡り、『滝川陣屋跡』の城跡が建つ。周囲は宅地化され、往時の遺構は堀痕だけである。
滝川陣屋跡(江戸期)のち宮部学校
歴 史
滝川一積は、天正11年(1583年)誕生。滝川一益の孫にあたる。父・一忠は豊臣秀吉により追放されて浪人であったため、一積もまた関ヶ原の戦い以前の行動は定かではない。旧知であった真田氏の元にいたともいわれ、関ヶ原の戦いの際に石田三成の妻の従兄弟である宇多頼次と離縁していた真田昌幸の娘・於菊を託されたという。
その後、織田長益の推挙によって中村一忠に仕えた。その直後の慶長8年(1603年)に徳川家康の下で2000石を拝領して家臣となっていた叔父・滝川一時が若くして死去し、子の滝川一乗が幼少ということもあって、一乗が15歳になるまでの名代に任じられて家康に仕えた(ほぼ同時期に米子藩では横田騒動が起こったことも理由の一つとしてある)。大坂の陣では、徳川方使番として活躍した。
ところが元和2年(1616)、一乗が15歳となっても所領を譲ろうとしなかったため一乗に訴えられ、その結果、一乗に750石を分与することとなり、一積は1000石の旗本となる(なお、その後この問題については結局うやむやとなった)。また於菊を妻にしていた縁から、討死にした真田信繁の娘を養女に迎え、伊予松山藩家老・蒲生郷喜に嫁がせるなど、たびたび真田氏のために働いた。
しかし寛永9年(1632)になって、幕府から突如としてこれら信繁の娘を養女として他家に嫁がせたことなどを罪状にされ、幕府使番の職を解かれて除封される。
実際には蒲生忠知家の内紛や、幕府内の勢力争いが背景にあったとされるが不明。ただし嫡子の一明は、寛文3年(1663)に再び幕府に300俵で召しだされ、幕臣となっている。
参考資料:滋賀県城郭分布調査、淡海の城、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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