城郭探訪

yamaziro

賤ヶ岳城 近江国(木之本)

2013年12月13日 | 戦国山城

 仮称西山砦~尾根道を賤ヶ岳城へ

歴 史

『信長公記』の「刀根山合戦  刀根山の戦並に一乗谷攻破るの事」の条

・・・・この戦で落城した朝倉方の城塞は、大嶽・焼尾・月ヶ瀬・丁野山・田部山をはじめ、義景本陣の田上山や疋田・敦賀・賎ヶ岳の各城など数多にのぼった。また若狭で織田勢に味方していた粟屋越中の城に対して築かれた十ヶ所の付城にいた兵たちも退散した。・・・云々賤ヶ岳トンネルの真上!

遠望(虎御前砦、大嶽城・小谷城・・・

 

賤ヶ岳城域~

お城の概要

 山頂部に三つの郭があり、中央の郭が主郭で、西側は分厚い土塁を設けて、西郭を区画している。
西郭は、四方に土塁が廻る郭で、土塁も分厚く、裾の切岸も明瞭である。主郭と直接に連絡する虎口はなく、側面の帯郭に出て、主郭に連絡していたと考えられる。
主郭の東にも郭があったが、現状は主郭とほぼ地続きになっている。その地続きの中央付近に堀切端部と竪堀が残っており、主郭と東郭は堀切で隔てられていたと思われる。
東郭の東端には、高低差のある外枡形状虎口、虎口の脇に竪堀が数条伸ばされ、通路から斜面や犬走りへ回り込むことを防いでいる。
山頂から三方に伸びる尾根には堀切が設けられ、特に北西尾根の堀切は明瞭である。北東尾根と南西尾根の堀切は、通路を見下ろせる位置にあり、塹壕の機能が強かったと考えられている。
この賤ヶ岳は、観光地だけあって眺望が素晴らしい。しかし、よく観察すると城郭遺構も相当残っており、二度美味しい城跡だ。

主郭土塁

お城のデータ

別  名:賤ヶ岳砦

所在地 : 伊香郡木之本町大音、川並、余呉町川並 マップ:http://yahoo.jp/sOGku4

築城年 : 天正11年(1583)

形  式 : 山城

標 高:421.9m 比高差:285m

遺  構 : 土塁、堀切、竪堀、虎口、土橋、犬走り

訪城日 :2013.12.7

歴 史

近世初頭の湖北は、浅井氏の支配するところとなります。浅井家の領国は江北6郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛知)。

 戦国の世は、水を治めた領主が国を治めるといわれ、浅井氏は13本の川を治めたことになります。前述した「餅ノ井落し」の由来も、その一端を示すものです。

 浅井氏は鎌倉時代からこの地で力を持っていたらしいのですが、守護職であった京極氏の執権という地位から、京極家を倒して戦国大名としてのし上りました。京都と北陸・東国を結ぶ要衝の地を支配したことで、浅井氏は戦国勢力の主導権を握ることになります。

 『諸国廃城考』に【賤ヶ岳の城には、元亀元年(1570)に、東野左馬之助・西野壱岐守・千田采女・西山旦左衛門楯籠もる】とある。                         賤ヶ岳城は、浅井氏の持ち城であった。元亀元年(1570)に、東野左馬助・千田采女正・西山旦左衛門・西野太郎左衛門の浅井傘下の四将が在番。当初は4ヶ所の郭が存在した。

賤ヶ岳の古戦場

天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦の際に、羽柴秀吉軍の但馬竹田城主の桑山修理重晴が砦を築き、羽田長門守正親、浅野弥兵衛らとともに守備した。
羽柴軍陣城にあって田上山砦とともに中心的な役割を持っていた砦である。
柴田勝家軍の佐久間盛政による4月20日の中入り攻撃により、同じ尾根筋にあった大岩山砦の中川清秀が討ち死にし、岩崎山砦の高山右近が木之本の本陣に退却し、両砦は柴田軍に占拠された。
賤ヶ岳砦の桑山重晴も退こうとしたが、丹羽長秀の救援を得て盛政軍と対峙を続け、その日の夜半驚異的な早さで岐阜出陣から戻った羽柴軍主力が、翌朝から盛政軍を追撃し柴田軍を壊滅させた。

 七本槍で名高い賤ヶ岳の合戦(1583年)。秀吉と柴田勝家による、信長亡き後の後継者を決める戦いであり、関ケ原とも並び称せられる天下分け目の合戦でした。両軍の兵力は柴田4万・羽柴6万ともいわれ、死傷者は数知れず、余呉湖周辺の田畑は血で染まったとあります。

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の「川並村中伝書」の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

余呉湖犬走り

主郭下の犬走り。

土橋

飯ノ浦・塩津切通しへ

 当然周辺の農村は修羅場と化しました。この合戦から約30年後に書かれたという余呉湖畔の「川並村中伝書」の裏書によると「賤ヶ岳の乱に村中二年ばかり他所へ行き帰らないものもありました。文室村・余呉寺・塩津・飯ノ浦などへ女房子供は立ちのき、乱が静まってから帰り村を立てましたので・・・」と記されています。当時の荒廃した川並村の様子と戦後の復興が容易でなかったことがうかがわれます。

塩津浜

ロープウエイが冬眠中、いろは坂のようなハイキングコ―スを下山~

山上駅の横・・・下城口

雨で濡れ、枯葉・落ち葉、急勾配・・・獣道のような、滑落しないように!

参考資料:滋賀県城郭分布調査、信長公記、淡海の城

本日も訪問、ありがとうございました。


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