城郭探訪

yamaziro

甲津畑城 近江国(永源寺)

2013年05月03日 | 丘陵城

訪城日:2013.5.3

お城の概要

甲津畑城主郭(本城)跡・・・・(今は、廃校の甲津畑小学校}。しかし校舎は建ち校庭となっている現在、かつての確かな旧状を知り難い。城跡は規模及び構築法においても、優れたものと推測されるが・・・。

 即ち、小学校に下の浄源寺あたりも腰郭址であったと考えられ、浄光寺の場合も同様のことがいえよう。又、北側の人家数件」の宅地もやはり腰郭ではなかったカ。

  甲津畑城跡は、甲津畑小学校と集落にわずかにその遺構を残していているようである

 城山は比高約50mほどの小山で、校舎の裏山にある小墓地のあるあたりも、城背後の構えとしての城砦の遺構が残されている。

小学校の南西側の山腹の切れ込んだ谷は、当城の竪堀の用をなしていたものと。

 城主速水氏は永禄七年(1564)3月の小倉家の内訌に、小倉氏の将の次兵衛尉を討ちとって感状のあったことが知られている。

浄源寺の上

石段のへの登り口の背後の山(通称城山)。

千種街道は、杉峠を越えて北伊勢に通じる街道を、まさに眼下に押さえる位置にある。

 千種街道側の尾根と谷筋に曲輪を階段状に配し、背後の尾根を堀切で処理した小振りな山城である。

歴 史

 甲津畑城主は、速水氏のみの直系終始しており、その遠祖は甲斐国逸見里から、湖北浅井郡の河道郷速水に移住した一族の末裔と記され、速水孫三郎義氏の二男、逸見三郎四朗秦氏が永仁2年(1294)の頃、興福寺領の甲津畑公文職に任じたことが始まり、その子亦三郎信義は塩津(最奥地)の公文職も兼ね、その末裔は元弘建武の役にも参勤、更に六角家の近習物頭役にも就き、応仁の乱にも戦陣を駆け、永禄年間には佐久良と蓮盟したことは和南城の頃に記しいるが、佐久良の小倉氏衰亡の後は、日野城主蒲生氏と行動を共にし、程なく六角佐々木氏の禄を断ち、元亀元年5月19日、信長の千種越え遁走を蒲生・布施両氏等と援護したことは、甚だ有名である。(滋賀県中世城郭分布調査4 より)

城跡は、先の世界大戦の戦死者の墓碑十基・・・。

  四ツ目結いの家紋が。


 
 千種街道を挟んで、信長が千種越えをした時に、馬を繋いだとされる枝振りの見事な勘六左衛門の松(信長の馬つなぎ松)がある。


-----------信長公記 千種峠にて鉄炮打ち申すの事
日野蒲生右兵衛門大輔、布施籐九郎、香津畑の菅六左衛門馳走申し、千種越えにて御下なされ候。左候ところ、杉谷善寺坊と申す者、佐々木左京太夫承禎に憑まれ、千種・山中道筋に鉄砲を相構へ、情なく十二、三日隔て、信長公を差し付け、二つ玉にて打ち申し候。されども、天道照覧にて、御身に少しづゝ打ちかすり、鰐の口を御遁れ候て、目出たく五月廿一日濃州岐阜御帰陣。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 甲津畑は、永仁2年(1294)頃、速水泰氏が興福寺領の公文職として館を構えた所であり、足利義稙が観音寺城の六角高頼を征した時の城ともいわれている。
 

           今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました.


最新の画像もっと見る