城郭探訪

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山本山城 近江国(高月)

2011年05月22日 | 戦国山城

山本山城址探訪

山本山城は小谷城の西約5kmに位置し、琵琶湖岸の標高324mの山本山の山頂付近に築かれている。
山本山の東には北国街道が通り、尾上湊も近い上、山頂からは琵琶湖を一望できることから、湖上交通をも掌握する上で重要な役割を担っていたと考えられる。

 この山本山のことを、山の南側の山本村では山本山、あるいは山本山城と呼ぶのに対して、東側の阿閉(あつじ)村側では阿閉山または阿閉城と呼ぶ。
 この呼び名は、山本山城が南向きに機能していた時と、東向きに機能していた時の名残で、南と東に向けてふたつの顔をもっていたことを想像させる。

 山本山の西側に位置する宇賀神社の本堂横から登り始める。山本山から賤ヶ岳までの約8kmがハイキングコースとなっており、山道は良く整備されている。この山道を30分~40分ほど登ると二の丸へ出る。

 二の丸は、山頂付近の緩やかな傾斜地を3段の削平地に区切られて、二の丸から一の丸へは土塁による虎口を経て繋がっている。
一の丸から一番馬場跡,二番馬場跡を越えたところから尾根筋に4条の堀切が続く。

 山本山城の見所は、一の丸の北東側に設けられている見当杭(物見櫓と推定)である。位置的にみても、ここから北国街道を監視していたことは間違いない。

 大手道は山本山市場地区の中央部に位置する朝日小学校裏手の登り口と考えられ、円乗院常楽寺境内を経て山上に至る林道、若しくは西阿閉地区の西側より登り二番馬場曲輪に至る林道と考えられている。

 朝日小学校,朝日公民館辺りは、一時期山本城主であった浅見対馬守の居館跡である。また、江戸末期に水野氏が山形藩より旭山藩に移封されて陣屋をおいた所でもある。

 山本山城が歴史に登場するのは治承4年(1180)に、山本義経の本拠である山本山城を平知盛・資盛が攻撃した時とされる。
その後、京極氏の被官であった阿閉氏(あつじ)が入ってその本拠とした。

 元亀年間(1558~1573)織田信長による浅井攻めに際しては、浅井氏の居城・小谷城の支城として位置づけされていたが、元亀4年(1573)阿閉貞征が織田信長に降ったことで小谷城は孤立し、浅井氏は滅亡の一因となった。

 阿閉貞征は秀吉の与力となり山本山城と伊香郡内の本領を安堵されたが、天正10年(1582)本能寺の変で明智光秀に加担して、秀吉方の長浜城を攻めた。
しかし、山崎の合戦で光秀を破った秀吉に追討され一族全て殺され、山本山城は廃城となった。

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