城郭探訪

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公方屋敷支城  近江国(甲賀)

2015年04月14日 | 丘陵城

 

お城のデータ

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲賀町和田西谷  map:http://yahoo.jp/aA8Ud0 

区 分:丘陵城

遺 構:曲郭・土塁・櫓台・堀切

標 高:230m     比高差:30m

城 域:東西20m×南北30m

築城期:室町期 天正2年(1574)

築城者:和田

城 主:足利義昭

目標地:善福寺

駐車場:善福寺下の駐車場これの前

市指定史跡

訪城日:2015.4.11


お城の概要

公方屋敷支城は、和田川左岸にある支城群の中で一番北側に位置して、対岸の殿山城と共に和田谷入口を守る城だ。

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。 

 公方屋敷支城は、城名からすれば足利義昭の公方屋敷を守るために築かれたものと考えられ、公方屋敷の西約300mに位置し、西側から延びる小さな尾根上に築城されている。

支城は、西から半島状に伸びた丘陵先端部を鞍部で堀切って主郭部としている。が、この堀切は他の支城群とは異なり、箱堀的な温和になっている。

 堀がL字形に残る主郭、一段下に大きな二の曲輪がある縄張りで、(主郭内にある堀の存在は、後世の堀下げカ、山城・丘城の遺構では珍しいもので、ちょっと気になる遺構だと云える)。

 尾根の比高は30mで、一見どこからでも登れれそうあるが、東斜面は崖状地形、北~西斜面は比較的緩やかではあるが、民家が山裾まで建てられており、何軒かの民家敷地を通らないと上れない。(近年見学者用に、民家の手前から登城道が設けられている)

 城域はおおよそ南北40m、東西20mほどで、南と北に見張り台が確認できる。

 他の多くの甲賀の城と事なり、周囲を囲む土塁がない。 頂部には方形の池があり、その西側にわずかに土塁(櫓台)が残る。土塁の西側は、堀切(後世開削され)続く尾根を登り、そこから北へ続く尾根にも堀切が残っていた。
見張り台を除いてはほぼ完全に削平されている

新・見学者用の登城道

民家の倉庫・・東側から新城道)

主郭から

北の物見櫓台(主郭から)

池のある主郭土塁

西の物見櫓台

開削された西側堀切・・・城道

歴 史 

 公方屋敷は室町幕府の第15代将軍足利義昭が一時居したところで、当時の将軍は公方と呼ばれることから地元でも公方屋敷と伝えている。

 永禄8年(1565年)5月第13代将軍・足利義輝が三好,松永氏等によって二条御所で殺害された。永興福寺一乗院の門主足利覚慶(義輝の弟)は身の危険を感じ、細川藤孝、和田伊賀守惟政の助けを借りて奈良し、甲賀に亡命した。

 その後、和田氏の所領である野洲矢島(矢島御所)に移り、若狭の武田義統、越前一乗谷の朝倉義景を頼って流浪するが、朝倉家の家臣であった明智光秀の仲介により、美濃岐阜城にあった織田信長を頼って美濃へ移り、永禄11年(1568年)9月織田信長に擁立されて上洛。
10月18日、将軍宣下を受けて第15代将軍に就任した。

・・・・・信長公記・・・・

一巻 流亡将軍  一乗院殿佐々木承禎朝倉御憑叶わざる事

 義輝殿の次弟で奈良興福寺一乗院門跡となっていた足利義昭殿は、寺を相続するかぎり危害は加えないとの三好勢の言葉を信じ、義輝殿生害後もしばらく在寺していた。しかし次第に身辺に危機を感じ、永禄8(1565)年12月ひそかに南都を脱出した。そして和田伊賀守惟政に守られて伊賀・甲賀路を下り、江州矢嶋へ出て六角左京大夫承禎義賢を頼った。六角家へは様々に尽力を要請したが、満足のいく回答は得られず、かえって近江を追い出される破目になってしまった。「頼む木本に雨漏り」といった事態に失望した義昭殿は、さらに越前へ下向した。

 越前朝倉家は元来国主の地位になかったが、現当主朝倉義景の父孝景の代に将軍家から御相伴衆に准ずる地位を与えられて一国の支配を認められていた。しかしながら朝倉家ではその恩を忘れ、義昭殿の帰洛にもなかなか力を貸そうとはしなかった。

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 その後、義昭は信長と対立することが多く、天正4年(1576年)毛利氏を頼って備後の鞆に亡命したが、室町幕府を再興することはできず、慶長2年(1597年)大坂で死去した(享年61歳)。

 公方屋敷支城(遠望)・・・和田川より

 参考資料:日本城郭大系11・滋賀県中世城郭分布調査・甲賀市史(甲賀の城)、Wikipedia

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