城郭探訪

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居初(いそめ)氏館  近江国(堅田)

2013年03月22日 | 居館

居初氏 (Wikipediaより)

 琵琶湖の西岸に位置する堅田は古くから湖上交通の要衝であった。中世には堅田衆と呼ばれる自治組織がこの地を支配し、水上交通、漁業権、徴税などの湖上特権を有していた。当地は平安時代には下加茂社の御厨となっていた。

 居初氏は同社の供御人の系譜を引く、当地の旧家である。12 - 13世紀には「三党」と呼ばれる居初、小月、刀禰(とね)の3家の地侍が存在し、中世末期に至るまで当地に勢力を持っていたが、豊臣秀吉の時代になり、秀吉が湖上の自由通行を認める交通政策をとったことから、堅田衆の勢力は一時衰退した。その後、元和年間(1615 - 1624年)になって、幕府へ請願の結果、居初家には舟運を取り仕切る権利が再び認められるようになり、船道郷士(ふなどうごうし)と呼ばれるようになった。

新興の商工業者の全人衆(まろうどしゅう)との争いで殿原衆は一時力を失い、秀吉政権や徳川幕府の政策で、水運の中心は大津に移っていく。

それでも、、漁業の発展もあって堅田の繁栄は保たれ、芭蕉など文人が多く訪れ、居初家は江戸時代にも郷士として大庄屋を務めた。

 居初家は茶人などの文化人との交流があった。今に残る居初氏庭園と書院は、茶人藤村陽軒によって作られたものである。庸軒の天和元年(1681年)頃の詩「題居初氏茶店」が残ることから、庭園と書院はその頃までには作られていたことがわかる。作庭には庸軒の門人で堅田の郷士であった北村幽安もかかわっている。

 居初家住宅は表通りの東側に面して建ち、敷地南側に主屋、北側には米蔵、文庫蔵のほか、主屋から廊下で繋がった数寄屋造りの書院(茶座敷)があり、「天然図画亭」と称する。「天然図画亭」の命名は近江八幡の天台学僧慈周(六如上人)による。この書院の北から東にかけて庭園が広がる。庭園には延段(のべだん、自然石や切石を直線状に敷き並べた通路)をめぐらし、松、モッコク、ツツジなどを植栽し、東側は琵琶湖の湖面と対岸の三上山などの山並みを借景としている。

主屋は後世の改造が著しく、書院も創建以来数度にわたり改造を受けているが、修理時に往時の形式に復している。書院は入母屋造茅葺に杮葺の庇をめぐらし、北面から東面にかけて幅5尺の広い縁を設ける。北側に玄関を設け、その奥は「中の間」、玄関の右手(西)は手前が三畳大の仏間、奥が四畳半。「中の間」の左(東)が八畳(点前座を含め九畳)の主座敷で、点前座と炉を設けた茶室でもある。主座敷は北面を床の間と障子2枚、東面はすべて障子とし、これらの障子を開け放つと庭園の眺望が開ける。南側には一畳の点前座が張り出し、炉は向切、逆勝手とする。点前座の中柱と東側の壁との間に低い腰壁を設け、結界としている点が珍しい趣向である。

昭和56年(1981)6月11日に国の名勝に指定された。(Wikipediaより)

天然図画亭(てんねんずえてい) 

堅田藩 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 堅田藩(かただはん)は、近江国滋賀郡・高島郡(現在の滋賀県大津市堅田)に存在した藩。藩庁は堅田陣屋。]

藩 史

戦国時代、堅田は堅田水軍と呼ばれる水軍衆がおり、安土城を本拠として天下布武を狙う織田信長にとっては、堅田は重要拠点と見なされていた。また、堅田は水運の要衝としても大いに栄えた。

近世には、元禄11年(1698)3月7日、下野国佐野藩主であった堀田正高が1万石で堅田に移封されたことにより、堅田藩が立藩した。藩政の基礎は初代藩主・正高から第3代藩主・堀田正永の頃にかけて固められた。第6代藩主・堀田正敦は陸奥国仙台藩主・伊達宗村の八男であり、その経緯から若年寄、湯島聖堂再建の副奉行、『寛政重修諸家譜』などの編纂を務めるなど文教政策に携わっている。分化3年(1809)には3,000石を加増され、1万3,000石の所領を領することとなった。なお、正敦は仙台藩の藩主に若年藩主が相次いだため、その補佐役も務めている。藩政においても5ヵ年に及ぶ倹約令を発し、藩財政再建に努めた。

正敦は分政8年(1825)4月に城主格に任じられたが、翌年10月10日に再び佐野へ移封となったため、堅田藩は廃藩となった。堅田の所領のうち、滋賀郡領は佐野藩の飛び地として幕末期まで受け継がれることとなった。

歴代藩主

堀田家 譜代。1万石→1万3,000石。
  1. 堀田正高(まさたか)【元禄11年(1698年)3月7日藩主就任-享保7年(1722)5月9日隠居】
  2. 堀田正峯(まさみね)【享保7年5月9日藩主就任-享保11年(1726)4月14日死去】
  3. 堀田正永(まさなが)【享保11年6月9日藩主就任-享保20年(17355)8月29日死去】
  4. 堀田正實(まさざね)【享保20年11月2日藩主就任-宝暦8年(1758)10月18日死去】
  5. 堀田正富(まさとみ)【宝暦8年12月10日藩主就任-天明7年(1787)9月16日隠居】
  6. 堀田正敦(まさあつ)    【天明7年9月16日藩主就任-文政9年(1826)10月10日移封】
  堅田の地は大津代官所支配の天領だったが、元禄11年(1698)大老・堀田正俊の三男・堀田正高が下野国から移って陣屋を築いた。堀田氏は5代続いたが、文政9年(1826)転封となり再び下野に戻ったため、堅田はまた天領となった。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、ウィキペディア


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