城郭探訪

yamaziro

金ケ森城    近江国(野洲)

2013年03月18日 | 城郭寺院

 

 湖南地方での一揆の拠点は三宅金森(守山市)であった。金森は蓮如のときより真宗の中心地であったが、ここに城郭を構え、坊主・門徒らが集まり、大坂から下った川那部秀政の指揮を受け、三宅在域の衆とともに頑強に抵抗した。

右の書は「当所金森ハ去年大阪大乱ノ時ヨリ、所々ノ催促其密談有テ、諸方ノ門徒武士強勇ノ坊主衆アマタ加リ、大坂ヨリハ川那部藤左衛門秀政ヲ下サレテ一城堅固ナリ。三宅村モ其構ヲナス。小南衆ハ三宅金森ノ間ニ左右ニ川ヲ置キ、城ノ西ニ押ツメテ其要害ヲナス」と書きついでいる。金森城には主力が籠城したが、佐久間信盛に攻められ元亀二年九月に陥ちた。信盛は一揆の再発を防ぐため、諸村から「一味内通」しない旨の誓書を提出させた(『勝部神社文書』)。

善立寺の前が金森御坊で金ヶ森が寺内町として要塞化した時の中心となっていたところである。
 金ヶ森御坊は通常施錠されていて入ることは出来ないが、善立寺にお願いすれば見せて頂くことが出来る。

 境内奥には2.5mはあろうかという見事な懸所宝塔(重要文化財)が残っている。元々は石ノ戸にあったものを移したとのことであるが、兎に角立派な宝塔である。

 鐘撞堂の石垣は後年に積み直しされたものであるが、宝篋印塔の台座や矢穴のある石など、当時の石垣の石材が使用されており、こんなところにも歴史が感じられて面白い。
 城としての遺構は堀跡と見られる用水路が金ヶ森御坊のある台地の西側に残り、金森御坊から南約500mに大門という地名が残っており、寺内町の広さをおおよそ窺い知ることができる。

 近くには蓮如が棒で地面を突いたら泉が湧いたという伝説のある蓮如池があり、善立寺には、元亀3年(1572)に織田信長が金森に与えた楽市楽座の朱印状が残されている。
 なお、善立寺のご住職は、川那辺弥七入道道西から数えて20代目の川那辺さんが継いでおられる。

 寛正6年(1465)本願寺は“一向専修念仏を唱え、念仏以外の三宝である仏,法,僧を誹る邪法を流布している”として、延暦寺西塔院の僧達によって東山・大谷本願寺が打ち壊しされた。
 この打ち壊しを機に本願寺第8世法主蓮如は、堅田衆の援助を得て布教の拠点を近江・金ヶ森に移し道場を開いた。
 この時に道場を主宰し野洲郡,栗太郡地域で門徒集団の中心になっていたのが川那辺弥七入道道西である。

 元亀元年(1570)6月の姉川の戦い後、9月になると本願寺11世法主顕如は三好三人衆、および、浅井・朝倉氏と手を結ぶと共に各地の一向宗門徒に檄を飛ばし信長に宣戦布告(石山合戦)した。
 寺内町として発展していた金ヶ森道場は、顕如の檄に従い、要塞化し信長に対抗するが、翌元亀2年(1571)に志村城と共に攻められ、籐左衛門秀秋の時に落城する。

 なお、蓮如は寛正6年3月から文明3年4月までの6年間、東海、北陸、紀州、大和などを旅行していた時を除いては湖東、湖西に住んでいたとされ、「本福寺由来記」ではこの金ヶ森道場には70日滞在したとし、「金森日記秡」には3年間滞在したとしている。

 金ヶ森の一向一揆については、信長公記の元亀元年(1570)に、守山で織田軍が一向一揆衆と戦ったとの記述がある。これは顕如の檄によって近江の一向宗が蜂起していたことを示すものである。

------------------------信長公記~元亀元年の条
 「江州路地通りの御警護として稲葉伊豫守父子三人、斉藤内蔵之佐(斉藤利三)を江州守山の町に置かれ候ところ、既に一揆蜂起せしめ、へそ村に煙があがり、守山の町南の口より焼き入りしこと、稲葉諸口を支え、追い崩し、数多切り捨て、手前の働き比類無し。」
------------------------ココマデ

 元亀2年(1571)になると、信長の一向一揆に対する攻撃は本格化し、伊勢長島の一向一揆に対し第1次長島攻めが行われる一方で、近江の一向一揆の本拠である金ヶ森は攻め落とされている。

------------------------信長公記~元亀2年の条
 九月三日、常楽寺へ御出であり、御滞在ありて、一揆楯籠もる金ヶ森取り詰め、四方の作毛悉く苅田に仰せつけらる。しゝがき結ひまわし、諸口相支へ、取籠めをかせられ候ところ、御詫言申し、人質進上の間、宥免なされ、直ちに南方表に御働きと仰せ触れらる。
------------------------ココマデ

 なお、一向一揆の詳細については、本願寺と一向一揆を参照下さい。



 
金森城へはJR守山駅から近江鉄道バス下物線または杉江循環線に乗り、金ヶ森のバス停下車です。そこから西の路地に入っていくと善立寺・因宗寺・金森懸所に至ります。その西に広がる住宅地、「城ノ下団地」と呼ばれるところが金森城の伝承地です。

寺内町としての金森

14世紀に金森を支配していた川那辺厚春が本願寺五代目法主の綽如に帰依し、金森は天台宗から浄土真宗に信仰の基軸を大きく変えていった。その子川那辺在貞の時代には金森惣道場が開かれるにいたり、さらにその子川那辺矩厚は、存如に帰依し道西と名乗るようになった。金森惣道場(金森御坊)を中心として民家を環濠で取り囲んだ寺内町が形成されたのは、この道西の時代であると考えられている。江戸時代の「金森地図」(金森御堂保存)には周囲に濠を巡らし、土居を築いた跡が見られることから、金森は宗教的性格と防御の城郭的機能をあわせもった寺内町の初期的形態である、ということができる。現在も周辺には濠跡とともに大門や城ノ下などの地名が残されている。当時、二百軒を越える集落であった。

1465年(寛正6年)、比叡山僧兵による「寛正の破却」によって大谷の地を追われた本願寺派の指導者・蓮如は、高弟であった道西のもとに身を寄せた。さらに、付近の門徒衆を結集し比叡山の山徒衆に反抗。これを金森合戦といい、史上初めての一向一揆である。1466年(文正元年)11月には「報恩講」を勤修した。蓮如は1469年(文明元年)は対岸の堅田へ移動したが、金森は本願寺派の中心地として栄え、金森御坊を中心とする計画都市が形成された。

後に飛騨国高山城主となる金森長近は1541年(天文10年)までこの地で育ち、父の姓大畑から改名し、金森を名乗っている。

戦国時代には、近在である三宅の蓮正寺と連携した城としての機能が整えられ、湖南地域の一向宗徒の拠点となっていた。金森の一向宗徒は、織田信長の近江入国・比叡山焼き討ちの直前に、1571年(元亀2年)6月から9月にかけて反抗した。金森には近在の村々から一向宗徒が集結したが、石部・常楽寺に本陣を構えた信長配下の佐久間信盛によって攻められ、比叡山焼き討ちを優先した信長と一時は人質を交換して和睦した。しかし、翌1572年(元亀3年)には信長は近在の百を越える村々が「金森・三宅への出入や荷担をしないよう」という起請文をとられ、町域はいったん荒廃しかけた。しかし同年、信長によって楽市楽座の制札が与えられ、以後宿駅・市場の二つの性格を持つ集落となった。その後江戸時代に、琵琶湖渡航の主要港が矢橋港になると志那街道の役割が薄れ、金森も衰えた。

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