城郭探訪

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竹中城(竹永城)   近江国(甲南)

2014年10月01日 | 居城

:国史跡「甲賀郡中惣遺跡群」

甲賀郡中惣遺跡群(寺前城・村雨城・新宮城・新宮支城・竹中城)の一つとして国指定史跡となっている。

国指定史跡 「史跡名勝天然記念物」 指定年月日:20080728

甲賀郡中惣遺跡群は、戦国時代に甲賀の土豪・地侍という小領主による水平的連合によって甲賀郡一帯に形成された自治組織に関する遺跡群であり、滋賀県湖南地域の旧甲賀郡域に属する甲賀市から湖南市にかけての丘陵部に所在する。

 甲賀郡一帯に郡中惣が形成されたのは、織田信長の近江侵攻という軍事的緊張を背景に、概ね永禄年間頃と考えられている。甲賀武士は近江守護六角氏の軍事的主力として活躍したが、元亀元年(1570)野洲川の戦いで敗北、信長の配下に入った。

 その後、羽柴秀吉の兵農分離により改易され、郡中惣は終焉を迎えた。甲賀では、郡中惣を構成した土豪・地侍によって、一辺50m四方の粘土層を利用した高く厚い土塁で囲んだ単郭方形型を基本とする城館が狭隘な谷々に数多く築かれ、さらに典型的な単郭方形型を進歩させた形態の城館も築かれた。

甲賀市甲南町域の新治地区に所在する寺前城跡・村雨城跡・新宮城跡・新宮支城跡・竹中城跡を指定して保護を図る。

 

お城のデータ 

所在地:甲賀市(旧甲賀郡)甲南町新治字熊尾   map:http://yahoo.jp/tW52qx

別 名:竹永城

現 状:竹林

区 分:居城

築城期:戦国期

築城者:竹中氏

城 主:竹中氏

遺 構:曲輪・土塁・空堀・落とし穴・土塁上に五条の溝

目標地:善願寺・汁善寺池

国史跡「甲賀郡中惣遺跡群」

駐車場:路上駐車

訪城日:2014.9.30

お城の概要

杣川と杉谷川の段丘の微高地に築かれた方形の館で四方に高土塁が残り、東と北側に虎口を開く。川に面した西側は横堀状になり、南北に土塁が残っている

竹中城は、甲南町新治のうち、倉治集落の北西、すぐ西側に杉谷川が接する河岸段丘地形を利用した城館である。南方の新治城・新治支城・村雨城・寺前城とともに「甲賀郡中惣遺跡群」として国史跡に指定されている。

 甲賀典型の単郭方形の城ですが、50m四方の主郭周囲の土塁は綺麗に残り、南と東に平虎口があります。(東の虎口は後世に開口かな?) 西と北側に明瞭な空堀が巡っています。幅は3mほど深さは1.5mほどあり、なかなか見応えのある空堀です。主郭内は竹がが残念。

東側に民家が寸前まで、もしくは城館に食い込むように立ち並んでいるため、東半分は破壊が激しい。本来虎口として開口していたのはaのみで、北東隅は土塁が消失している。また西半分の土塁外側には空堀が並列しているように、東側の土塁にも空堀が廻っていたが消滅した。cは土塁上部へのスロープであるが崩壊。

虎口aの外側も埋め改変されている。本来は土橋が架かっていたかも。

内部構造は、ⅠとⅡには段差が付けられている。虎口付近の窪みは、位置的に井戸ではなく「落とし穴」と思われる。

虎口a西側の南辺土塁上に五条の溝が切られている。土塁上の移動を困難にするため、の工夫だとすると、窪みbもこれに連動した落とし穴などの防御施設か?。竹中城は、未整備で撮影泣かせ、西側空堀も二重土塁で深く残存する。

また杉谷川岸(河道改変にも耐え)や城域の一部の改変もあるが、民家の背後で残存に感涙。保存状態は未整備ながら「国史跡に指定されている」城。国指定史跡『甲賀郡中惣遺跡』の1つであるが、周囲にそれを示す標柱もない。

後日、『甲賀市史第7巻 甲賀の城』、竹中城の概要図が掲載されていたので、参考までに掲載しておく。

 主郭はの竹藪の中で50m×50m曲郭。周囲には土塁と堀が廻っていたようだが、一部改変も。北東部分は削られ、東側の堀は埋められている。

 これに隣接して、Ⅲ・Ⅳという2つの方形の区画が描かれている、現在は宅地化で遺構はない。3つの郭が連携するという形状を成していた。 

 明治期の地籍図によると、北側に近接して2ヶ所の方形区画が確認できたようだ。近隣の倉治城のように複数の屋敷で構成された同名中の城館群の可能性もある。

入城は、民家の御当主氏に虎口aまで案内して頂きました。

虎口aから入城、土塁を時計廻りCへ、Ⅲから空堀の外土塁を(犬走りを)南へ。

歴 史

不明

 

虎口a~曲郭内~西側の南辺土塁上には、

五条の溝が切られている。これを土塁上の移動を困難にするための工夫だとすると、窪みbもこれに連動した落とし穴などの防御施設か?

 類例:天正伊賀の乱は、織田氏と伊賀国豪族連合との戦いの総称である。天正6年(1578年)から天正7年(1579年)の戦を第一次、天正9年(1581年)の戦を第二次とし区別する。忍者と信長の戦いと誤解されることが多いが、戦闘に参加した者の中には忍者はもちろん地侍や農民もいた。

空堀を、東~西・・・北~南へ

曲郭 Ⅲ

城址遠景

杉谷川越に「竹中城」

汁善寺溜め越に(倉治城より)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、甲賀の城 、 日本城郭大系

             本日も訪問、ありがとうございました!!。感謝!!



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