城郭探訪

yamaziro

彦富城(藤田屋敷) 近江国(彦根)

2014年08月24日 | 居館

お城のデータ

所在地::彦根市彦富町 map:http://yahoo.jp/GsdmUl

現 状:田畑

遺 構:不明

区 分:居館(平城)

築城期:室町期

築城者:平井加賀守秀名

城 主:藤田佐渡守

目標地:彦富神社

駐車場:彦富神社の北側浄教寺駐車場

訪城日:2014.8.17

「彦富城祉」比定地への路地(彦富神社の) 「彦富城祉」比定地

お城の概要

彦富城は、中世城郭分布調査によると、周囲は土地改良され遺構は

「藤田屋敷」の道路をへだてた西側は、今も 佐々木源氏とゆ かりの深い古社「彦留神社」が鎮座しています

小字「藤田屋敷」 の地 に 藤田佐渡守らが城館を構え、来迎川 の 水利権に関わるとも下街道を守備していた推測されます。

また往時(16世紀)の旧愛知川は、この付近を流れていたため要衝の地であったことは間違いない。

彦富神社

 集落の中央部地頭堂と石仏

浄教寺

   

歴  史

「大洞弁天当国古城名札」には彦富村城主に藤田佐渡守の名がみえる。

「藤田佐渡守」の平地城館

佐々木源氏一族が近江を 支配した中世に、存在城名と主列挙れっきょ した『 江州佐々木南北諸士帳 』の中に「彦富城主 』の中に佐々木旗頭高島末 平井加賀守秀名/ 同備中丹後、与力 藤田佐渡守」と記されています。

元禄 8年( 1695 )、 大洞弁財天の建立に際して彦根藩領内古城主を 調べて菩 提 を弔った『大洞弁財天当国古城主名札』 に 「彦富村城主藤田佐渡守」の名が確認でききます。

平井一族の詳細は不明ですが、藤田佐渡守については図の小字に「藤田屋敷」の名が確認できます。

「藤田屋敷」の道路をへだてた西側は、今も 佐々木源氏とゆ かりの深い古社「彦留神社」が 鎮座ざしています。

小字「藤田屋敷」の地に藤田佐渡守らが城館を構え、来迎川の水利権に関わるとも下街道を守備していたを守備していた。

彦留村から富明治12年に彦富村改称されました。

今でも地元は「ヒコドメ」と呼ぶ人が少なくあ りません。明治4年頃に描かれ「愛智郡彦留村領内絵図」を見ますと、の集落は西方微高地に規模の大きな集落が存在するほか、昭和35年に字稲枝と して独立する南部の「白木」と東下野良田(稲枝駅前)」の3ヶ所に分散して広い村域を形成ました。

■ 条里地割と旧愛知川河道 ■
明治4年の絵図では、北側の金田村・野部と境は、古代から中世にけて行なわれた土地区画である 条里地割に沿って約1500メートルの間が、ほぼ直線的な境界とっています。同様に東側の野良田村との境も約600 メートルが直線的に境界を形成しています。 この村境は、前者が愛知郡条理の4条と5の境、後者が 4条と5の境、後者が 16 里と 17 里の里境に相応しているようです。一方、 南側と西の村境は条里地割が乱れこの形状は、旧愛知川 する曲線となっています。

参考資料:彦根市教育委員会 文化財部 文化財課

彦留神社石造宝塔ほと彦留神社については、延暦年間(782 ~806 )の創祀で、近江守護佐々木京極氏崇敬が厚く、郷の在地領主も武人として崇めた伝わっおり、江戸時代には亥大明神・彦留 大明神と称し、明治以降に彦留神社となりました。
石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 石造宝塔は、彦留神社の境内敷地北端高さ約 3m、直径約 5m程度の円形土盛り上に設置されています。この土盛り周囲には礎石1基と五輪塔の水輪部分 2基が存在し、礎石については板基が存在し、礎石については板石の上に設置されており、現在では手水鉢とし転用います。
石造宝塔については、相輪、笠塔身、基礎の石材が揃っているもですがそれぞれ石材石質(いずれも花崗岩ではあるが、わずかに鉱物組成異なる。)や規格劣化の度合違から、もと

もともと別個体であったのを集めて構成されいる判断できます。全高が323.8㎝最大幅(基礎部)が 114.5 ㎝。制作年代としては刻銘が確認できないため実年代は不明です、 塔身部の形状が、特に勾欄の表現が、鎌倉時代末期から南北朝もとされている金剛輪寺宝塔類似します。

 基礎については、高さ58.2㎝、幅114.5㎝、奥行き115 ㎝を測るもので、格狭間は陽刻され、内部に文様は彫られていません。上面高さ3.8 ㎝の段が付いてます。
 塔身については、軸部と首が1つの石材で作られており、高さ76.2㎝軸部の最大径72㎝を測ります。

磨滅が著しく彫刻の判別は難いしいが、外周に12本の柱を表現していると考えられるわずかな膨らみが確認でき、本来は柱と扉形の表現あったも考えれます。上部についてドーム状に丸みを帯びて狭まり、勾欄部となっいます。勾欄部についても円筒形で、勾欄が12の長方形の 凹みで表現されています。
 笠部については、笠と露盤が1つの石材で作られているもで、高さ45.1 ㎝、幅97.5 ㎝を測ります。ともに平面四角形を呈し、笠部は宝形造り、下り棟は反りは弱いもので、下端近くに面が作られ鬼瓦を表現してます。

相輪部については、一般的なもので下から伏鉢、請花、九輪、請花、宝珠までが1つの石材で作られています。寸法は、高さ140.5㎝、 九輪部の径 22.7㎝、背が高く、寸胴な印象を受けるものです。

 本件については、石材表面の磨滅が著しく、記年銘等残存していません。また、各部の石材についも笠と塔身ついては正安 4年(1302)の記年銘ある石塔寺宝や、 編年研究から鎌倉時代後期のもと考えれ、金剛輪寺宝塔と同時期のもである判断きますが、相輪、請花の形状が反らずに丸く収まる点や基礎の格狭間内文様印刻ならず陽刻になっている点ど型式的退化傾向が確認でき、これらについては時代が下るもの後補石材と考えます。

  ただし、これらの石材を使用て構成さいる宝塔が保存されているとうこは、当地の中世仏教文化を物語にあたって欠くこと のできない文化財ある同時に、小字して 法蔵寺や藤田屋敷、東出等の地名が残存している点からも当地の中世社会全体を考えるための貴重な物証としても期待できるものであり、保存必要が考えられます。(彦根市教育委員文化財課)

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、彦根市教育委員会、近江の城郭

本日も訪問、ありがとうございました。感謝!


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