城郭探訪

yamaziro

横山城  近江国(長浜)

2011年04月20日 | 戦国山城

 

観音寺

観音寺絵図

お城のデータ

所在地:長浜市堀部町 map:http://yahoo.jp/O7GUVG

築城期:鎌倉期

改築期:織豊期・・永禄4年(1561)

築城者:京極氏

者初城:浅井賢政(長政)・織田氏

城 守:三田村氏・木下藤吉郎
区 分:山城
遺 構:土塁,曲輪跡,竪堀
城 域:500m×500m
標 高:312m 比高差:200m

訪城日:2011.4.19

戦 い:

   永正14年(1517) ○浅井亮政 VS ●京極高清
   元亀元年(1570)  ○織田信長 VS ●浅井長政・朝倉景建
   元亀3年(1572)  ○織田信長 VS ●浅井長政

お城の概要

 横山城は、長浜市東部の丘陵上に造られ、東に伊吹山、西に琵琶湖、北に小谷城を見、眼下には北国脇往還を見下ろす軍事・交通の要衝に位置しています。東西南北に延びる尾根や谷沿いに、城の縄張を構成する郭や多数の砦が残っています。

標高311.9mの山頂に北城、その南の頂部に南城を構える。 南城は主郭の東西に低土塁を残し井戸跡があり、北に虎口を開いている。主郭の西側と北側には竪堀がある。

北城は頂部が削平され北に伸びる尾根に二段の曲輪があるが、縦走路以外は薮に覆われている。 西に伸びる尾根には四段の曲輪があり、途中に二重堀切がある。

お城の歴史

築城年代は定かではないが、京極氏の支城であった横山城は、

永正14年(1517年)に浅井亮政に攻め落とされ、浅井氏の所有になってからは、小谷城を守るための出城の役目があった。

元亀元年(1570年)姉川合戦に際して、織田信長は、丘陵突端の龍ケ鼻(たつがはな)に本陣を置きました。

浅井・朝倉連合軍を破った織田信長はすぐに横山城の攻略に着手し、時の城主三田村氏は降伏し、落城しました。
姉川合戦の後、小谷城攻めの際は織田信長軍の拠点となりました。

横山城跡ウォーキング 米原・近江長岡

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、横山城 (近江国)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 
 
logo
横山城
(滋賀県)
横山城趾 本曲輪
横山城趾 本曲輪
城郭構造 山城
築城主 浅井長政
築城年 1561年
主な城主 浅井井演、木下秀吉
廃城年 1573年
指定文化財 なし

横山城(よこやまじょう)は近江国坂田郡(長浜市堀部町・石田町)にあった日本の城。山城。

 元亀年間(1570年 - 1573年)の織田信長と浅井長政の激しい戦いの拠点であり、信長の部将であった木下秀吉(後の豊臣秀吉)が城番として守備していたことで知られる。

歴史

横山城は近江北部の浅井郡と坂田郡とを分ける姉川の南岸の山の峰続きに永禄4年(1561年)、浅井長政が対六角氏用の防衛拠点として築城させた。城主には一門の浅井井演を任命した。

その後浅井氏は勢力を伸張して坂田郡から犬上郡まで勢力を広げるが、元亀元年(1570年)、織田信長と交戦状態になり、再び横山城の重要性が高まった。横山城は美濃の関ヶ原から浅井氏の本拠地である小谷城(滋賀県湖北町)の西側を通る北陸脇往還街道のすぐ脇に立地するうえに、小谷城から6-7kmほどの距離しかないため、信長は重要な前線基地として横山城の攻略を目指した。同6月28日、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破った信長はすぐさま横山城の攻略に着手、時の城主三田村国定、野村直隆、大野木秀俊らは降伏し、落城した。

信長は城番として木下秀吉を任命。秀吉はここを拠点として浅井氏攻略を行った。

天正元年(1573年)9月に浅井氏が滅亡すると、秀吉は浅井郡・坂田郡の支配権を与えられ、本拠地として長浜城を築城。

これに前後して横山城は廃城となったと考えられている。

    今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました


最新の画像もっと見る