別 名:西ノ広城
丘城
標 高:98m 比高差:30m
築城期:室町期
遺 構:曲輪・土塁・空堀・堀切道・家臣団屋敷遺構
築城者:春日部太郎左衛門尉
大手道と土塁
大手道より、堀切へ
お城の概要
伊坂城は、朝明川の北側標高98mの細い丘陵地に築かれていた。現在は西側に伊坂ダム、南東側に東名阪道が通り、近年東側寸前まで宅地造成され伊坂台団地が迫っている。
南端の土塁はそれに沿って林道となっていて、低く削られてしまったように見える。その土塁付近から主郭に向かって城道が走り、その両側には地形を利用し階段状に曲輪が連続している。
城道は中程で直角に曲がり堀底道となる。その南側が最高所で、約15m四方の手狭な物見台(釣鐘堂跡?)がある。そして物見台から堀切を挟んで北側が主郭で、虎口は内枡形である。
約60m×50mの四方を土塁で囲んだ主郭、主郭を北側に下ると、横並びに6ヶの小さい曲輪が並ぶ。主郭西側下段の腰曲輪には井戸が残っていた。
城域は木々に覆われ、陽が当たらず北勢地方でも有数の見応えのある城だった。
また、この城山以外にも東方の東名阪道や団地付近が近年発掘調査され、屋敷や城道遺構が確認されたそうだ。これを含めると伊坂城は相当な規模であったようだ。
第二名神高速道路の発掘調査の現地説明会に参加した。
伊坂城の半分は、第二名神の地中保存か、平削・破壊か・・・・? 伊坂城は、甲賀:江南の竜法寺城と同じ運命!
堀切に、登城・・・受付へ下山。
歴 史
平安末期~鎌倉初期にかけて桓武平氏(伊勢平氏)の平正度を祖に持つ進士(富田)家資一族が伊勢国で春日部氏を名乗り、詮義のとき伊勢国朝明郡を所領した。
春日部一族は一部、国衙の関係者として武蔵国にも移り住んだ。(大井氏・紀姓春日部氏)
伊勢春日部氏は守護北畠氏に仕え、神戸氏・関氏らと共に、伊勢六人衆と呼ばれた。
室町中期には萱生城を本拠とし、分家が伊坂城や星川城をを築城し勢力を拡大した。
萱生城主の一族である春日部太郎左衛門尉が築城したとされ、永禄十一年(1568年)の織田信長の伊勢侵攻の時に萱生城とともに落城したとされます。
春日部太郎左衛門尉が居城していた永禄11年(1568)、信長勢の伊勢侵攻により他の城共々落城した。
その後の春日部氏は勢力を失ったが、江戸幕末まで武家として存続したという。
受付で「伊坂城址発掘調査(第6・7次)現地説明会資料」等を頂き、順路沿いに見学!
残された約半分の主郭(曲郭Ⅰ)
発掘現場の職員様が非常に親切丁寧で職員様の対応が良い印象を受けました。
曲郭は掘立柱(土中埋め込み)?
曲郭Ⅰと曲郭Ⅱの間の堀切・・・・櫓門の基礎石が!櫓門は後世の作事カ?。
三重県の埋蔵文化財センター職員の解説や配慮は真適切で的を得た解説でした!非常に解り易く、質問にも丁寧に説明して頂き、感激!
堀底より、曲郭Ⅱへの段状城道
残された曲郭Ⅲの一部
曲郭Ⅱと曲郭Ⅲの間の堀切は5m超、竹で3m・5mを堀底に建てて頂き実感・納得
土橋カ?
曲郭Ⅱの虎口
出土品展示テント
発掘現場の責任者に、伊坂ダム駐車場まで案内頂きました。感謝!!
伊坂城周辺の城址。
三重には約1,200もの城郭遺構あると。・・・・近江は1329の城郭遺構
参考資料:伊坂城址発掘調査(第6・7次)現地説明会資料
本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!