城郭探訪

yamaziro

長法寺城  近江国(高島)

2015年03月16日 | 城郭寺院

長法寺城・・・案内・看板はありません!

 

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡高島町)鵜川  map:http://yahoo.jp/71-X3i

目標地:高島市:勝野の日吉神社

区 分:山城 (城郭寺院) 

比高差:250m 

現 状:山林

城 域:南北100m×東西20m

遺 構:郭・土塁・堀切・虎口

築城期:戦国期

訪問日:2015.3.14

長法寺より80mの高所に、南側の城道から、直角に虎口!

長法寺~北側

北側~ここから城域

土塁

石積みの名残

曲輪の内部

曲郭

西側の土塁

北側の堀切

お城の概要

長法寺城は、長法寺寺院の区画を南側に土塁の食い違い虎口、郭内では、郭を隔てる仕切り土塁、北側に堀切がある。

長法寺より80mの高所に、南側の城道から、直角に虎口!

長法寺城は、寺院の区画を郭に改変して城郭としたもの。

 区画④の南側に開く喰違い虎口や区画③の南~西辺に造られた土塁、区画②の北側の堀切などの防御施設をみることができます。

 寺院内に築かれたこの城は、戦国時代の長法寺をめぐる緊迫した状況を示しています。

お城の歴史

 長法寺城も築城時期は不明ですが、寺とは構造が違い土の城、戦国期に入り動乱の中築城されたようです。

 永禄三年(1572年)に織田信長に焼き打ちされたようです。 

平安時代創建の山岳寺院・長法寺の敷地内に建てられた山城、

長法寺は1572年に織田信長による焼き討ちで廃絶したとされ、城も同時期に廃城になったものと思われる。

長らくその所在は不明とされてきたが、1956年に再発見された。

50m四方の単郭式の構造で、土塁や切岸、石積の跡が確認されている。

 長法寺城も築城時期は不明ですが、寺との構造がまったく違い土の城、戦国期に入り、動乱の中築城されたようです。

 永禄三年(1572年)に織田信長に焼き打ちされたようです。 長法寺城は、寺院の区画を郭に改変して城郭としたもので、区画④の南側に開く喰違い虎口や区画③の南~西辺に造られた土塁、区画②の北側の堀切などの防御施設をみることができます。
 寺院内に築かれたこの城は、戦国時代の長法寺をめぐる緊迫した状況を示しています。

 長法寺城も築城時期は不明ですが、寺との構造がまったく違い土の城、戦国期に入り、動乱の中築城されたようです。

 永禄三年(1572年)に織田信長に焼き打ちされたようです。 長法寺城は、寺院の区画を郭に改変して城郭としたもので、区画④の南側に開く喰違い虎口や区画③の南~西辺に造られた土塁、区画②の北側の堀切などの防御施設をみることができます。
 寺院内に築かれたこの城は、戦国時代の長法寺をめぐる緊迫した状況を示しています。

 長法寺は、織田信長の焼き討ちによって灰燼に帰したと伝えられています。

それが史実かどうかは明らかではありませんが、室町時代末に廃絶した後、この大寺院跡はほとんど人の手が入らない状態で長い眠りに
つきました。

 昭和31 年、滋賀県立高島高等学校歴史研究部によって再発見された長法寺跡は、中世の近江に栄えた山岳寺院の姿を今に伝えています。
 それは、本堂を頂点とし、直線的な通路で区画された坊が整然と配置された計画都市のような姿であり、近世の城郭のような大規模な石垣や
石塁、ひな壇状の造成地にみられる高度な土木技術をもつ技術集団とし地にみられる高度な土木技術をもつ技術集団としての寺院の姿でした。

長法寺跡

長法寺の創建や廃絶した年代は不明ですが、開基は、慈覚大師円仁と伝えられます。
 また、長法寺山麓にある日吉神社が、嘉祥2 年(849)に坂本から山王権現を勧請し、創建されたとされ、この時に「長法寺」の鎮護の神にしたとされ、長法寺の創建時期を考える上での参考になります。
 周辺集落と長法寺の関わりとして、高島市音羽の長谷寺に伝来する平安時代後期の木造薬師如来坐像は、長法寺の本尊と伝えられ、現在、重要化
財に指定されています。また、打下の集落には、長法寺にあったとされる涅槃図が伝わっています。
 長法寺に関わる確実な史料として、弘安3 年(1280)の裏書のある『近江国比良庄絵図』には一堂が描かれ、その名が記されています。 
 また、高島市朽木中牧の大宮神社に伝わる大般若経の一部は、坂上経忠によって、元久2 年(1205)に長法寺に施入されたことが前書・奥書に記されています。別の奥書からは文保元年(1317)に修理したこともうかがえます。永享4 年(1432)には、長法寺の方丈職しきを、延暦寺の円明い
坊兼宗がつとめ、音羽五ケ村を領していたとされています。円明坊兼は青蓮院門跡の山徒とであったので、当時の長法寺は、青蓮院門跡の末寺であった可能性が推測されます。
 『高島郡誌』は、文明3 年(1471)11 月の売券に記された「長法寺大品坊」とあるのが、長法寺の最後の記録としています。
 また、伝承では、元亀3 年(1572)の織田信長の焼き討ちにより灰燼に帰きし、廃絶に至ったと伝えられています。
長法寺城跡の南虎口を出て西に下ると、開けた谷間に段々畑のような平坦地が現れます。これが西尾根地区の坊跡群です。小川を渡って、右に曲がり少し進むと左手に道bとその両側に築かれた石垣が見えてきます。
 道の坂を登り切ると、道は右に折れ、本堂へ続くメインストリート(道)に続いています。ここで左側の区画に入ると正面に「伝鐘楼跡」のある小丘がみえます。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、長法寺跡-高島市鵜川 - 滋賀県

                       今日も訪問して頂きまして、ありがとうございました。


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