城郭探訪

yamaziro

長法寺館(田屋氏館) 近江国(高島・マキノ)

2015年10月20日 | 居館

 

石垣寺門・館門(四足門)跡の敷石

お城のデータ

所在地:高島市(旧高島郡)マキノ町沢   map:http://yahoo.jp/JtbkUq

現 状:長法寺

区 分:居館

遺 構:土塁、類似石碑・駒札

築城期:室町

築城者:田屋淡路守

目標地:長法寺

駐車場:長法寺

訪城日:2015.10.18

本堂再建の石碑には領主田谷氏 

海津衆田屋氏の説明駒札

お城の概要

百瀬川と生来川が平行して東流するその北岸の沢集落内の長法寺一帯にあったされる居館。

 今も、境内北側・東側にL字状の土塁が残る。土塁内側は庭園化しているが。

明治期の地籍図からは、二重の堀の存在が確認できる。

マキノ町沢には2つの城跡。長法寺館(田屋氏)とこの地の西にある沢村城(饗庭氏)がある

長法寺は戦国期の天文4年(1555年)に田屋(田谷)氏の居館が建立されたのが、

江戸時代の大火で焼失し、寛文3年(1663年)に田屋(田谷)氏の居館跡に本堂が建立されている。

 内側の庭園部

お城の歴史 

長法寺館は、

寺伝によると永正年間に田屋淡路守の家臣 宮島四朗兵衛が証如に帰依し、天文四年に宮島四朗兵衛・菊松親子が道場を開いたのが始まり、また三世了空の代に、丑寅の方向にあった道場を田屋氏居館に移し、永応元年道場を建立したと伝えられ、田屋淡路守の居館

 内側の庭園部

  長法寺の裏に、土塁が残る。

室町幕府の政所執事代の蜷川親元が記した『蜷川親元日記』には、康正6年(1456)9月10日の条に、「江州海津衆」として、饗庭・新保・田屋が蜷川親元の一族蜷川信賢の若君誕生祝いに上洛した記されている。

『鹿苑日録(ろくおんじつろく)』には、

天文7年に高島七頭と呼ばれる高島群内有力領主佐々木六角定頼の命により海津を攻めた合戦では、田屋氏(浅井方)は長法寺館を捨て、山城へ引き(結城である田屋城へ立て籠もっる)饗庭氏は海津西城浜に陣を敷いた。 その後、天正元年に浅井氏が滅ぶと田屋氏も浅井氏と運命を共にしたと考えられている。

  本能寺の変後の天正10年(1582)6月、近江高島郡は丹羽長秀に与えられた。翌年3月に賤ヶ岳の合戦が起こり、羽柴秀吉方の長秀は、柴田軍の南下を阻止するために知内浜城をはじめ、森西城・沢村城・田屋城(詰め城)等を修築したと伝わる。 

田屋氏は北近江・高島郷を支配する土豪であった。

田屋 明政(生没年不詳)は、戦国時代の武将。通称は新三郎、石見守。近江国の戦国大名浅井氏の一族(浅井亮政の婿養子)。

浅井氏当主・亮政の嫡子・新四郎政弘には嗣子がいないまま早世したため、嫡女・浅井鶴千代(政弘の同母姉)の婿として亮政の養子となった。この時、「浅井新三郎明政」と名を改めている(新三郎は亮政の通称であったものを受け継いでいる)。

だが、後に亮政は庶長子(諸説あり)の久政(海津殿の異母弟)を自身の後継者と定めたため明政は姓を「田屋」に戻して、身を引いたという。

養父・亮政の死後、京極氏と手を組み後継者の義弟の久政と争ったという説と、家督の移譲が滞りなく行われたため、争いがなかったとされる説(上の争いには明政が関わっていなかったとする)がある。婿養子は、浅井政高。明政の長女は海津局(婿養子・政高室)、二女は饗庭局。

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査(高島の城)、レジュメ、高島の城と城下パンフレット

     本日も訪問、ありがとうございました。感謝!!


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