城郭探訪

yamaziro

大森山城陣所(赤尾山城・磯野山城) 近江国(高月)

2013年12月04日 | 戦国山城

大森山の切通し口

所在地 : 伊香郡高月町磯野

磯野・松尾

築城年 : 室町期

形  式 : 磯野山城(標高(330m)上部陣所 マップ: http://yahoo.jp/Dt4uKu

遺  構 : 土壇、堀切、土橋、竪堀

訪城日 : 2013.12.2

磯野山城は磯野氏の居城(詰城)である。
  江北の守護・京極氏が衰退する中で家臣間の覇権争いが起こり、永正14年(1517)(伊香郡志は天文元年(1532)の誤りとしている。)に浅井亮政が上坂氏などを駆逐し、これに対抗し浅見対馬守が山本山に立て籠り、磯野員詮(貞詮)は浅見氏に味方して磯野山城に立て籠った。浅井亮政は磯野山城を攻撃したが、員詮と子の為員の奮戦で浅井勢は撃退された。

大森山陣所跡

浅井三代記

伊香郡磯野山山本山両城合戦の事

 ~~~其上磯野を責るといふとも上平より勢を出され当城へ取掛被レ申候事なるべからず。上平へ押寄なば、山本、磯野は二里間なれば、留守を窺ひ敵可レ来、兎角磯野を可レ攻と宣ひければ、然らば先一もみもんで見給へと評定極りて、永正十五年二月十七日、六百余騎を二手に分、山本へは赤尾駿河守教政を大将にて野村伯耆守、同肥後守、大橋安芸守、海北善右衛門尉、阿閉三河守、西野丹波守、雨森弥兵衛、此人々相添、都合其勢一千余騎さし向らる。我身は舎弟大和守、同宮内少輔、東野左馬助、井口弾正、赤尾筑前守、同孫三郎、今村掃部頭、伊部清兵衛、八木与藤次、片桐右馬允、千六百余騎にて磯野山へ向はる。磯野山には此よしを見るよりも浅井勢当城へよすると見ゆるぞ。

川を前に当て戦ふべしとて源三郎を大将として究竟の射手を三十人一文字に川より半町許手前にひかへ、其の後には右衛門大夫、千田伯耆守、三百余騎にてひかへたり。大森山の切通し口には布施、横山、森、百五十騎にてひかへたり。かくて備前守は磯野の郷のこなた、あやと申所に本陣をすへ給ひ、先陣を伊部に被2仰付1、磯野郷の際まで打入見けれども、敵、川のあなたにひかへさゝへければ、伊部清兵衛、磯野村へ討入放火すべきと思ひ、郷中へかけいらんとせしを、源三郎是を見て、川よりこなたにひかへ勝利十分有といふとも、郷中を放火させては其甲斐有まじきとおもひ三十余騎の射手を引具し、川をさつと渡し、清兵衛が先手の勢へかけ向ひ、指詰引詰射たりけり。源三郎元来精強の大矢にて、向敵五六人目前に射落しければ、寄手しばらく進みかねたり。かゝる処に赤尾孫三郎旗本より三十騎許にて面も振らず馳向ふ。右衛門大夫是を見て源三郎を引連れ川よりむかひに引取けり。~~~

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