城郭探訪

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醒井山城 近江国(米原・枝折)

2015年05月02日 | 戦国山城

お城のデータ

所在地:米原市枝折町(旧坂田郡米原町枝折) map:http://yahoo.jp/wrgD08

区 分:山城

築城期:鎌倉期

築城者:醒井氏・土肥氏?

遺 構:竪堀・見隠し土塁・銃座/射て座・曲郭

標 高:361m   比高差:230m

城 域:150m×50m

初城主:醒井氏

目標地:枝折・八幡神社

訪城日:;2015.4.12

駐車場:集落の手前のグランドに

お城の概要

 枝折集落の東側の山上に、醒井城の詰め城遺構が残存する。

 醒井城は、名神高速道路で分断され、出城部分が 醒井城 とされていた。

   が尾根上部に「竪堀・見隠し土塁・銃座/射て座・曲郭」遺構が明確に残る。

見隠し土塁・銃座/射て座は、西の箕浦・朝妻湊方面の残り、曲郭は自然地形をうまく削平・利用し基壇も!

鉄塔下から箕浦・朝妻湊

頂部三角点

お城の歴史

『江州南北諸士帳』に、醒ヶ井 住 佐々木随兵平氏 土肥玄蕃亮とあり。(醒井城に関して、文献等の資料は少ない。)

『淡海国木間攫』に、醒ヶ井村 「建武兵革ノ此醒井三郎トイヘル武士見ヘタリ、ニテ自殺ノ内ニアリ、醒井権藤頭京極浅井家ノ記ニ出ル、是等ハ此辺住居ノ武士ナリ」とあり。

 鎌倉幕府成立頃から頼朝の家臣として活躍した土肥氏は、箕浦庄の地頭として下向した。土肥氏はその後、番場・多和田・醒井をそれぞれ分派に与え、箕浦庄の三土肥と称された。

土肥氏の事なるべし、京極政經が土肥氏の場、多和田兩村及び醒井村に分住す、故に、番場殿・多和田殿・醒井殿ど稱し、土肥三殿石なし蓋、土肥氏は足利尊氏の時より本郡箕浦庄に住し、其の族繁榮するに及び、切落可^-候事、共、大原政所へ折柢を遣し、爲-一切落;出雲井は西上坂村請取、瀧の水は堀部村請取、雜ぬ殿依:下知;上坂^部 ... 土肥の八軒衆どて八入の老臣て囬寂天山大居士ど號す、明和八年墓標の松樹枯れしにより、冤政元年八月,醒井释の云々

井村大字醒井小字西阿彌に在りしも、何時しか影を沒し、小字名のみ存す。(坂田郡志)

下屋敷か

 
 
塹壕跡
 
下屋敷の曲郭から詰め城への桝型虎口状の登城路
武者走り土橋か頂部の北尾根の鉄塔下から箕浦・朝妻湊方面 三角点空堀(身隠し土塁/銃座・射て座)は50m以上4

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、坂田郡志

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