城郭探訪

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連続講座【近江の城郭 城と街道】第2回 壺笠山城と白鳥越え

2014年12月17日 | 戦国山城

京阪:穴太駅集合

出発式本日の登城ルート

お城のデータ

所在地:大津市坂本町   map:http://yahoo.jp/vGXy-T

築城者:脇屋義助

築城期:南北朝期

改築者:明智光秀

改築期:坂本城の砦として改築

改築期:元亀元年(1570)

初城主:浅井・朝倉氏  

区 分:山城

遺 構:虎口,石積み  標高 421m比高 約320m

訪城日:2014.12.13

南北朝時代に脇屋義助なるものが、後醍醐天皇が比叡山に籠った時に、尊氏らの北朝軍から防衛するために築かれた。

その後は、明智光秀が坂本城を築城した時に、坂本城の砦として改築して、坂本城落城と同時に廃城となります。

明智光秀の坂本城跡の北には、光秀の墓がある盛安寺があります。 さらに少し北へ京阪電車の線路を越えると、登山道入口に出ます。

その道を、墓場や古墳跡を左手に見ながら、小一時間登山して、橋を渡ってしばらくすると三叉路に出ますので左に行くと、壷笠山の方向に進みます。

穴太野添古墳群で青空講座

お城の概要

 壺笠山城は坂本城と共に、近江坂本から京都一乗寺へ抜ける白鳥越えのルートを押さえる位置にあり、元亀元年の姉川の戦い後も続く元亀争乱の中、浅井・朝倉軍が立て籠もった城である。

 当時、近江から京へ出るには、逢坂山越え、山中越え(志賀越え),途中越、そして白鳥越えと四つのルートがあったとされるが、白鳥越え以外のルートは、拡張・舗装されて車でも通行が可能である。

壺笠山城は坂本と京の間に聳える標高421mの壺笠山山頂に築かれている。 ここは坂本から比叡山を越えて京へ至る白鳥越えの街道が通る要衝である。

 

壺笠山城は円形の主郭の外側に帯曲輪が一段巡る縄張りである。主郭は北側に虎口があり、一段下の帯曲輪は南側に虎口がある。側面には若干の石積が所々残されている。

 

 一方、白鳥越えのルートは、坂本から壷笠山の北側を通り、京都一乗寺へ抜けていると考えられるが、そのルートの全貌は明確であるとは言い難い。

 今回、壷笠山城へ登るにあたっては、この白鳥越えルート。穴太駅の南から谷を詰めて、尾根筋に上がり、忠兵衛山(あほ山=青山城)の山腹をまいて壷笠山北側の鞍部に出るルート。

 階段状の削平地が現れる。横堀状の地形も認められ、「浅井・朝倉軍が築いた陣跡か」尾根には道があったが、ルートを辿り、白鳥越えのルートを探る。

 旧白鳥越えは、谷筋を詰めるルート:歩きやすい道、住宅地奥から山中に入り、比高差約100m、時間にして15分ほど登って、削平地を通り越した辺りから関西電力のメンテナンス道が付けられている。この道を登ると簡単に高圧線鉄塔下に出ることが出来る。尾根に出てからは、白鳥越えの道を辿り、約1時間で壷笠山と忠兵衛山の鞍部。そこには、広い林道が。滋賀里から延びている道がこの林道。

 壷笠山への登り口は、鞍部から東へ20m~30mm。道を間違わなければ、しっかりとした登山道を約15分足らずで、壷笠山の山頂に着く。ピンクのビニールテープを目印に100m程  

 壷笠山の山頂は、雑木で、主曲輪は直径25m程度の円形をしており、主曲輪周囲には帯曲輪を廻している。この山自体が古墳だというから、山頂を削り下げて曲輪にした。

 主曲輪や帯曲輪にも土塁はなく、虎口の位置は分かり難いが、主曲輪の北東に石造りの階段があり、ここが主曲輪の虎口であることが分かる。南東にも虎口らしき形状が認められる。主曲輪周囲の帯曲輪には、至る所に人頭大の石が散乱しており、主曲輪の切岸には石積みがあった。
 帯曲輪の西側切岸には、人頭大の石で積んだ石積みが長さ15mほどにわたって残っている。また西側斜面には6~7段の曲輪が配置され3段目の曲輪切岸にも石垣が確認できる。 壷笠山は独立峰で、南側斜面は断崖、東と北側斜面は斜度がきついが、西側だけは支尾根が延び、支尾根を下ると京都方面へと道は続いている。

 白鳥越えが400年以上昔に使われた道とはいえ、過去に利用された道。
忠兵衛山の山腹を巻くようにしてルートが西向きに変わる地点で、平子谷方面に通じていると考えられるルートと合流する。

 平子谷から壷笠山へ登るルートがある。

 壷笠山への登山口には案内板もあると。私が平子谷の林道入口まで行った時には、ここから約500mほど歩くと壷笠山の真東の登山ルートに出る。
 
 また、住宅地から山中に入ってすぐに現れる曲輪群について、浅井・朝倉軍が築いたものでは?。滋賀県教育委員会発行の「淡海の城」に記されている”大手道の曲輪群”は、これらの遺構を指している。

 滋賀県教育委員の資料に記されていることを、大手道と白鳥越えが一致する必要性はない。

壺笠山城・・・登城口 

歴 史

信長公記には「志賀御陣の事」

-------------信長公記 志賀御陣の事-------------
九月廿四日 信長公、城都本能寺を御立ちなされ、逢坂を越え、越前衆に向ひて御働き。旗がしらを見申し、下坂本に陣取りこれある越北衆、癈軍の為体(ていたらく)にて、叡山へ逃げ上り、はちヶ峰・あほ山・つぼ笠山に陣取り候。
-------------

 元亀元年(1570)9月、突如挙兵した大坂本願寺を包囲した信長の隙をついて浅井・朝倉連合軍が湖西路を南下します。急きょ取って返した信長軍に対して、浅井・朝倉軍は比叡の山々に砦を築いて楯籠もりました。

  一方信長は山麓の穴太から坂本にかけて陣所を構え、その年の暮れに和睦が成立するまで両者のにらみ合いが続きました。

  信長最大の危機滋賀の陣です。この時、浅井・朝倉軍が楯籠もった陣所の一つが壷笠山城です。標高422メートルの山頂部に築かれた城跡で、すぐそばを京都と坂本を結ぶ間道である白鳥越えが通ります。折れを持った虎口や石垣が一部に残っています。

虎口の帯曲郭から、琵琶湖ビュー

壺笠山頂421m直ぐ北側に方位計東側の虎口

谷を隔て、比叡山の塔・堂(北西)

平子の林道脇の滝

石仏 


今回は、滋賀の陣の舞台となった壷笠山城を見学します。近くには京へ抜ける
間道である白鳥越えが通り、今もその痕跡をたどることができます。

・日時 平成26年12月14日(日) 13:00〜16:30
  京阪石坂線穴太駅集合・解散
   ※駐車場がありませんので、公共交通機関を利用してご参加ください。
   ※穴太駅周辺も含め、コース上にトイレはありません。事前に済ませて
    おいてください。

・場所 講義:穴太野添古墳群(大津市穴太) ※屋外での青空講義です。
     現地見学:壷笠山城跡

・行程 京阪穴太駅→穴太野添古墳群(講義)→壷笠山城跡→京阪穴太駅 全行程約5km ※険しい山道あり 健脚向き
    ※雨天の場合、途中で中止することがあります。

・定員 60名(事前申込制) ・参加費 50円(保険料等実費分)       

連続講座「近江の城郭」 第2回 壷笠山城(つぼかさやま)と東山道

詳細

 元亀元年(1570)9月、突如挙兵した大坂本願寺を包囲した信長の隙をついて浅井・朝倉連合軍が湖西路を南下します。急きょ取って返した信長軍に対して、浅井・朝倉軍は比叡の山々に砦を築いて楯籠もりました。

  一方信長は山麓の穴太から坂本にかけて陣所を構え、その年の暮れに和睦が成立するまで両者のにらみ合いが続きました。

  信長最大の危機滋賀の陣です。この時、浅井・朝倉軍が楯籠もった陣所の一つが壷笠山城です。標高421メートルの山頂部に築かれた城跡で、すぐそばを京都と坂本を結ぶ間道である白鳥越えが通ります。折れを持った虎口や石垣が一部に残っています。

 

参考資料:滋賀県中世城郭分布調査、淡海の城、日本城郭大系 、 

    本日も訪問、ありがとうございました!!感謝!!



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