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エリオット・スミス、1969年生まれ、バトン・タッチに関する思想

2005-11-30 01:24:34 | 感想
エリオット・スミスにひかれて、うろうろしている。
タワー・レコードのHPで試聴しているだけ。
近所のCD屋には置いていない。
昨日の休日には、西新まで歩いたり(膝をかばって走らずに)して、
今日は、帰る途中の本屋に寄ったりして、
でも、ないのだ。
この世からエリオット・スミスの名が消えてしまったかのように。
明日もさまよう。
きっと天神のタワー・レコードに行けばあるのだろうが、
そこまでしないとないようなマイナーなものなのか。

エリオット・スミスも、私も1969年生まれである。
彼は2003年、34歳で自殺したそうである。
リアル・タイムでは知らなかった。
私は36歳で、生きているが、やはり、申し訳ないという気持ちである。
何が正しいことなのか、わからなくなってくる。

今日は、午前9時半に起床し、いつものように、牛乳とチーズとヨーグルトを食べ、
内田樹の本を読み返した。
仕事は遅出で、17時に出勤すればよかった。
居眠りを繰り返し、結局13時にはっきりと目覚める。
シャワーを浴び、15時には出る。

漱石の『こころ』の、「先生」の自殺について思いをはせ、ある着想を得る。
バトン・タッチに関する思想であるが、本当はよくわかっていない。
とりあえず、死ぬ準備は整っている、というような気がしてきた。
もちろん、気のせいかもしれない。

ジョナス・ベンディクセン、写真、マグナム、踏み込み

2005-11-28 02:29:58 | 感想
Penという雑誌に載っていた、ジョナス・ベンディクセンという写真家の写真が、良かった。ときどき写真に心打たれる。
どうやら、基本的に報道写真的な決定的瞬間ぽいものが好みのようである。
「マグナム」の写真家の1人のようである。
つられて、マグナムHPをのぞいてみたが、どれも色彩が美しい。構図が美しい。
なんらかの必然性があるかのような、決定的、運命論的な美しさのような気がしてくる。美しくしか撮ることが不可能なのであるかのように。
まなざしと、踏み込みかな、と適当に思う。
やはり、踏み込みだろう。
コミットしてゆく、愛情と勇気のようなものが、結局のところ表現されてゆく、そのように見る者を思わせる力は、写真家の足の、踏み込みの力に由来するのであるだろう、と私は思っている。
このことは写真家のみにあてはまることではないだろう。

映画『カラテ・キッド』の師匠役、パット・モリタ氏の死を悼む。

2005-11-26 21:51:05 | 感想
映画『カラテ・キッド』の師匠役、パット・モリタ氏の死を悼む。73歳であった。
私は特別『カラテ・キッド』や氏のファンではない。私が映画を観はじめたのは、中学2年生の3学期に、スピルバーグの『激突!』とか、ダスティン・ホフマン主演『卒業』とか、『ポセイドン・アドベンチャー』とかをテレビ放映で観て、たいへんなインパクトを得たのがきっかけであった。1983年であった。幸福な時代であったと思う。
『カラテ・キッド』は1984年の作品であるが、劇場公開では観ていないので、きっと2,3年後のテレビ放映で観たにちがいない。
邦題は『ベスト・キッド』である。
いんちきくさい空手映画であるが、たいへん愛らしい作品である。
なんだか記憶に残っている映画である。
パット・モリタ氏は、当時、50歳と少しであったことになる。
月日の流れるのは早い。
しかし、時間というものは、直線上を流れるものではなく、むしろ球体のようなものとして、中空に漂いうごめいているものである。
したがって、時は過ぎない。ただ、離れゆくことがあるのみである。
まだ解決しない先日の小1女児殺害事件とともに、その死を悼む。
そして、その人生に敬意を表する。
パット・モリタ氏は、ほとんど私の父と年齢がかわらないしね。
いろいろ思いをはせるわけなのです。

靖国参拝、結核、身体、ホワイト・ストライプス、勤労

2005-11-23 21:32:20 | 感想
毎週大濠公園を走るのを習慣としていたが、風邪をひいたりなまけたりで、3週間空けてしまった。勤労感謝の日である。「勤労」は国民の義務であるが、ちゃんと私は勤労している。納税もしている。教育も義務である。子供はいないけれども、職業が教育である。というわけで、勤労感謝の日であるが、もちろん仕事に行った。が、夕方とっとと帰ってきた。
で、走りに言った。近くの書店には置いていない季刊の「アコースティック・ギター・マガジン」を求めて、リュックを背負い、黒木書店片江店まで走る。
ブランクのせいか寒さのせいかわからないが、膝が痛んだ。
かつて膝をいためて、一年くらいは走ることができなかった。4年ほど前の話だ。最近は調子良かったのだが、結局のところ本日はリタイアし、ウォーキングに変わった。歩きなら痛まない。
目的の品を手に、その他、成田闘争のこととか、津山三十人殺しとか、陸軍中野学校とか、ナチス狩りとか、ドストエフスキー『悪霊』とか、そんな本を立ち読みしながら、頭がくらくらして、何だか絶望的な暗い無力感に襲われて、逃げるように去った。
ついでにホワイト・ストライプスの一番新しいアルバムを買おうとしたのだったが、置いてなかった。
『エレファント』は、控えめに言って、かなり傑作である。すばらしい。
ここ一年くらいで聴いた中では最高にいい。もし、まだ聴いたことのない人がいれば至急聴くべきである。人生の損失である。特に、1970年を中心とした時代に関心があれば。ジミヘンやジミー・ペイジのギターの音に快感を感じることのできる人は。しかしともかく単純に楽曲のレベルが高い。優れている。
膝をいたわりながら、ひさしぶりに鳥飼の公園で、懸垂したり、腕立てしたり、スクワットしたり、ストレッチしたり、身体をいじめてやった。
快楽である。
身体は動かすべきである。
今日立ち読みした音楽雑誌において、岸田繁も言っていた。
生は身体である。したがって、身体の死が人間の死である。
いやいや異論はあろうが、ともかく、我々は走るでべきであろう。
煙草なんか吸っている場合ではない。
酒はやめないけれどね。
明日、健康診断に行かねばならぬ。行きたくない。注射を嫌がる子供のように、行きたくない! バリウム飲んで、くるくる回りたくない。無意味に身長体重なんか測りたくない。私は健康である。死ぬときは誰だって死ぬ。生まれ者は生まれる。
毎日たくさんの人はお亡くなりになる。殊に若い人の死は痛ましい。
昨日も小学生が殺害される事件があった。
申し訳ないと思う。いつも思う。生きていて申し訳ないと思う。またもや生き延びてしまったと思う。私は健康すぎ、昨週ひいた風邪もとっとと治り、自動車での通勤を通算7年くらいしているが、無事故、ゴールド免許。警察のお世話になったのは、原チャリの整備不良(バックミラーを盗まれていた)と、違法駐車(会社の会議に遅れそうだった)くらい。骨折の経験なし。怪我通算6針程度。入院経験なし。親父が結核持ちであったので、自分は癌には絶対ならないという信仰を持っている。生命保険には入っているが、癌保険には入っていない。なぜなら絶対に癌にはならないと思っているから。オ親父パワーによって、なってはならぬと思っている。私は私の亡父を魂の底から尊敬しているので、苦しんでは死なない。親父のように、やや、そこそこ安らかに死ぬ。
ということで、ダイエットは進行中であるが、いろいろ一生懸命やらないといけないと思うのである。
他者の死によって。
全身全霊でものごとにとりくまないことには、亡くなった方々に申し訳ないと思うわけである。
従って、私は、小泉首相の靖国参拝を支持している。

ネクタイピンの死

2005-11-19 23:03:55 | 感想
先日ネクタイピンのバネが折れてしまった。
10年以上前に購入したものである。
たぶん1000円くらい。学生時代に、結婚式のビデオ撮影のアルバイトで、
スーツを着用していたので、そのついでに買っている。
フェンダーのエレキギターに、ジャズマスターという古いデザインのものがあるが、
そのような形をしている。
普段はそうとは意識はしていなかったが、愛用の品であった。
ネクタイがぶらぶらするので、新しいのを買ってくれと細君に言ったが、
ネクタイピンなんて、年配の人がするものであるがゆえに、不必要である、と一蹴された。どうなのかわからないが、とりあえず、ぶらぶらして落ち着かないネクタイの日々である。
どうなのだろう。

風邪、「秋桜」、轟くギターにスマイル

2005-11-16 10:32:50 | 感想
風邪の症状はすみやかに進行中。喉の痛みは去り、楽になった。発熱なし。
咳が出はじめた。これがたぶん二週間くらい続くのでないだろうか。経験的にそうだ。ひどい場合には、肋間神経痛になる。過去二度なった。咳をすると、肋骨にひびが入るかのごとく、強い痛みを感じる。それで心配になって、以前、結核かと思い、病院に行ったが、結核ではなかった。

先日の月曜休日は、ギターを弾いてすごした。難しいことはしていない。病人だから。ボブ・ディラン「時代は変わる」とか、くるり「バンドワゴン」とか、中島みゆきの昔の曲とか、さだまさしとか。
そうそう、病弱の身にはさだまさしがよく染みる。健康なときは聴かない。
とくに「秋桜」を弾き語ると、涙腺がゆるむ。病気はいかん。
よく晴れた休日であったが、外出しない罪悪感もなく、病身の立場で、終日家で、眠ったり、本を読んだり。夜になって、酒がないのに気づき、センブン・イレブンへ徒歩3分。風邪のときは、芋焼酎ということで、霧島のパックを買う。

カーステはホワイト・ストライプス。
70年前後の、ジミヘンとか、クリームとか、初期ツェッペリンを聴いているような、轟くギターにスマイル。

ホワイト・ストライプス、焼酎:お湯=6:4、アンチ体温計派

2005-11-14 01:11:05 | 感想
スマッシング・パンプキンズを聴いているうちに、どうしてもホワイト・ストライプスを聴きたくなった。とくに「セブン・ネイション・アーミー」が。ということで購入。ひとつ前のアルバム。
ロックの原初的なパワーを感じる。素朴な快楽がある。それは、ジミ・ヘンドリックス「パープル・ヘイズ」のイントロのギターを聴いたときに感じる快楽とほぼ同等である。
というわけで、ホワイト・ストライプスを高く評価する。
エレファント
ザ・ホワイト・ストライプス





風邪のときは焼酎と決めている。センブン・イレブンで買った芋焼酎で体を温める。目覚めが良い。
焼酎:お湯=6:4
にして、レンジで温める。
二日苦しんだが、喉の痛みが終わったような気がする。
発熱はなさそうだ。
アンチ体温計派である。
自ら触れればわかる。
ともかく、明日は養生する。晴れても降っても読書、それから、ギターの練習でもしよう。

デヴィッド・ボウイ、スマッシング・パンプキンズ、ツェッペリン

2005-11-12 01:31:23 | 感想
デヴィッド・ボウイ「ファイブ・イヤーズ」を聴いて涙ぐんでしまった。
根本的にデヴィッド・ボウイの旋律は悲しい。
「ファイヴ・イヤーズ」は、超傑作アルバム『ジギー・スターダスト』の1曲目である。このアルバム全体が、悲しい。
アルバムタイトル曲「ジギー・スターダスト」のイントロのギター、
「レディー・スターダスト」のピアノ、そのメロディー。
泣ける。これは演歌ではない。ひょっとしたら映画『E・T』のような悲しさかもしれない。
ああ、さらに『ロックンロールの自殺者』も悲しい。
『ジギー・スターダスト』は、史上10本指に数えられるべき傑作である。
ジギー・スターダスト
デヴィッド・ボウイ






Rotten Apples,The Smashing Pumpkins Greatest Hits
スマッシング・パンプキンズ




今日は、繰り返し、1曲目スマパンの「Siva」を聴く。
快楽である。すべてのバランスが快楽であるが、やはりとくに、ジミー・チェンバレンのドラムが快楽である。
アコースティックな日々を送っていて、
ふいにハードでヘビーなものを聴きたくなっているようだ。

「Siva」は、ツェッペリンの「アキレス最後の戦い」に匹敵する興奮を私に与えてくれる。

口口口(クチロロ)、ノラ・ジョーンズ、B-25

2005-11-09 01:06:57 | 感想
口口口(クチロロ)というバンドがおもしろそうだ。
話によると、オザケン+スチャダラ+くるり
といった感じということだが、まさにそんな感じ。
タワレコで試聴した細君が買ってきた。

ラジオでふいに聴いたノラ・ジョーンズがよかったため、
ついに最初のアルバムを買った。夜更けには良い。
ハナレグミのボーカルスタイルは、ノラ・ジョーンズに似ていると思う。
したがって、ハナレグミもまた夜更けに良い。

スガシカオが愛用している、ギブソンのアコギ、B-25が欲しいと思っている。
現在は生産されていない。

ローランドの悲しい目の乙女、こころ、もっとも危険な読書

2005-11-05 00:59:09 | 感想
ブロンド・オン・ブロンド
ボブ・ディラン





このアルバムの最後の曲が「ローランドの悲しい目の乙女」である。
長い曲で、淡々としてはいるものの、奇妙なドラッチックさがある。
アンチ・クライマックスの緊張感。
詩としての姿が立ち上がってくるのが見えた。



漱石『こころ』の最終部をふいに我が本棚の前にて立ち読みして打ちひしがれた。
どうしてこのように心に染みるのか。謎が深い。
再読を強いるという類の傑作の筆頭はこの作品であろう。



もっとも危険な読書

高橋源一郎



は繰り返し読むべき重要な書評本である。
『漱石の実験』という極めてマイナーな愛読書となった書物に出会ったのも、この本によってであった。
ソファの背もたれの上にでも設置して、思い立って頻繁にかつランダムにページをめくるべし。

覚悟が足りないと、自戒する

2005-11-02 02:02:01 | 感想
調子良く『坂の上の雲』を読み進んでいる。
なんともやりきれない。
旅順は陥落した。黒溝台の戦いを過ぎた。
畏れ多い。何とも畏れ多い。
ほとんど右翼的感想しか浮かばない。
圧倒的な死傷者数と、あまりにも勇敢すぎる日本軍。
とにもかくにも靖国神社に行って頭を垂れたいという思いである。
やりきれない。
不甲斐ない。
覚悟が足りないと、自戒するのである。