神戸の空の下で。~街角の歴史発見~

足かけ8年、150万PV突破。「近畿の史跡めぐり」のサブタイトルも、範囲が広がったために少し変更しました。

京都・方広寺。

2008年06月08日 | ◇京都府 -洛東


方広寺

(ほうこうじ)
京都市東山区大和大路通正面東入ル茶屋町527-2




戦国史における存在感とは裏腹に、現在は落ち着いた姿で佇む方広寺の本堂。


〔宗 派〕
天台宗山門派

〔御本尊〕
大日如来像
(だいにちにょらいぞう)


 戦国時代、明智光秀公の謀反によって天下統一の道半ばで本能寺に斃れた織田信長公。その織田信長公の天下統一の夢を引き継ぎ実現したのが、尾張国愛知郡中村の卑賤の身から関白まで駆け上がり、戦国時代の立身出世の象徴として庶民より「太閤さん」と呼ばれて親しまれた豊臣秀吉公です。豊臣秀吉公は、応仁の乱から長きに渡る戦乱によって焼き払われ、疲弊した京都市街の大規模な再建を推し進めました。1586(天正14)年より着工された豊臣政権の中心地・聚楽第とほぼ時を同じくして建立が始められたのが、皮肉にも豊臣家の滅亡を早める原因となった「国家安康の鐘」で有名な方広寺です。




本堂、大黒天堂、そしてこの鐘楼は創建当時の建造物だといわれています。



 天台宗山門寺派の寺院として豊臣秀吉公によって建立された方広寺。この地には、奈良や鎌倉の大仏と比肩される立派な大仏が建てられていました。1586(天正14)年、豊臣秀吉公は自らの権力の象徴として奈良・東大寺の大仏を上回る日本一の規模の大仏の建立を計画します。これには諸大名に用材などを供出させることで軍事的反抗を行う経済力を削ぐ意味合いもあったと思われますが、壮大で派手なものが好みだった豊臣秀吉公らしい発想だといえます。また、大仏殿に使用する釘に転用するという名目で刀狩令が出されるなど、全国の農民の武装解除を進める政策にも利用されました。

 もともと東福寺の北側が建設候補地に挙げられていましたが、1588(天正16)年に入り三十三間堂の北側の地に予定地を変更して建設が始められ、7年後の1595(文禄4)年に完成。五丈三尺(約16メートル)といわれた東大寺大仏を凌ぐ六丈三尺(約18メートル)の大仏の完成を受けて、豊臣秀吉公は亡き父母の追悼供養として各宗派より1,000人の僧侶を呼んで「大仏千僧供養」が行いました。この頃の方広寺の境内は現在の寺域よりさらに南、豊国神社京都国立博物館の平常展示館あたりまで広がる広大なものでした。南北約90m、東西約55mあったといわれる壮大な大仏殿は、豊国神社の社殿が建っているあたりに建てられていました。

 豊臣家の威信の象徴として建てられた大仏は、早くも翌年の1596(慶長元)年に発生した伏見大地震のために倒壊してしまいます。民心の動揺と威信失墜の危機を察知した豊臣秀吉公は、速やかに方広寺を訪れて倒壊した大仏に向かって弓矢を放ち、「うぬは京の町を守る役目を忘れ、真っ先に倒れるとは、何たる慌て者!」とパフォーマンスを行って「神仏をも叱咤する頼もしい権力者」としての姿を演出し、庶民の心を落ち着かせようとしたというエピソードが残っています。

 大仏倒壊の年の2年後の1598(慶長3)年に豊臣秀吉公はこの世を去りますが、跡を継いだ豊臣秀頼公が亡父の意思を継いで1599(慶長4)年に大仏を再建。しかし、この大仏も1602(慶長7)年に鋳造時のミスによる失火によって全焼してしまいます。それから4年後の1608(慶長13)年、徳川家康公の勧めによって再度大仏殿の復興事業に着手した豊臣秀頼公でしたが、この時に鋳造された梵鐘に刻まれた銘文が、皮肉にも豊臣家の運命を変えてしまう結果となります。



 
東大寺・知恩院と並び「日本三大名鐘」と呼ばれる梵鐘(国の重要文化財指定)。



 1614(慶長19)年に再建された大仏殿の落慶法要を行おうとした豊臣家でしたが、ここで有名な「方広寺鐘銘事件」が起きます。再建された梵鐘に刻まれた銘文に対して徳川家康公から突如猛烈な抗議が行われたのですが、その内容は「国家安康」の部分が徳川家康公の「」と「」を分断して徳川家を呪詛し、「君臣豊楽 子孫殷昌」の部分が豊臣家を君主として子孫が繁栄していくのを楽しむという意味だというもの。このような難癖をつけて豊臣家を故意に挑発し、戦乱を起こして一気に息の根を止めてしまおうとする陰謀で、側近・金地院崇伝による発案だったといわれています。

 結局、この後も続けられた挑発に乗った豊臣家徳川家は、翌年の1615(元和元)年と1616(元和2)年に起きた「大阪の冬の陣」「大阪夏の陣」で激突、豊臣秀頼公と母・淀君の自害によって豊臣家の栄華は幕を閉じることとなりました。事件のきっかけとなった梵鐘は現存していますが、豊臣秀頼公によって再建された大仏は1662(寛文2)年に起きた地震によって倒壊してしまいます。豊臣家供養の意味も込めて徳川家によって1667(寛文7)年に再建された大仏(木造仏だった)は、1798(寛政10)年に落雷によって全焼。以後、方広寺の大仏は再建されることがありませんでした。




アクセス
・京阪電車「七条駅」下車、東へ徒歩8分
・京都市バス206・208・100洛バス「博物館・三十三間堂前」バス停下車、徒歩5分
 方広寺地図 Copyright (C) 2000-2008 ZENRIN DataCom CO.,LTD. All Rights Reserved.

拝観料
・無料(本堂拝観料200円)

拝観時間
・9時~16時

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