政府当局や権力者に都合のいい言説の普及に学術界も一役買っています。
今回の文章の原題は
The Ivy League’s favorite war criminal
(米名門大学ごひいきの戦争犯罪人)
書き手は Omer Aziz(オメル・アジズ)氏。
原文はこちら↓
https://zcomm.org/znetarticle/the-ivy-leagues-favorite-war-criminal/
(なお、原文の掲載期日は4月21日でした。また、原文サイトにあるリンクなどの仕掛けは訳文には反映していません)
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The Ivy League’s favorite war criminal
米名門大学ごひいきの戦争犯罪人
By Omer Aziz
オメル・アジズ
初出: Salon.com(『サロン』誌)
2015年4月21日(土)
元政府高官は、アイビーリーグと呼ばれる米国東部の名門私立大学群の各校が常に好んで話を聞きたがる人々である。彼らが権力の座にある間、どんなふるまいをしたか、その行為がいかに破廉恥または非倫理的、あるいは犯罪的なものでさえあっても、おかまいなし。エリートの学府は、以前の政府当局者の中でもっとも不穏当な人物でさえ、両手を広げて大歓迎する。
そういう次第で、先週の金曜日の晩、ヘンリー・キッシンジャー氏はイェール大学で講演をおこなった。同氏はこの大学に私的文書を大量に寄贈しており、冷戦に関する歴史学者のジョン・ルイス・ギャディス氏と一緒に時折講座にも参画していた。つい1年ほど前には招待者のみの講演会も催された。
先週の「対話」の折に司会役をつとめたのはハーバード大の教授ニーアル・ファーガソン氏であった。同氏はキッシンジャー氏の公認伝記作家でもある。
近親相姦的な内輪の者同士のゲームであることを公然と示すかのごとく、3番目の列に陣取っていたのはポール・ブレマー氏であった。あのイラクの連合国暫定当局の「行政官」であり、同国の非バース党化(バース党員の排除)を推し進め、何百万人もの人員を解雇し、同国の崩壊に手を貸した人物である。それは最終的に武装勢力の蜂起、スンニー派とシーア派の抗争、そしてその後、同地域のアルカイダ勢力がISISへと変容していく事態へとつながった。ところが、このブレマー氏の経歴はイェール大学とその周辺では輝かしいものとされている。
では、少なくともイェール大学の学生たちはキッシンジャー氏にさまざまな質問を投げかけることを許されたろうか。同氏の公的な軌跡について問い質したり、あるいは、ほんの数日前に同氏が『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙に寄せたイランとの核協議をめぐる錯誤的な判断に異を唱えたりできたであろうか。
おあいにくさま。すべての質問はあらかじめファーガソン氏がふるいにかけており、キッシンジャー氏の受けた質問は、いわば、下手投げのソフトボールで放られた球であった。キッシンジャー氏の近著『世界秩序』をめぐってやり取りがなされた。イランおよび中東に関する質問が発せられた。中国についての長広舌があった。しかし、結局、ファーガソン氏の口にした質問はことごとくが学部生でも手際よく答えられる類いのものであった。
一方で、イェールの学生たちは告知されていなかった-----キッシンジャー氏がキッシンジャー・アソシエイツの代表であり、キッシンジャー・アソシエイツが国際的なコンサルティング会社で、その顧客は中東のペルシャ湾岸地域を初めとして同氏が論ずるその他のさまざまな地域に散らばっていることを(この事情は『ウォール・ストリート・ジャーナル』紙、『ワシントン・ポスト』紙、『ニューヨーク・タイムズ』紙などもやはり記事中で言及していない)。
ここにはお手本のごとき「利益相反」が存する。賢明なる読者はここで思い出すだろう。かつてキッシンジャー氏は、同時多発テロ独立調査委員会の委員長であったが、上院倫理委員会とメディアの大御所らから自身の顧客リストの公開をせまられ、結局、辞任するはめになったことを。
おぞましいことに、われわれは、高名な元政府高官が次から次と賛辞を呈され、名門大学の講堂で発言の機会をあたえられ、それでいて、一般市民が抱いているかもしれない具体的で厄介な疑問から隔離されているさまを見せつけられる。
一体なにゆえにキッシンジャー氏のごとき「知識人」が、自身の航跡について議論と証拠を通じて問い質されることをそれほどおそれるのか。私自身が提出していた質問は、約300万もの人々の死を招いた1971年のバングラデシュの虐殺におけるキッシンジャー氏の役割についてであったが、ファーガソン氏はこれを都合よく素通りした。司会役の人間は実のある対話がおこなわれるよう取り計らうのが一般である。しかし、ファーガソン氏のふるまいはこれと正反対であった。質問がぶつけられる人間を用心深く隔離し、むずかしい質問を排除したのである。
巷間、しばしば、大学における発言の自由は、差別や偏見に対する過度の配慮、慎重さのために制約されていると懸念されている。しかし、実のところ、見解の相違をめぐって議論する場合、キッシンジャー氏(およびファーガソン氏)のような権威を有する人物のために自由が阻害される例の方がはるかに多い。彼らはお互いの偉大な著作を賛美し合うのが通例で、戦争犯罪や人権侵害等をめぐって真剣に論を戦わすことはめったにない。一度インサイダーに属すれば生涯インサイダーのままなのである。それはつまり、公職を辞して何十年になろうと、何も責任を問われることがないということを意味する。
そうであるならば、ここで、イェール大学のモットーである『Lux et Veritas』(光と真実)に敬意を払って、キッシンジャー氏の軌跡を手短にふり返っておくことが至当であろう。
1.現政権の外交を妨害
1968年の米大統領選の5日前、ジョンソン大統領は北ベトナムに対する爆撃を停止するよう命じた。戦争の終結に向けての交渉を開始するためであった。この決定は秘密にしておく必要があった。露見すると、推し進めている和平交渉が頓挫しかねないのである。ところが、当時、交渉担当者のアドバイザーであったキッシンジャー氏はニクソン陣営に連絡し、こう告げた。「私は重要な情報をつかんだ。彼らはパリでシャンパンの栓を抜いている」。一方、ニクソン氏の方は、自身の回顧録の中で「きわめて異例のルートを通じて」事前に交渉の件を知らされていたと語っている。南ベトナム側は大統領選の3日前に交渉を打ち切った。ニクソンの腹心であるアンナ・シェノート女史から共和党政権であればもっと有利な取り引きが可能と伝えられたからである。キッシンジャー、ニクソン両氏によるパリ和平交渉の妨害行為の結果、どれほどのベトナム人とアメリカ人が命をうしなうことになったかは今に至るも分明ではない。
2. カンボジアにおける不法な戦争
ニクソンとキッシンジャー両氏はベトナム戦争を拡大し、ラオスとカンボジアにも絨毯爆撃をおこなった。キッシンジャー氏はボスの言葉を次のように部下に伝えた。「これは命令だ。遂行されなければならぬ。飛べるものはすべて飛ばし、動くものはすべて標的だ。よろしいか」。その結果、カンボジアだけでも300万トン近い爆弾が投下された(第二次世界大戦全体を通じて投下された爆弾は200万トンであった)。4000~15万人の市民が「ブレックファースト」、「ランチ」、「スナック」、「ディナー」、「サパー」、「デザート」等の作戦暗号名をつけられた絨毯爆撃によって命を落とした。ベトナム戦争のこの違法な拡大は意図せざる結果を招来した。カンボジアでのクメール・ルージュの台頭である。この狂信的教団は大量虐殺を敢行し、150~300万人の国民が犠牲になった。キッシンジャー氏は1975年にタイの外務大臣との会話でこう語っている。「貴殿はカンボジア政府(原注: すなわちクメール・ルージュ)に対し『アメリカは友人だ』と伝えるべきだ」、と。これは「現実主義的外交」と称されるようなものではない。虐殺に手を貸すふるまいである。
3. パキスタンのバングラデシュ虐殺を黙認
バングラデシュ(当時は東パキスタン)は、民主的な選挙を経て1971年にパキスタンからの独立を宣言した。しかし、軍事独裁政権はこれを喜ばなかった。軍の過激派組織は選挙に勝利した側を弾圧すべく、多数の女性をレイプし、無差別的な銃撃をおこない、子供たちを虐殺した。とりわけその標的となったのは少数派のヒンズー教徒であった。中でも際立っておぞましい事件は、パキスタンの兵士たちがダッカ大学の部屋を次々にチェックし、その場にいた学生や大学職員らを皆殺しにしたことである。この1971年の虐殺全体では、300万人近くが殺害され、40万人の女性がレイプされたと言われている。
当時ダッカにいた米国の上級外交官アーチャー・ブラッド氏はニクソンとキッシンジャー両氏にあてて次のような文章で始まる電信を送った。
「わが米国政府は民主主義の抑圧を非難していません。わが米国政府は数々の残虐行為に口をつぐんでいます。わが米国政府は一般市民を保護する断固たる措置を講じないまま、西パキスタン支持派の支配的な政府当局をなだめることに汲々としています」。
ゲイリー・バス教授がその傑出した著書『ブラッド電信』において詳述しているように、かかるふるまいは単に「国際政治における現実主義」と片づけられるものではない。虐殺されたベンガル人をからかう時、ニクソン氏やキッシンジャー氏には、ある種の喜悦があった。キッシンジャー氏はパキスタンの独裁者ヤヒヤー・ハーンの「洗練と如才なさ」をほめ称えた。ニクソン氏は、インド人には「大飢饉」が必要だと発言した。キッシンジャー氏はまた、「死にゆくベンガル人」のために「血を流す」人々をあざ笑っている。
このような趣旨の発言を、仮に名前をふせたまま聞かせたら、人々はたぶん発言者はならず者であって、米国の政治家とはまず思うまい。
4. その他、チリ、イラク、東ティモール、キプロスにおける犯罪
キッシンジャー氏は、1973年のチリにおける、戦争犯罪人アウグスト・ピノチェト将軍のアジェンデ政権に対する軍事クーデターを支援した。「私には、国民の無思慮のためにその国が共産主義に走るのをなぜ黙って見ていなければならないのかわからない」とは、キッシンジャー氏の当時の言葉である。同氏はまた、1975年にイラク領内のクルド人が決起するのを後押ししたが、サダム・フセインがイラン国王と合意を結んだ途端に彼らを見捨てた。インドネシアの独裁的大統領スハルトの東ティモールの侵攻に際して米国のお墨つきをあたえたのもキッシンジャー氏である。キプロスのマカリオス大主教(初代大統領)の追放の動き、また、その後のトルコの侵攻についても事前に知っていたが、なんら手を打たなかった。18万人のギリシア系住民が家郷を離れ、1万人のトルコ系住民が強制的に移住させられた。トルコからは大量の人間が流入した。首都ニコシアは現在も分断されたままである。
以上のキッシンジャー氏の軌跡を考えれば、同氏がイェール・ロー・スクール(イェール大学法律大学院)で講演をおこなったのは実に不思議ななりゆきである。私はたまたまここで学んでいるが、同校は進歩的な思想をはぐくんだ長い伝統を有するとともに、公共心にとむ法律家の育成に真摯に取り組んでいる。
キッシンジャー氏は講演を拒否されるべきではない。しかし、同氏を招くにあたっては-----政府当局者を招く場合は常に-----、むずかしい質問が発せられることを了解した上でなされるべきだ。公僕はまず何よりも一般市民に仕える存在である。過去の罪を問い、説明責任をはたすよう求めることを閑却して、半ば神のごとき存在としてあがめるべきではない。
キッシンジャー氏の採った政策による無名の犠牲者たちは、社会正義の実現に立ち会うことはないであろう。彼らは数々の称賛を浴びたり、コンサルタント業務の大口契約を獲得したり、大手紙に長文を寄稿し、過去の経歴を化粧直ししたりすることはできないだろう。彼らに法廷が用意されることはあるまい。彼らは無名の死者のままであろう。もし私たちが口を閉ざしたままであるならば、あるいは、銀髪の元政府高官が町にやって来るたびに、彼らの過去のおこないには目をつぶって、パブロフの犬のごとく無条件によろこび勇んで拍手喝采を送るならば、これら無名の犠牲者の運命に関して私たちもまた共犯者たるをまぬがれない。
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[さらにくわしく知りたい方のために]
■キッシンジャー氏のいわば悪行の数々については、
クリストファー・ヒッチンス著『アメリカの陰謀とヘンリー・キッシンジャー』(集英社)
にくわしく書かれているようですが、残念ながらこの著作は現在絶版で、古書店で手に入れるしかないようです。
■文中に出てくる、クメール・ルージュとキッシンジャー氏のかかわりについては、特に以下のサイトでくわしく論じられています。
ポルポトとキッシンジャー
http://rootless.org/herman/polpot_kissinger
■文中で言及されている、アーチャー・ブラッド氏の電信については、防衛省OBの太田述正氏のブログで取り上げられています。
・バングラデシュ虐殺事件と米国(その1~)
http://blog.ohtan.net/archives/52193526.html
■また、上記にからんで言及されている、ゲイリー・バス教授のすぐれた著作『ブラッド電信』の原題は、
The Blood Telegram: Nixon, Kissinger, and a Forgotten Genocide
(ブラッド電信: ニクソン、キッシンジャー、忘れられた虐殺)
です。
邦訳はまだ出ていないようですが、現在どこかの出版社が取りかかっているのでしょうか。
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