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気まぐれ翻訳帖

ネットでみつけた興味深い文章を翻訳、紹介します。内容はメディア、ジャーナリズム、政治、経済、ユーモアエッセイなど。

英国のメディア監視サイト・2-----企業ジャーナリズムをめぐって

2013年10月31日 | メディア、ジャーナリズム

ご無沙汰しておりました。諸事情により遅くなりました。
今月も更新はこの1回のみになりました。来月もそうかも ^^;)


今回は、前々回と同様、英国のメディア監視サイト『Media Lens』(メディア・レンズ)の文章から。
corporate journalism(企業ジャーナリズム)をめぐる一考察です。
(2月7日に掲載されたものですが、訳出しておく価値はあると信じています)

タイトルは
Jousting With Toothpicks - The Case For Challenging Corporate Journalism
(訳は
「つまようじで闘いを挑む-----企業ジャーナリズムに抗する意義」
ぐらいにしておきます)

書き手は David Edwards(デビッド・エドワーズ)氏。

原文はこちら↓
http://www.medialens.org/index.php/alerts/alert-archive/alerts-2013/719-jousting-with-toothpicks-the-case-for-challenging-corporate-journalism.html
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Jousting With Toothpicks - The Case For Challenging Corporate Journalism
つまようじで闘いを挑む-----企業ジャーナリズムに抗する意義


2013年2月7日掲載

By David Edwards
デビッド・エドワーズ



本サイトの『アラート』コーナーの最近の文章に関して、ある人がわれわれの「企業ジャーナリスト」という言葉の使い方について異議をとなえている。

「問題は、この言葉が明確な意味をそなえていないことだ。チョムスキー氏はしょっちゅう『企業メディア』に寄稿している。ピルジャー、クライン、マイケル・ムーア氏なども同様だ。ピルジャー氏は自分のドキュメンタリー映画を『企業メディア』を介して公開している。クライン女史は『企業メディア』を通じて自分の著書を売り込んでいる。こんな例はいくらでも挙げられる …… 」

問題はこれだけにとどまらない。
「この言葉は遠まわしな侮蔑語として利用されるだけでなく、対象者の個性や人格を無視してじっぱひとからげにし、まとめて名誉を傷つける意図で用いられている」
(本サイトの掲示板へのドム氏の書き込み 2013年1月24日)

ところがさにあらず。
「企業ジャーナリスト」という言葉の意味はこれ以上ないぐらいはっきりしている。すなわち、それは、企業のために仕事をして代価を得る人間のことである。

むろん、このサイトになじみのある方であれば、どなたであれ、「企業ジャーナリスト」なる言葉が用いられた場合、これがほめ言葉であるとはお考えになるまい。
会社法の基本原理については、英国のボウエン卿が19世紀に次のように明確に述べた。

「法は、お菓子やビールをふるまってはならぬとは述べていない。しかし、会社の利益のために必要とされる類いのものでないかぎり、お菓子やビールをふるまってはならない。…… 慈善は、それ自身の資格で取締役会の席につくことはできない」
(ボウエン卿の言葉。引用はジョエル・ベイカン著『ザ・コーポレーション』 (コンスタブル社 2004年刊) 38~39ページ)

これはまさしく文字通りに企業の純粋な慈善行為を違法とするものだ。
また、最近では、米国法曹協会が次のように述べている。

「法は、会社の経営者らが他者の利害に配慮することを認めてはいる。しかし、その場合、株主に対する長期的な利益とそれ相応の関係を有することを求めている」
(前掲書 39ページ)

もう少しざっくばらんに言えばこうだ。
会社はもっぱら株主の利益を最大化するためにのみ存在する。そして、このおきては「国の土台を成す法」であり、「神聖で、議論の余地のない真実として広く認められている」(経済ジャーナリストのマージョリー・ケリー氏の表現)。
(前掲書 39ページ)

上で名前の出た、カナダの法律家ジョエル・ベイカン氏はわれわれに勧めている。経済的利益が確実に見込めないかぎり、病人や死に瀕した者を助けようとしない人間を想像してごらんなさい、と。このような人間をわれわれはどう思うでしょう、精神異常者と考えるでしょう、と同氏は言う。こういう言い方にもしビックリするようなら、思い起こしていただきたい-----気候変動の破滅的な脅威に対して化石燃料業界が目を疑うような対応をしていることを。

企業メディアのために仕事をしているジャーナリストは、まさしくこのような冷血な目的を追求する雇用主のために働いているのである。
であるならば、われわれはどう対応すべきなのか。

われわれなら、どう接しただろうか-----スターリン時代のロシアで『プラウダ』もしくは1930年代にナチスドイツで『シュテュルマー』(訳注: 悪名高い反ユダヤ主義の新聞)から高給を得ていたジャーナリストたちに対して。この問いかけは極端すぎると思われるかもしれない。けれども、狂人に擬せられるような現代世界の企業システムは、スターリン主義や全体主義の統治よりも害をおよぼすことが少ないと断言できるだろうか。

この問いかけの冷静な検討をむずかしくしている一因は、そのあつかわれ方自体にある。企業メディアは、自分たちに対する批判者を隅に追いやることに長けているだけでなく、ありもしない美徳を吹聴することに秀でている。彼らはまた、国家による言語を絶する犯罪(彼らによると「あやまち」だ)でさえ、些細で取るに足りない、「それほど悪くない」おこないと思わせる驚嘆すべき能力をそなえている。そういう次第で、このような欺瞞が、独裁政権下のメディアとの比較を実際よりはるかにとんでもないことのように感じさせるのだ。

実のところ、このような比較は筋が通っている。もしわれわれが今あらためて周囲を見渡してみれば-----つまり、欧米による破壊的な侵略、企業の好戦性によって助長される大量殺戮、人類と地球に対するまことにむごい、おそらくは最後の、搾取を直視するならば-----、われわれはまさに世界が狂気じみた欲のためにむしばまれつつあることがわかる。
かつてニューヨーク・タイムズ紙の記者であったクリス・ヘッジズ氏は、「高級な」企業メディアを含む「リベラル階級」について、次のように書いた。

「リベラル階級は、無益で、軽侮される、企業の付属物と化してしまった …… その企業は環境を汚染するとともに、われわれを主人と奴隷だけが存在する世界へとつき動かしている」
(クリス・ヘッジズ著『リベラル階級の死』 (ネーション・ブックス 2011年刊) 12ページ)

このようなあり方にジャーナリストも一枚かんでいる。けれども、進んで協力しているからといって、その個人の意向について何かが明らかになっているわけではない。確かに一部のジャーナリストは冷めた姿勢で欲望と権力に奉仕している。しかし、中には、誠実で、物事を改善しようとし、体制の内側から変革を試みようとしている者もいる。本サイトは、こうした人々のやり方に賛成はしない。とはいえ、それは理にかなったアプローチであろうし、一般大衆に進歩的な見方を浸透させる最善策とさえ言えるかもしれない(本サイトの書き手は、自分たちのやり方があやまっている可能性を退けるつもりはまったくない)。

『メディア・レンズ』の関心と努力は「裁き」にあるのではない。それは、もっとも秀でたジャーナリストでさえ自分の雇用主の体制に関して口をつぐむ事柄に対し、スポットライトをあてることである。
たとえば、企業ジャーナリストは以下の類いの問いかけに率直に答えることはまずできない。

「貴殿の新聞社が収益の75%を広告に依存している事実は記事の中身にどんな影響をおよぼすでしょうか」

ノーム・チョムスキー氏なら、この問いにストレートに答えることができる。エドワード・ハーマン氏も同様だ。この2人による著書『マニュファクチャリング・コンセント(合意の構築)』は、25年前に上梓された、メディアの構造的な偏向に関するもっとも冷徹な分析書である。2人ともまだ故人になったわけではないし、チョムスキー氏は一時代を画する言語学者で、その政治をめぐるコメントは世界的に注視されている。ところが、この著書は、企業ジャーナリズムにかかわりのある大家や重鎮からは一顧だにされなかった。英国の新聞で、ここ5年間のうち、この著書の名前が挙がったのは8度にすぎず、それもすべて軽くふれた程度であった(1文か2文のあつかい)。内容について深くつっ込んだものは皆無であった。また、「ノーム・チョムスキー」と「プロパガンダ・モデル」(上掲書のメイン・テーマ)がならんで英国の新聞記事に登場した例は、ここ20年のうち、2度にすぎない。

本サイトの書き手の経験から推すと、上記の問いに答えようとする企業ジャーナリストはまず見つからないだろう。彼あるいは彼女は、真実に気を使って多少は誠実めいた身ぶりを示すかもしれない。たとえば、BBCの政治部部長であったアンドリュー・マー氏が書籍という安全地帯からそうしたように。

「しかし、もっとも大きな問題は、広告がニュースの取捨選択を制限し、再構成をせまるかどうかである。むろん、答えはイエスだ。小切手を切る人物を厳しくあつかうと収益を高めるのは容易ではない」
(アンドリュー・マー著『わがなりわい』 (マクミラン社 2004年刊) 112ページ)

しかし、明らかに重大な問題であるにもかかわらず、これをさらに深く掘り下げようとする試みは、マー氏の場合とおなじく、今後も現れないだろう。自分自身の経験から典型的な例を持ち出すことも、別の選択肢を俎上に載せることも起こらないであろう。ましてや、一般市民になんらかの行動をうながすことなど微塵も考えられまい。

さて、もうひとつ、問いかけを提示してみよう。これは、たとえば、インディペンデント紙などの記者を念頭に置いてのものだ(訳注: 同紙のオーナーはロシアの富豪レベジェフ氏)。

「大富豪をオーナーに戴く貴社の利潤最大化という目標は、貴社の新聞の目指す誠実・公正な報道に対してどのような影響をおよぼすでしょうか」

意識的に目をつぶるか、あるいは会社で働いた経験を持たない人間でもないかぎり誰でもわかるはずだ、会社またはその製品、オーナーなどを批判すること-----ある製品は有害だから消費者は他の製品を選ぶべきだと示唆する、等々-----は、企業の利潤追求という目標とはかみ合わないことを。そうすることは、利潤の観点からすると、自殺行為にひとしく、馬鹿げたことだから許されないのである。それは、チームの片方が自分のゴールに得点を決めようとするサッカー試合をおこなうようなものだ。一体なんの意味があるだろうか。どうしてあえてそんなことをするだろうか。

この問題は一見したところよりもはるかに深刻である。というのも、自分の属する組織に関する事実上の自己批判の禁止は、単にジャーナリストが自分の会社を俎上に載せることにとどまらず、広く言って「企業による自由な報道」を妨げているさまざまな矛盾を生み出しているからだ。正直な意見を表明する内部告発者は「放射能汚染された者」と見なされ、雇用の継続を拒まれ、ほかのいかなる職場においてもあたたかく迎えられない。


メディアの壁を突破する

こういうふうに述べてきたからといって、チョムスキー氏やハーマン氏のように企業に属さない論者であれば、新聞社の幹部を説得し、その紙面にあけすけな会社批判の文章を載せることができると主張したいわけではない。実際、チョムスキー氏でさえ、ガーディアン紙にガーディアン紙自体の枠組みを分析した文章を掲載することはできなかった。企業から比較的自由であるからといって、その批判者がメディアの壁を突破できるわけではない。

とは言っても、一方で、これらタブーとなっている問いかけが紙面にまったく登場しないと訴えたいわけでもない。ガーディアン紙は、この気候変動の時代における広告の問題について、かなり率直な分析を記事にしたことがある。しかし、これは結局のところ高名な記者に対する編集幹部側の一時的な譲歩であった。高名な記者たちは、看板通り厳正な報道に従事していることを証明するようメディア監視家・改革家からせまられていた。いったん体面がつくろわれるや、以後、懸念のポーズは消え失せ、ガーディアン紙の広告政策と実施態様はあらたまることなく続いたのである。

本サイトに批判的な人間は感情的な側面を浮き立たせて非難するのが通例だ。たとえば、ガーディアン紙の善意からの取り組みに対して「意地の悪い」、「冷淡な」対応だと言う。こちらとしては「意地の悪い」対応をするつもりは毛頭ない。しかし、同時にまた、本サイトの書き手は、企業メディアがめずらしく正直な論を展開したからといって、それを感謝の念で受け取るべきだとも思わない。私たちはそれを人間の権利として-----そしてそれ以上のものとして-----捉えている。

皮肉なことに、本サイトを猛烈に非難するのは往々にして左翼系の人々である。この人々にとっては、企業内の反乱分子は企業というケダモノの内部から闘いをしかけている英雄的な人間である。そう見なすことが適切な場合も確かにあるが。そして、彼らは、これらの反乱分子を最大限に「支援」するべきだと言う。つまり、正当な異議申し立ての試練から免れさせてやるべきだ、と。本サイトのような批判は、いわば裏切りであり、深刻な士気低下をまねくおそれがあると見なされたりする。残念ながら、これら(しばしば癇癪持ちの)左翼系政治コメンテーターはがっかりし、本サイトを見限ることになるだろう。彼らの主張は、オープンな議論や言論の自由を彼らが心の底から信じてはいないことを示している。本サイトは議論の場におけるごくちっぽけな反抗勢力にすぎないのに。

また、メディアを刺激すべきではないという意見もある。左翼寄りの内部改革者が排除される可能性を懸念してのことだ。企業メディアという名の残忍な神はなだめすかし、理をさとらせ、より善良な道筋をたどるよう誘導すべきであると言う。

この意見はかなり長い間幅をきかせていた。本サイトの書き手にとっても同様だった。しかし、近年になって無視できぬ変化が起こり、左派や環境活動家たちは自身の思考の前提を慎重、厳正に見直さざるを得なくなった。その変化とは、気候変動のことである。

大規模な気候災害が遠くない将来に起こる論拠は、ここ四半世紀で大きく積み上がった(今では否定しがたい事実である)。にもかかわらず、メディアのあつかいは、たとえば私たちが1980年代後半に啓蒙を始めたときと比べると、ごく小さなものに後退してしまった。とりわけここ10年間、環境保護運動は気候変動に関するかぎり負け戦だったと言ってよい。勝ったのはメディアが果敢に先兵をつとめた企業の側である。進歩派はこれらのメディアに配慮し、企業内の左翼系改革者を支援すべきである、また、こちらの正当性を声高に言いつのるべきではない-----このような主張はかつてよりも説得力をうしなった。

企業とかかわりを持つ反体制派-----ロバート・フィスク、ナオミ・クライン、マーク・ワイズブロット、オーウェン・ジョーンズ、グレン・グリーンウォルドなど-----からは、メディアの枠組みについての意見が聞こえてこない。そのため、この問題の追究は選択の余地のあるテーマであるかのごとき印象を人は受ける。興味をそそられたら論じるのもいい、そうでなければ放っておけという具合で、ほとんど趣味の問題と化しているようだ。が、とんでもない話である。これらの書き手が関心を示している事柄-----人権、戦争、気候変動、経済的不公平、大量消費主義、等々等々-----に関係するおおやけの情報はいっさいが企業メディアのフィルターを通してわれわれに届けられる。それゆえ、この問題は、先の事柄を論ずる上でまちがいなく重大なはずである。重大ではないとする暗黙の了解は、企業メディアのプロパガンダ体制が要求する幻想のひとつにすぎない。


つまようじで10トントラックを動かそうとする試み

本サイトを批判する人はまた、メディアの体制に組み込まれている大きな不均衡に私たちが取り組もうとしている点を見逃している。ジャーナリストは、自分が属するメディアはもちろん他のメディアでも、それを批判することで大きな代価を支払う。だが、逆に、みずからの美点をおおいに吹聴することから得るものも小さくない。ツイッターをのぞいてみれば、自分の同僚や編集幹部、味方になりそうな人間、将来の雇用主に見込める人物、等々をほめそやすジャーナリストであふれんばかり。彼らは同時に、一般に了解されている「悪者」-----チョムスキー、ジュリアン・アサンジ、ウーゴ・チャベスなど-----をケチョンケチョンにけなして点をかせいでいる。チョムスキー氏が指摘したように、政治エリートたちは「自己賞賛の達人」である。放送ジャーナリストや新聞・雑誌記者がしばしば「国の宝」として賞賛されることもあらためて言うまでもない。

本サイトが強調しておきたいのはこうだ。メディアはおのれを基本的に「善良な」存在と称し、マードック氏のような少数の厄介者がイメージを汚しているだけだと主張するが、これに異論をとなえる声はほとんどあるいはまったく見当たらない、と。メディアの「自己賞賛」に対して、本サイトが微力ながら反対方向へバランスをとろうとしていることに「意地が悪い」、「冷淡」、「公正を欠く」等々の感想をいだく人がいるとは、ほとんど思いもよらないことだ。チョムスキー氏はかつて本サイトに次のような言葉を寄せた。

「貴君の活動に心から感じ入りました。とはいえ、それは、10トンのトラックをつまようじで動かそうとする試みに似ています。彼らは自分たちに焦点があてられることを許さないでしょう」
(チョムスキー氏の本サイト宛て電子メール 2005年9月14日)

自分たちに焦点があてられることを拒むことにより、途方もないスケールの犯罪行為が容易にまかり通るようになる。

2003年の侵攻から10年、現在イラクが陥っている窮状にからんで、多くのジャーナリストが自分の報道について低い声で嘆きを表明した。
BBCの政治部編集者であるニック・ロビンソン氏は著書の『ライブ・フロム・ダウニング・ストリート』の中で次のように述べた。

「イラク侵攻へと突進していたあの時期-----あの時期こそ、自分の記者人生のうちで自分がなぜもっと深く問題を追究しなかったのか、なぜもっと質問を発しなかったのかと一番残念に思っている時期である …… 」
(ニック・ロビンソン著『ライブ・フロム・ダウニング・ストリート』 (トランスワールド社 2012年刊) 332ページ)

おなじくBBCのジェレミー・パックスマン氏も、英米両政府の言い分を信じたひとりである。

「われわれが術策にはまったという非難に対して私はあらがうつもりはまったくない。そう、確かにわれわれは術策にはまったのだ」

(当時)イラク侵攻に大賛成だった、インディペンデント紙のコラムニスト、ヨハン・ハリ氏は自分の罪を認め、「自分はまちがっていた、ひどくまちがっていた-----証拠はいやというほど積み上がっていた」と題するコラムを発表した。

しかしながら、現状はこうだ。このおそるべき犯罪に協力した、メディアのもっとも冷笑的で超保守派のプロパガンダ係でさえ、いかなる代価も支払っていない。彼らはいっさい罪を問われず、高給で名誉をともなう地位を保ち続けている。他国での何十万もの無辜の民の殺害が容易におこなえるのは、この責任を問われないメディアの力のおかげである。


結語

本サイトは、呪縛を解き、沈黙に異議申し立てをおこなうべく、あえて故意に挑発的な物言いをしている。本サイトの書き手からすれば、メディアは大部分の人間が思っているよりもはるかに有害な存在だ。それゆえ、一般大衆に対する企業メディアの欺瞞的行為に関する真実は、率直明確に伝えられなければならない-----多くの読み手がぶしつけと感じるような言い方であろうと。

いずれにせよ、本サイトは少なくとも稀有な声を届けている。政治コメンテーターの大半は、ガーディアン紙やインディペンデント紙に定期的に寄稿するコラムニストやテレビ番組の「顔」になることを夢見ている。本サイトがこれまで目撃してきたことだが、左翼寄りの若い書き手たち-----彼らの中には本サイトの掲示板にたびたび書き込んでくれた者もいる-----は、企業メディアに召し抱えられることを念頭に、自分の言葉や調子を慎重に変化させていった。仲間入りの可能性が高くなるか現実のものとなったとたん、彼らは本サイトへの書き込みをひかえ、私たちの著作に言及することをやめ、主流メディアの幹部にならって頭をふり、私たちを「無責任である」とか「極端だ」などと非難した。

そういう次第で、2001年に私たちは決意した-----ほとんど面白半分に、言わばひとつの実験として-----自分たちが、何を書き何を書くべきでないかについてメディアの「紳士協定」に従わないことを。思いがけないことに、本サイトを愛してくださる方々の厚志によって、私たちは糊口をしのぎ率直な物言いを続けることができている。多くのコメンテーターとは違って、私たちには本当にうしなうものがないのだ。

だからと言って、それで私たちが聖人になるわけではないし、主張が正しいことにもならない。だがしかし、私たち-----悲しむべきか笑うべきか、企業メディアの10トントラックにつまようじをかざして突撃を試みる私たち-----に向かって「益よりむしろ害をおよぼしている」と非難する声に対しては、それは確実に反駁材料となるはずだ。


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[補足と余談など]

■文中で述べられているように、『メディア・レンズ』は「体制の内側から変革を試みよう」とするやり方をあえて採用しません(私には「大人の対応」として依然有効であるように思えますが)。そして、メディアの「紳士協定」に従うこともやめました。
それゆえ、このサイトは、欧米メディアの中で、もっとも過激で、もっとも自由に言いたいことを言う存在となっている様子。実に貴重な存在です。
真に一般市民のためのジャーナリズムを実現するには、この『メディア・レンズ』のような組織が不可欠と言えるかもしれません。

「つまようじで闘いを挑む」とは、英語にある慣用的な言い方をすれば「ドン・キホーテ的愚行」ということになるでしょう。


■この『メディア・レンズ』を運営している中心人物は、David Edwards(デビッド・エドワーズ)氏と David Cromwell(デビッド・クロムウェル)氏のお二人であるらしい。
下から3番目の段落に出てくる「私たちの著作」には、次のようなものがあるようです。

・『Newspeak in the 21st Century』
・『The Guardians of Power – The Myth of the Liberal Media』


■文中に出てくるチョムスキー氏とハーマン氏の共著『マニュファクチャリング・コンセント』は以下のように二巻本として邦訳が出ています。

『マニュファクチャリング・コンセント  マスメディアの政治経済学 1』 3990円
『マニュファクチャリング・コンセント  マスメディアの政治経済学 2』 3360円
ノーム・チョムスキー、エドワード・S・ハーマン著 中野真紀子訳
トランスビュー社
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