気まぐれ翻訳帖

ネットでみつけた興味深い文章を翻訳、紹介します。内容はメディア、ジャーナリズム、政治、経済、ユーモアエッセイなど。

チョムスキー氏語る・6-----新しいシステムの構築に向けて

2016年05月21日 | 経済

久しぶりにチョムスキー氏に対するインタビューを訳出します。

聞き手は『ネクスト・システム・プロジェクト』。

このプロジェクトは、メリーランド大学の学生たちが中心になって推進しているもので、経済的格差の拡大や政治的閉塞状態、環境破壊などの諸問題をかかえる現在の世の中の在り方に疑問を持ち、それに代わる新しい体制・システムの構築を模索、探求する取組みであるらしい。

チョムスキー氏は、このプロジェクトの賛同者のひとりです。


原文のタイトルは、
Organizing for a next system
(新しいシステムの構築に向けて)

原文は、例によって、オンライン・マガジン『ZNet』(Zネット)誌から↓
https://zcomm.org/znetarticle/organizing-for-a-next-system/


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Organizing for a next system
新しいシステムの構築に向けて


By Noam Chomsky
ノーム・チョムスキー

初出: 『ネクスト・システム・プロジェクト』

2016年3月30日

哲学者であり言語学者であり社会評論家でもあるノーム・チョムスキー氏は、最近、みずからの学生運動の経験、および、公正な社会に向けての展望について語った。このインタビューは、目下、全米で実施されている『ネクスト・システム・プロジェクト』の野心的な討論会にはずみをつけることを企図してのもの。同氏は、このプロジェクトの趣旨に早くから賛同者として名を連ねていた。今回の語りの中で、チョムスキー氏は、文化、大衆運動、経済上の新機軸の相互の結びつきについて探った。そして、これらが「お互いを強化し合う」ことによって、新しいシステムが予想外に早くもたらされる可能性を示唆した。


『ネクスト・システム・プロジェクト』
私たち、『ネクスト・システム・プロジェクト』は現在、全米各地の大学で討論会を開催しています。大学構内で、このように深い、批判的な問いを発する取組みについては、いかがお考えでしょうか。このような取組みは、われわれの社会を変える一要素となり得るでしょうか。

チョムスキー
私にできるのは、自分の個人的な経験をいくらか伝えることぐらいです。私はMIT(注: マサチューセッツ工科大学)に勤めていました。今もそうです。65年になります。勤め始めた当初、キャンパスは非常に静かで、平穏でした。学生たちは皆、白人男性で、こぎれいな身なりをし、物腰がやわらかく、宿題はきちんとこなすといった具合でした。1960年代を通じてほぼずっとそんな風でした。大学のキャンパスがどこも騒然としていたあの時代でもです。運動に参加していた学生も一部はいました。が、多くはなかった。教員の側には平和と公正を求める運動に従事する人間もいましたが、学生の側では、それほどたくさんの人間は参加していませんでした。

実際の話、MITのキャンパスがあまりに平穏なので、1968年にジョンソン政権がベトナムからの静かな撤退を模索していた時、彼らは学生たちと和解ができるだろうと思っていました。彼らは、考えられる中での最悪の人物を選んで、あちこちの大学に派遣することにしました。元ハーバード大学教養学部長のマクジョージ・バンディ氏です。彼なら学生たちとうまく対話できると思われたのです。彼がいろいろなキャンパスを訪れて学生たちに声をかける。そうすれば、われわれはみんな友だちになれる。こう考えて、彼らはまず成功確実なキャンパスを探りました。MITは、このリストの2番目にありました。ですが、彼らはヘマをしました。結局のところ、事態はこう展開しました。大学構内で活発に運動を組織していた何人かの学生がいて、バンディ氏が登場すると、怒った学生たちが彼を取り囲み、同氏のかかわっていた数々の恐るべき事態を説明し、正当性を示すよう要求したのです。そして、究極的には、これが元で、この企画は打ち切りになりました。

この時までは、さまざまな問題-----現在でもなお解決していません-----に関して、大学構内を実質的に組織化することに成功していた学生というのは本当にわずかでした。ベトナム戦争や人種差別、女性解放運動の勃興、これらの問題はこの時代に火がついたのです。実際、数年のうちにMITはたぶん国内で指折りの活発で過激なキャンパスになりました。運動を展開していたグループのリーダーのひとり、マイケル・アルバート(下の注を参照)は、生徒会の会長に選出されました。彼の見解はまことに過激で、ほとんど信じられないぐらいでした。その詳細については今は触れませんが、これらは大きな変化でした。大学の気風や関係者たちに強い衝撃をあたえたのです。

(注: マイケル・アルバート氏は米国の著名な社会活動家で、本インタビューを掲載しているこの『Znet』(『Zネット』誌)の主宰者です)

テクノロジーの開発において倫理的な要素が初めて問題となり、まじめな議論の対象となり始めました。それは現在までずっと続いています。実際、ほんの数分前に、私は実にいろいろな問題をめぐって学生たちと『レディット』式のやり取りをしました(下の注を参照)。彼らはあらゆるタイプの問題を持ち出しました。こんなことは、1960年代前半だったら、まったく考えられないことだったでしょう。しかも、全米のキャンパスで似たようなことが起っているのです。これは大きな影響をもたらしました。大学の風土を変えたのです。地域社会を変えたのです。
近年の事態の展開をふり返ってみると、経済や政治の問題に関しては、大幅な後退がありました。ですが、文化や社会の問題となると、非常な進展が見られます。社会の階級的な性質や基本的な体制は変化しなかったどころではありません-----より悪化しています。しかし、他の点では数々の大きな変化があり、そして、その意義は決して小さくありません。女性の権利や公民権に対する態度、武力攻撃に対する反対、環境への関心-----これらが変化したものの代表例です。学生たちの活動はこれまでずっとすこぶる重要な働きを演じて来ました。そして、これからもそうあり続けるでしょう。

(注: 『レディット』は英語圏の代表的なソーシャル・ニュース・サイトかつ一種の電子掲示板。ここでは、掲示板でお互いが自由な書き込みをして、活発な意見交換をすることを指していると思われます)

それには理由があります。アメリカだけにとどまりません-----歴史をふり返ってみれば。学生というのは一般に人生の中でもっとも自由な境遇にあるからです。親の監視の目から離れています。しばしばひどく制約的な環境の下で、テーブルに食べ物を用意しないといけないような重荷に、彼らはまだ苦しめられてはいません。思うがままに探求し、創造し、発明し、行動し、組織化を図ることができます。長年にわたって学生運動は、大きな変化をもたらすこと、それを誘発することにきわめて重要な役割をはたして来ました。この事情が変わるとはとても思えません。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
私たちの社会の政治構造、経済構造の劣化について、目下、つっ込んだ議論をすることが価値があるとお考えになる理由は何でしょう。また、その議論によって、私たちはどこにたどり着くのでしょう。

チョムスキー
もう少し長いスパンでふり返ってみましょう。1930年代の大恐慌は、今日の状況と比べてみれば、重要な点で、ひどく様相を異にしていました。私は年寄りですから、当時のことは少しばかり憶えています。客観的に言えば、あの時は今よりずっと状況が深刻でした。実に厳しかった。でも、主観的には、はるかにましでした。大家族であった私の家や親族にとっては、希望に満ちた時代でした。私たちはたいてい労働者階級に属し、職をうしなっていました。教育はほとんど受けていなかった。高校さえ出ていないことも珍しくなかった。ですが、みんな元気で、まめで、希望にあふれていました。労働運動も過激でした。CIO(注: 産業別労働組合会議)は草創期に力で押しつぶされました。が、1930年代の半ばには、きわめて大きな存在となりつつありました。組織化されたのです。座り込みストライキは、生産性の高い組織を資本家が支配することをむずかしくしていました。労働者側もそれを認識していました。政府も比較的労働者に理解があった。また、各政党もさまざまな形で機能していましたし、それとは別に、労働組合が、本来の組合活動のほかに連帯、相互支援、文化交流、等々の例を提供してくれました。当時のこのような在り方が人々に希望をあたえたのです。たとえどんなに今がひどいものであっても、遠からずこんな状況から抜け出せる、と。

大きな前進があったのです。ニューディール政策の恩恵も小さくはなかった。たくさんの問題点もありましたが、益するところは甚大でした。しかし1930年代の後半になると、もう反動が生じ始めました。物事を差配するのがあたり前であった経営者層からの反撃です。それは、第二次大戦の間は休止状態にあったのですが、戦争が終ると本腰を入れて対応が始まりました。大恐慌と第二次大戦の間に育まれていた一種の過激な民主主義を押し戻すべく、大きな動きがありました。アメリカだけでなく世界中で、です。それは今現在に至るまで続いています。

1960年代には労働運動がさかんでしたが、それが懸念と反動をまねくことになったのです。それは1970年代に-----とりわけレーガン政権下で-----急激に高まり、そのまま現在に至っています。懸念と反動は新自由主義的な施策をまねき寄せました。この施策は、たとえ形態は異なっていても、世界中、採用した国はどこであれ、国民にとっては大災厄に等しいものとなりました。アメリカが好例ですが、この施策が成し遂げたのは、国民の大多数に対する福祉と各種の選択肢を削減することでした。そして、民主主義の機能を衰退させました。世界のどこを見渡しても、この事情は同じです。たとえば、男性の実質賃金です。それは、1960年代のそれとほとんど変わりがありません。経済は確かに成長しました-----以前ほど力強いというわけではありませんが、一応それなりに。しかし、その恩恵はごく一部の人間のポケットに収まっただけです。

たとえば、ついこの間の不況、2008年から、おそらく成長の90パーセントは、国民全体のうちの約1パーセントの人々の手に渡っただけです。政治の体制が本当の意味で一般国民の要求に応えるものであったためしは決してありません。ですが、今では、それどころか、実質的にプルトクラシー(注: 富裕者支配政治)の領域に達しています。もし皆さんが学術上の文献、政治学の文献をご覧になったら、国民の約70パーセントがその意見を反映されていないことを示す研究にぶつかるでしょう。国民によって選ばれた人間が国民の意見など意に介していないのです。

数年前にこういう指摘がなされました。アメリカの、「棄権する」人々-----投票しない人々-----の分析がおこなわれたところ、これらの人々の社会・経済的な輪郭は、似たような社会、たとえば、ヨーロッパの国々の、労働者指向もしくは社会民主主義の党に投票する人々のそれとほぼ重なる、と。しかし、このような党はアメリカには存在しません。米国民にあたえられているのは地理に基づいた党、つまり、直接の淵源が南北戦争に由来するものです。いずれも産業界が主導する党であり、階級に根を置く党ではありません。
この事情は現在、ずっと深刻になっています。それは、憤りを蔵し、疎外された人々を生み出す危険な可能性を増大させてきました。1930年代とはまったく違います。あの当時は希望があふれていました。今、希望や連帯は孤立、憤り、恐れ、憎悪にとって代わられています。これらは扇動家のかっこうのエサです。ちょうど今、私たちがテレビでひっきりなしに目にしているように(下の注を参照)。危険な状況ですが対抗する術がないわけではありません。学生はそれができる実に好適な位置を占めています。また、彼らは、根本的な体制-----米国の経済的および政治的体制(この2つには密接な関係があります)-----について深く考究することもできます。

(注: もちろん、目下、大統領候補としてドナルド・トランプ氏がたびたびテレビに登場していることを指します)

これと関連して、見過ごすことのできない大きな脅威があります。人類は目下、各種の決断をくだすよう迫られています-----それによって、人類のまっとうな存続がはたして可能であるかどうかが決まります。環境に関連する破局-----戦争、あるいは感染症などの世界的流行を含めて-----は、きわめて深刻な問題であり、これらへの対応は、現在の体制の枠内では困難です。このことは既知の事実と言っていいでしょう。真の意味で大きな変革がなければなりません。そして、このような変革を導入、推進できるのは、これまた真の意味で有効な、一般市民による運動だけです。それはまさしく1930年代に起ったことです。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
最近18才から26才の若者を対象にアンケートがおこなわれましたが、それによると、社会主義が「人々にもっとも配慮のある政治体制」であると答えた者が58パーセントに上りました。また、共産主義を挙げた者は6パーセントでした。今の若い世代では、社会主義に対する関心が大きなうねりとなっているように思えます。現時点では、まだ始まったばかりの動きのようですが。
共同体、持続可能性、平和、等を構築する体制を整えるためには、今、この時点で、所有権、経営権、制度設計の原理などにかかわる問題を考究すべきでしょうか。それとも、一般市民による強力な政治的取組みは目下のところ望み薄なので、そのような考究は机上の空論に近いものでしょうか。

チョムスキー
どのぐらい望み薄なのか、正直のところ、私にはわかりません。ですが、ここで、つい最近の景気後退の際の事情を取り上げてみましょう。その帰結のひとつは、政府が実質的に自動車産業を肩代わりしたということです。
その前にいくつかの選択肢がありました。
ひとつのやり方は、実際に採られたもの-----国民の税金を使い、経営者や重役連を救済し、体制を旧来のものに戻すやり方です。名前は新しくなるかもしれませんが、本質的には同じ組織構造であり、経営陣らに以前と同じこと-----つまり、自動車の製造-----を続けさせる。これがひとつのやり方でした。実際に用いられたやり方です。
これとは別の行き方もありました。システムを労働者に引き渡して民主的な管理・運営をおこない、生産を地域社会の要求にかなうよう再編するやり方です。
私たちにはこれ以上自動車は必要ありません。必要なのは効率的な公共交通機関です。その理由はいろいろあります。北京からカザフスタンに行く場合に、皆さんは高速列車が利用できます。ところが、ボストンからニューヨークに向かう高速列車はありません。インフラが崩壊しつつあります。それは環境に甚大な影響をおよぼします。皆さんの人生の半分は、交通渋滞の中で費やされるということになります。これは市場経済に内在的なものです。市場は消費財に関しては選択肢を提供します-----たとえば、フォードの自動車だとかトヨタの自動車だとか。ところが、自動車かそれともりっぱな公共交通機関かという選択はありません。

上述の選択には、地域社会、連帯、大衆民主主義、市民組織、等々の要素がかかわってきます。ほんの数年前までは、一般公衆のさまざまな勢力がかかわった選択でした。このような選択は、既存の体制にとって代わることのできるものだと思います。そうした展開は実際に起きました。まさにこの近隣で-----私の住むボストン郊外で-----です。
航空機その他の部品を製造している、非常にうまくいっている工場がありました。ところが、所有者である多国籍企業は、収益がもの足りないと判断し、操業を停止する決定をくだしました。進取的な組合は工場の買取りを提案しました。それは悪くない取り引きだったと思います。ですが、会社側は-----主におそらく階級的利益の観点から-----この申し出を却下しました。この地域で、一般市民からの支援がもしあったら、従業員の方々は工場の運営をそのまま引き継ぎ、労働者が所有・経営する事業体としてうまくやっていけたのではないかと私は考えます。
このようなやり方が普及する可能性があります。

私の感覚では、その可能性は十分にあります。これらの行き方の大半は、人々の無意識界のごく浅いところにたたずんでいると思います。これを引き上げねばなりません。ちなみに、この事情は他の多くの問題にも当てはまります。政治・経済のシステムが一般国民の意見にどんなに無頓着か、これを肝に銘じることが大事です。この無頓着さは昔から変わりがありません。
たとえば、バーニー・サンダース氏をめぐってもそうでした。同氏の考え方は過激であり、極論であると見なされています。ところが、実際にきちんと当たってみると、その意見は、長い間国民の意思であったものにほぼ添っています。たとえば、公的医療保険制度です(下の注を参照)。今現在、米国民のおよそ60パーセントがこれを支持しています。ところが、誰もこの制度のために声を上げない。いつも悪く言われるのです。実に驚くべきことです。ふり返ってみれば、昔からこうだったことがわかります。レーガン政権の後期に、国民の約70パーセントが合衆国憲法にこの公的医療保険の定めがあるべきだと考えていました。自然権(下の注を参照)として、です。実際のところ、ほぼ40パーセントの国民が、憲法にすでにその定めがあると思い込んでいました。

(注: ここでの「公的医療保険制度」は、「(国民全員が公的医療保険で保証される)国民皆保険制度」という意味で使用されています。アメリカには、日本のような公的な国民皆保険制度がありません。私企業の提供する保険サービスが主体です。医療保険サービスを受ける権利が基本的な人権として憲法によって規定、保障されてはいません)

(注: 自然権とは、「自然法に基づいて、人間が生まれながらにして持つ権利」(オンライン辞書『英辞朗』)です)

昔から今に至るまで、ずっとこんな具合でした。政治的に不可能だと言われるのです。要するに、金融機関と製薬会社がそれを受け入れようとしない、と。このことは、社会について、けっこうなことを教えてくれます-----国民の意思については聞くまでもありません。他の事柄についても同様です。学費の無料化、富裕層に対する税率引き上げ、などなど、これらは皆、国民が昔から一貫して望んできたことでした。しかし、政策は反対の方向に進みました。もし一般国民の意見が組織化、動員され、さまざまな団体が相互に連携、連帯すれば-----たとえば、組合のように-----、意識界の底面のすぐ下にあるものが生き生きと動き出し、やがてはそれが政策に結実するかもしれません。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
経済における所有権や民主制の問題にきちんと対応することのできる原理もしくはモデルなどに関して、どのような見通しをお持ちでしょうか。労働者を主体としたものでしょうか、あるいは、地域社会に根ざしたものでしょうか。経済は「補完性の原理」(下の注を参照)に基づけばうまく立ち行くのでしょうか。規模の大きい産業についてはどうお考えでしょう。国レベルの戦略を策定するにあたって、さまざまな制度が内包する準則、相反する利害、目標などをどのように均衡させればよいのでしょう。

(注: 決定や自治などをできるかぎり小さい単位でおこない、できないことのみをより大きな単位の団体で補完していくという概念。(中略)補完性原理というのは、基本的には個人や小規模グループのできないことだけを政府がカバーするという考え方である。この考えの基本には「個人の尊厳」があり、国家や政府が個人に奉仕するという考え方がある。補完性原理は個人および個人からなる小グループ(家族、教会、ボランティアグループ)のイニシアティブを重視する。(オンライン辞典『ウィキペディア』より))

チョムスキー
そのような取組みはすべて、並行してのみならず、相互に関連させながら追求するべきでしょう。それによって相乗効果が生じますから。
たとえば、労働者が所有・運営する生産設備が、妥当な予算を有し、民主制がきちんと機能している地域に存在した場合、これらはお互いを支え合いますし、このような例が伝播する可能性があります。それも、めざましいスピードで伝播するかもしれません。今、私が挙げたボストン郊外のような事例が全米各地で発生するかもしれません。このような試みについては、デビッド・エラーマン氏を初めとする人々が長年、探求しています。
皆さんはしょっちゅう出会います-----多国籍企業が、収益を上げている子会社を操業停止にするという例に。その収益は、会社の総収支から見れば、不十分というわけです。しかし、従業員にとっては不満のない仕事場です。このような場合、しばしば、従業員側が会社を買い取り、事業を継続しようとします。ところが、会社側は、おうおうにしてその申し出を拒絶してしまう。単に会社をたたむより利益が得られるのに。それにはちゃんとした理由があるのでしょう。彼らはこのような例がさかんになると考えているのです。うまくいった例があると、当然、追随する者が出てきます。

実は、世界を見渡せば、かなりうまくいっている例があるのです。たとえば、モンドラゴン協同組合のような。決して完璧というわけではありませんが、ここアメリカで、育み、普及させることのできそうなモデルです。一般の人々に受け入れられる魅力があると思います。
ここでちょっと賃金労働について考えてみましょう。たぶん思い起こすのは非常にむずかしいでしょうが、産業革命の初期に、すなわち、19世紀後半にまでさかのぼってみてください。その当時は、賃金労働は結局、奴隷と変わりがないと見なされていました。唯一の違いと言えば、賃金労働は永続的な状態ではないとされていたことだけです。当時の共和党のスローガンには、この賃金労働に関連した表現が用いられました-----すなわち『賃金奴隷状態への反対』です。一体どういうわけで、命令を発する人間がいて、一方にそれを受ける人間がいるなどということになるのでしょうか。それは、要するに、主人と奴隷の関係にほかなりません。たとえ、それが永続的なものではないとしても。

19世紀後半の労働運動をふり返ってみれば、その当時は、労働者所有もしくは労働者主宰のメディアが数多く存在していたことに気づくでしょう。労働者自身が記事を書く新聞が各地にありました。それらの多くは女性たち-----織物工場で働く「ファクトリー・ガール」と呼ばれた女性たち-----が発行していました。賃金労働に対する批判は定番のお題でした。「工場で働く人間が工場を所有すべき」というのが合言葉でした。彼らは、社会の強引な産業化が促進する文化の衰退と劣化に声を上げました。そして、過激な農民運動と連携を図るようになりました。当時の米国はなお農業社会と言ってよかった。農夫たちの集団は、北東部の銀行家や商人たちを排除して自分たちの手で農地を差配したかった。民主主義的な潮流が実に勢いを増した時代でした。労働者が宰領する町もありました-----代表的な工業中心地であるペンシルバニア州のホームステッドのような。これらの多くは力でつぶされました。しかし、くり返し言わせていただきますが、このような民主的な欲求は、表面にごく近いところにたたずんでいて、すぐにでも頭をあらわす可能性を持っています。

『ネクスト・システム・プロジェクト』
あなたの主要な関心事のひとつは帝国主義でした。軍国主義や帝国主義に向かわないような社会の内的特質を生き生きと育む設計原理はどのようなものでしょうか。私たちの地域社会、経済、国内政治に恩恵をもたらす体制的な特性はいかなるものでしょうか。

チョムスキー
くり返しになりますが、基本的には、やはり連帯ということに落ち着くと思います。この場合は国を超えた連帯ですね。具体的な例を挙げてみましょう。「移民危機」と呼ばれている現象があります。中米やメキシコの人々、これらの国の人々がアメリカに逃げてきています。なぜでしょう。われわれが彼らの社会を破壊したからです。彼らはアメリカに住みたがっているわけではありません。故国で暮したいのです。私たちは彼らと連帯して行動すべきです。まずはこれらの人々がアメリカにとどまることをはっきりと許すべきです-----もし、それが、私たち米国民の押しつけた状況から彼らが逃れる術のひとつであるならば。そしてまた、彼ら自身の社会を再構築することを手助けすべきです。
ヨーロッパについても同様です。ヨーロッパには、アフリカから人々が押し寄せています。なぜでしょうか。それを説明するには、数世紀分の歴史をふり返らなければなりません。ヨーロッパの人々には責任があります-----これらの人々を受け入れ、融合を図る、そして、ヨーロッパが破壊した社会、ヨーロッパの富の礎石となっている社会を建て直すのに手を貸すという責任が。

同じ事情は米国自体にも当てはまります。米国自身の富やめぐまれた境遇を考えてみてください。それはかなりの程度、奴隷制に由来しています。歴史上、もっとも過酷、残虐な奴隷制に、です。綿花は「19世紀の石油」でした。綿花こそは、初期の産業革命の動力源でした。そして、アメリカやイギリスなどの国々の富とゆたかな境遇は、アメリカの奴隷たちの、この悲惨な強制労働にきわめて多くを負っています。奴隷たちは、商品製造の生産性を高めるべく、苛烈な拷問を受けました。製造業者はそれによって裕福になりました。当時の主要な製造工場は、その発端が織物工場でした。織物商人とその商取引が米国の金融システムの発展に一役買いました。その影響は今日でも完全には消滅していません。以上は、米国内の問題ですが、それは帝国主義的侵略や破壊と同じ性格を有しています。

たとえば、アフリカです。19世紀後半、西アフリカの一部は日本とほぼ同じような状態でした。しかし、違いがひとつありました。日本は植民地にはならなかったのです。ですから、産業社会のモデルに従って、自身が産業社会の代表的な存在となることができました。西アフリカの場合は、帝国主義的な侵略によって、この行き方が封じられました。
考えてみれば不思議なことに思えるかもしれませんが、たとえば、1820年にさかのぼってみれば、その当時のエジプトとアメリカはきわめて似たような境遇にありました。両国ともゆたかな農業国でした。綿花にめぐまれていました。当時の決定的に重要な資源です。エジプトは成長・富国路線の政府を戴いていました。当時のアメリカのハミルトンを中心とした政治体制と非常に似ています。どちらも新興国です。ただ、違いは、アメリカは帝国主義的支配から脱したことです。エジプトはそれができなかった。イギリスは明確に意思表示していました、地中海東部に独立的な競争国の存在を許すつもりはみじんもない、と。やがて時が経ち、エジプトはエジプトになりました。アメリカはアメリカになりました。現代史の多くはこんな調子です。すべてではありませんが、きわめて多くが、です。

以上の事情は、私たちがきちんと思いをはせるべき事柄です。

帝国主義者の犯罪に対しては、これらの事実を認識すること、それに対する償いをすること、そして、被害者の側と連帯することで応じなければなりません。また、このことは遠い過去の話にとどまりません。ヨーロッパの目下の難民危機を見てください。アフガニスタンやイラクの人々がギリシアの収容所で悲惨な拘禁状態に置かれています。なぜアフガニスタン、イラクの人々なのでしょう。アフガニスタンやイラクで何が起ったのでしょう。
(末尾の注を参照)

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[その他の追加的訳注、補足情報、余談など]

■末尾の文章の

「~。なぜアフガニスタン、イラクの人々なのでしょう。アフガニスタンやイラクで何が起ったのでしょう」

は、チョムスキー氏のいつもの反語、皮肉的表現です。
言葉を補えば、

「~アフガニスタンやイラクで何が起ったのでしょう。むろん、私たち米国民の名の下に、米国政府がこのような事態を生み出したのです」

とでもなるでしょう。


■余談ですが、聞き手の側の『ネクスト・システム・プロジェクト』の質問は、抽象的な言い回しが多く、表現がやや生硬です。しかも、チョムスキー氏に対して一度に複数の問いを投げかけたりしています。
これは、いかにも若者らしい理論先行をあらわしていると同時に、彼らのこのプロジェクトに対する思い入れの深さ、気負いを示すものでしょう。
それに対して、チョムスキー氏は長年の信念と戦略を丁寧に語っていますが、これはひょっとして聞き手の若者たちにとっては、肩すかし、期待はずれに思えたかもしれません。
しかし、チョムスキー氏の言には、自身の経験に裏打ちされた確信と楽天性がうかがえ、平易でありながらも、それなりの力をそなえて読む者にせまってくる-----そう、私には感じられます。読者はいかがでしょうか。


■チョムスキー氏はインタビューの最後の方で、現在の諸問題をもたらしたのは西欧の過去の植民地主義であったことを指摘しています。
以前訳出した文章にも同様のテーマで語っています。こちらもぜひ一読を。

チョムスキー氏語る-----思い出、国境、人類の共有財産
http://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/f864b77fb9c6f848477645fec54edc82


[さらにくわしく探求したい方のために]

■『ネクスト・システム・プロジェクト』は、新しい体制・システムの構築をめざす取組みであると述べましたが、このブログの以前の回でも、これに類するテーマの文章を訳出しました。こちらもぜひ参考に。

・資本主義に代わるシステム
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8fa6.html

・経済の新潮流(とそれを取り上げようとしない大手メディア)
http://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/cea48835b8497cc7c3a0b4d98ef9669e


■文中に名前の出たデビッド・エラーマン氏などの人々の考え方については、以下のサイトが参考になります。

・A.4 アナキズムの主な思想家は誰か? - ZAQ
http://www.hi-net.zaq.ne.jp/jandy/anarchism_faq_a_4.htm

モラルなき金融業界とギリシア危機

2015年08月29日 | 経済

金融業界の腐敗ぶりをうかがわせる元金融マンによる論説です。
直接的なテーマは、目下のギリシアの危機について銀行の責任を問うもの。
しかし、興味深いのは、最初の方で短く言及される、アブナイ金融商品とわかっていて売りつけるそのあくどさを率直に告白している部分。
(日本の企業も被害者となっています)

アメリカの老舗月刊誌『The Atlantic』(アトランティック)誌から採りました。

原題は
Blame the Banks
(銀行を非難せよ)
で、書き手は Chris Arnade(クリス・アーネイド)氏。

原文のサイトはこちら↓
http://www.theatlantic.com/business/archive/2015/07/greece-crisis-banks-greedy/398603/

(なお、原文の掲載期日は7月16日でした)


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Blame the Banks
銀行を非難せよ


ギリシア国民が無謀な借入れのために叱責され、一方、長年それによって懐をうるおしてきた金融機関が無罪放免の様子なのはどうしたわけか

Chris Arnade
クリス・アーネイド

2015年7月16日


私がウォール街で最初に教えられたことのひとつはこうだ。
「誰がマヌケか見極めよ」。
これがキモだった。
もう少し具体的な言い方もある。私は何度もどなられたものだ。
「金を持ったうつけ者は誰かを見極めるんだ。そして、やつらの口にめいっぱい有毒なクソを押し込んでやれ。ただし、まずは丁寧、親切に接することだ」。

私が1993年にソロモン・ブラザーズに入社した頃は、日本の顧客(大部分は中堅の銀行か大手メーカー)が「うつけ者」と考えられていた。
私は最初の5年間を複雑な金融商品の開発についやした。日本の顧客に売るための、会社にとっては利幅の大きい商品だが、ウォール街の隠語では「有毒廃棄物」と呼ばれていたものだ。
これらの日本の顧客は、21世紀をむかえる頃には、その多くが破綻に至った。原因の一部はわれわれが売った「有毒廃棄物」のせいであり、また一部はわれわれ以外の金融会社が売ったやはりトンでもない金融商品のあれこれのせいであった。

欧州統一通貨ユーロの導入は欧州経済に対する信頼感を高めた。そして、われわれウォール街の面々は新たなカモをつかまえることに注力し始めた。それは欧州の銀行、もう少し細かく言うと、欧州北部の銀行のことである。

2002年から2008年の金融危機に至るまでの間、われわれウォール街の人間は、これらの銀行の口に「有毒廃棄物」をこれでもかと言うほど押し込んだ。格別むずかしい話ではなかった。以前の日本の顧客と同様、彼らも世界中から資産を買い入れることに無我夢中で、見境なかった。

彼らはとにかく乗り気で、非常な意欲を有していた。そこで、ウォール街はヘッジ・ファンドに手を貸して、特別あつらえの金融商品を創らせた。サブプライム住宅ローンを土台とした、もっともリスキーで、欠陥をかかえた商品である。銀行はこれらを「バケモノ」と呼び、メディアは後に「破綻必至の商品」と評した。もし思慮分別の欠けた買い手がいなかったら、これらの金融商品はそもそも最初から創られなかったであろう。ところが、欧州の銀行はしばしばまさにそのような買い手だったのである。

銀行は資産を買い入れる場合、お金を融通するのが一般である。資産の売り手は通常、金の借り手なのである。さまざまな資産を買い入れるにあたって、欧州の銀行はいわゆる銀行の通常の仕事-----つまり貸し付け-----をしていた。しかし、それをおこなうにあたって、十分な注意を払わなければ、まさに銀行がやってはならないことをやることになる。いわゆる「無謀融資」である。

欧州の銀行が無謀な融資をおこなったのは米国内だけではなかった。欧州においても彼らは積極的に営業した。たとえば、スペイン、ポルトガル、ギリシアなどの各国政府に向けてである。

2008年に米国の住宅市場が崩壊した際、欧州の銀行は大きな痛手をこうむった。彼らが主として損失を吸収した関係者だった。その後、彼らは欧州に注力するようになるとともに、引き続き欧州の各国政府に融資をおこなった-----つまり、これらの国の国債を買い入れたのである。しかし、それは次第に愚かな行為と見なされ始めていた。欧州南部の国の多くが懸念すべき兆候を示しつつあったからである。


[2010年のギリシア救済は、名目は違うが、あらゆる点で銀行の救済にほかならなかった]

2010年までにこれらの国々のひとつ、ギリシアは、もはや勘定を払うことができなくなった。それまでの10年の間にギリシアは巨額の債務を積み上げていた。原因は、あまりに多くの人々があまりに多くのモノを買い、あまりに少数の国民があまりに少額の税を払うだけの一方で、あまりに多くの腐敗した政治家があまりに多くの口約束をかかげ、これらすべてがいかがわしい会計手法によって粉飾されていたからである。しかし、数々の問題点が明白であるにもかかわらず、銀行家はあいかわらず熱心にギリシアにお金を融通し続けた。

この2010年のギリシア危機は取りあえず国際的な協調による救済のおかげで沈静化した。しかし、ギリシアは厳しい支出抑制を余儀なくさせられた。債務免除は許されず、以前の債務を返済する手助けとしてさらなるお金が貸しつけられたにすぎない。これによって銀行は損失を膨らませずに済んだのだ。名目は違うが、あらゆる点でこれは銀行の救済にほかならなかった。

ギリシアはこの時以来ずっと苦難にあえいできた。経済的な打撃は記録的な規模に達した。その人的コストは漠然としか理解されていない。2012年にも再び救済が必要になった。そしてさらに今週のこの事態である。

ギリシアが苦難にあえいでいる一方で、欧州北部の銀行は、自身の無謀な融資決定について、経済、法あるいは倫理などの面で説明責任をいまだにはたしていない。その上、2010年にギリシアではなく銀行を救済することによって、政治家は将来の損失をギリシアから欧州の一般市民に割り当ててしまった。それは愛国主義的感情に裏打ちされた欺瞞的方策であった。この愛国主義的感情は以来双方の対話のさまたげとなっている。我が方の無思慮な銀行には光をあてるな、彼らの無謀な借入れを問題にせよという調子である。

* * *

欧州連合は当初、崇高な理念を土台に、石炭と鉄鋼に関する経済協定から発進した。それは、少なくとも一面では、以前の戦争の導き手となったナショナリズムを経済的動機の共有によって薄めようとする試みだった。

経済的統合は1999年のユーロ圏の創設により通貨統合の形に結実した。共通通貨ユーロの採用は、しかし、政治的な統合を進めないままおこなわれた。そのため、当時、多くの人々がこれを「馬の前に荷車をつなぐ」(順序が間違っている)進行と評した。

共通通貨の採用とともに各種の規則も大幅に改訂された。それは銀行業界に新たな成長の機会を-----そして「うつけ者」になる危険性も-----もたらした。規則の変更によって、銀行はユーロ圏諸国の国債をすべて平等にあつかうことができるようになった。すなわち、ギリシアは、こと規則に関するかぎり、ドイツと同等のリスクの持ち主と見なされた。

だが、市場はそうは考えなかった。ギリシアは借入れにあたってドイツなどよりも多くのお金を支払わねばならなかった。欧州北部の銀行はぼろもうけを見込んでギリシアへの融資に乗り出した。そして、「同等のリスク」と引き換えに、より高額の報酬をまんまとせしめた。

それは、銀行を核とした自己実現的な増幅回路の始まりだった。欧州南部の国々(とりわけギリシア)は借入れを増やし、その金でモノを買い入れ、それによって経済成長し、それがまた借入れのコストを大幅に押し下げる結果となって、さらに借入れを増やすことにつながり …… という具合だった。

この買い物熱は関係者全員の利益となった-----とりわけ欧州北部の国々にとっては。南部諸国はインフラが整備され、モノが豊かになり活況を呈した。北部諸国は南部諸国に売りつける商品を工場が矢つぎばやに生産して好況だった。その中間には銀行が陣取って首尾よく利ざやをかせいだ。

この増幅回路は欧州に特有の性質のものだった。それは共通通貨がもたらす誤った安定感に基づいていた。EU加盟国がデフォルトするはずがないという銀行家の素朴な信仰はこれによって強化された。

増幅過程はくり返され、とうとうギリシアの積み上げた債務の膨大さが市場の無視できぬ規模に達した。市場はすでに米国の住宅危機の衝撃を経ていたのでたちまち懸念が広がった。このため、ギリシアの借入れコストは上昇せずにはいない。欧州の各銀行は、中途でやめるにはすでにあまりに深く足をつっ込んでおり、依然融資には前向きであったが、欧州外の銀行は二の足を踏んだ。

2010年になるともはやこれ以上の事態の継続は不可能となった。市場はギリシアへの新たな融資を拒絶し、救済が不可避となった。


[欧州南部の債務国が苦しんでいるのは彼ら自身の無能力と怠惰と強欲のせいだという言説が流布]

ところが、救済で重点が置かれたのは、ギリシアではなく銀行を救うことであった。ギリシアの債務の一部を免除し、銀行に損失を負わせることはおこなわれず、ギリシアは今後も勘定を払い続けることになった。以前の勘定を清算するために新たな資金を提供したのは各種の公的機関だった(すなわち、欧州委員会、IMF、欧州中央銀行である)。かくして、銀行はたいした手傷を負わずに済んだ。新たな融資の大部分はギリシアを経由してこれらの銀行に渡ったのである。欧州北部の銀行を救うための「パイプ」役を演じることと引き換えに、ギリシアはこれまでのやり方を改めるよう求められた。支出を抑えよ、増税せよ、公的部門を再編せよ、等々 …… 。

これらの手法はうまくいかなかった。ギリシアはいよいよ深刻な不況に陥った。2年後には再び支払いに窮し、新たな救済が必要になった。今度ばかりは債務が免除された。約40パーセントの減免である。しかし、それまでには銀行は損失のリスクをはるかに減らしていた。融資の多くはすでに満期をむかえ完済されていたのである。

2010年の、あの最初のこっそりした銀行救済劇では、欧州南部の債務国が苦しんでいるのは彼ら自身の無能力と怠惰と強欲のせいだという言説が持ち出され、後押しされた。銀行はこれをてこに自分たちが頑是ない子供に接するうろたえた親という役どころを演じることができた。

この言説は、将来の損失をギリシアから欧州-----主に欧州北部-----の一般市民に受け渡すことにより、さらに助勢され、政治的に利用された。「我ら対彼ら」という対立的な心情が掻き立てられた。それはナショナリズム-----あらゆる点で共通通貨が表象すると考えられているものの正反対-----の装いをした施策であった。

なにゆえ2010年にギリシアではなく銀行が救済されたのか。なにゆえギリシアが従来の行き方を改めるよう求められ、無謀な借入れを非難されたのか-----銀行は無謀な貸し付けを責められないまま。

その理由のひとつはこう説明される。EUはかかる危機を克服するために必要な緊密な結びつきを構築するに至っておらず、規制当局間の協力体制も整っていなかった、と。もっと声高にとなえられる理由は、欧州の銀行があまりに脆弱であり、それでいながら、不可欠な存在であるために、損失を引き受けさせるのは無理であったというものだ。もし無理に引き受けさせると、損失は欧州全土に波及し、他の銀行、他の国々も壊滅させ、最終的にはユーロ圏が崩壊してしまうとされた。

また、さらにこうも言う。銀行は経済の運営、経済の健全性にとってあまりに中核的な存在であるため、いかに軽率にふるまっていたとしても、損失を負わせて罰することはむずかしい。これが、危機の最中に、銀行の救済を正当化し、借り手ではなく貸し手に有利な取り計らいを正当化するためにとなえられた説明である。実に説得力のある論だ。なぜなら、確かにそれは真実であるから。

だからこそ、それは、そもそも銀行が厳しく規制されねばならぬという主張のもっとも強力で正当な根拠となっていたのである。まさにこの手の軽率、無謀なふるまいを抑止しなければ、やがては国や経済をめちゃくちゃにしてしまう。

* * *

政治家や規制当局、銀行家は銀行破綻の直接的なコストは計算することができる。しかし、破綻後の長期に渡る人的コストを見極めることはできない。

現在、ギリシアは1930年代の米国をしのぐ景気悪化のために大きな苦しみを嘗めている。貧困率、ホームレス人口、自殺者数、薬物等の依存者数-----これらはいずれも増大した。ひとつの世代が、自分たちの現在が縮小し、未来がさらに一段と縮小するのに立ち会っている。

これは、昔からくり返されてきた気の滅入るパターンである。貸し手と借り手が衝突した場合、非難されるのは決まって借り手であり、苦しみを嘗めるのも決まって借り手なのだ。


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[補足と余談など]

■経済や金融に詳しくないので、誤訳または不適切な表現があると思います。詳しい方のご指摘を歓迎します。


■筆者の Chris Arnade(クリス・アーネイド)氏は、あくどい金融業界に愛想をつかしたのか、今では会社を辞め、フリーのカメラマンになっている様子。
ネットで検索すると、以下のサイトにアーネイド氏の名前が登場します。

http://www.terrafor.net/news_oigpsw5epa.html

(なお、アーネイド氏が1993年に入社したソロモン・ブラザーズは、買収や合併を経て、現在はシティグループに吸収されています)


■第2段落に書かれているように、金融マンは自分たちのあつかっている金融商品がアブナイものであることを承知しながら売りつけていたわけです。
そして、平然と
「これらの日本の顧客は、21世紀をむかえる頃には、その多くが破綻に至った。~」
と書く。

私は「金融マンとは、背広を着、ネクタイを締めた詐欺師ではないか」という疑念を抱いていましたが、今回の文章でひとつの確証が得られました(笑)

世界的な雇用の危機

2014年11月14日 | 経済

今回は久しぶりに経済関連です。

書き手は今回で2回目の登場となる Jack Rasmus(ジャック・ラスマス)氏。

現在の世界経済の問題をわかりやすく展望してくれました。

後半は著名な経済学者たちに対する批判も出てきます。
(この文章では個人名は挙がっていませんが、クルーグマン氏やスティグリッツ氏なども当然含まれているでしょう。ラスマス氏の他のコラムでは個人名を出して批判しています)


タイトルは
The Global Jobs Crisis, Inequality, & the ‘Ghost’ of Keynes
(世界的な雇用の危機、格差、ケインズの「亡霊」)


原文はこちら
http://www.telesurtv.net/english/opinion/The-Global-Jobs-Crisis-Inequality--the-Ghost-of-Keynes-20140922-0014.html

(なお、原文の掲載期日は9月23日でした)


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The Global Jobs Crisis, Inequality, & the ‘Ghost’ of Keynes
世界的な雇用の危機、格差、ケインズの「亡霊」



By Jack Rasmus
ジャック・ラスマス

初出: teleSUR English

2014年9月23日

経済学者は所得格差を示すデータを特定する一方で、この根本的原因についてはこれまでのところ寡黙である。雇用をめぐる危機についてはなおさら。


最近、資本主義を代表する3つの国際的な機関が「雇用をめぐる世界的な危機」の高まりを分析した報告書を発表した。すなわち、世界銀行、OECD(経済協力開発機構)、ILO(国際労働機関)の3つであり、これらはいずれも同じ結論に到達している。そして、その後、オーストラリアで開催されたG20サミットにおいて、雇用労働大臣らがこの結論をめぐり共同声明を出した。その結論とは、「世界の主要経済先進国は十分な雇用の創出に失敗しており、一方で、創出されつつある雇用はその多くが『雇用の質』が低く、世界経済の成長にとって意味ある貢献を果たすことができない」(フィナンシャル・タイムズ紙2014年9月10日付け)というものだ。世界銀行で雇用問題を担当する上級ディレクターの言葉を借りれば、「世界的な雇用の危機が発生していることはほとんど疑い得ない」。

これら3つの報告書は、欧州、北米、日本などの先進経済圏を覆って次第に姿を明確にしつつある潮流を指摘している。すなわち、完全失業が長期に渡り増大しつつあるだけでなく、若年層の失業と慢性的な長期失業の割合が高まっている。また、同時に、総労働力に占めるパート・タイムと臨時的な雇用の率も急激に上昇している。


今日の雇用の危機の諸相

完全失業のうちに占める長期失業の割合は、2008年の経済危機の前には5分の1程度であったが、今日ではおよそ3分の1にまで上昇している。長期失業は50才以上の人間に多く見られる傾向がある。したがって、先進経済国の雇用市場では「両端」、つまり、若年層と高齢者層において事態が悪化しつつあると考えられる。若年層の失業は先進経済諸国のすべてで増え続け、軒並み記録的な率に達している。一方、中間の24才から55才に収まる層の人間はどうかと言えば、彼らの見つけられる仕事は「雇用の質の低い」パート・タイムや臨時の職、あるいは、「非正規」の請負い仕事であって、いずれも給与水準がずっと低く、諸手当が限られ、労働法の庇護から大きく外れた、継続的雇用の保障がほとんどない類いの仕事である。

先進経済国のうち、特にアメリカでは、さらに雇用に関する4番目の大きな問題が生じつつある。おそらく、今後、他の先進経済国にも波及すると見られる問題である。すなわち、2007年以来、約800万人の米国人が労働市場から完全に「身を退いて」しまった。ところが、米国では、雇用や失業の定義とその算出方法に不備があり、彼らは失業者や不完全就業者の勘定には入っていない。

若年層失業の増大、長期失業の慢性化、通常の雇用が可能な層においてさえの非正規の雇用の増大、何百万もの人間の正規就業の放棄-----これらは、先進経済諸国の労働市場と経済に明らかにおかしなところがあり、それが悪化の一途をたどり、次第に構造的、慢性的な趣きを呈しつつあるということである。巷間これは「ニュー・ノーマル(新たな常態)」と呼ばれている。そして、「ニュー・ノーマル」とは、要するに、「われわれ(政策当局)はそれについて何もできない、またはするつもりがない、だからそれを甘受して生きる術を身につけたまえ」ということなのだ。

ここで指摘しておくべき重要な点は、上記の3組織が発表した世界的な「雇用をめぐる危機」は、同時に世界的な「賃金をめぐる危機」でもあるという事情である。


21世紀資本主義の賃金戦略

もし人が先進経済諸国における今日の賃金の下落を、政府当局が計上する狭い観点からだけではなく階級の観点から眺めてみれば、状況はひどく深刻であることがわかるだろう。
目下何百万という人々が職を失っており、これらの人々は賃金をまったく得ていないが、このことは賃金下落の総計データに反映されるべきであるにもかかわらず、政府の出す数字には登場しない。報告書に挙げられるのは就業者の賃金動向のみである。しかも、それさえ正社員のものに限定されている。正規の雇用に数えられない何百万の人々-----パート・タイム、臨時、請負い契約などの形態で働く人々-----の給与水準は低い。それは、労働者階級の受け取る賃金総額を一層少なくすることになる。また、正規の雇用から「身を退いて」しまった何百万の人々-----その一部は「闇経済」にかかわり、低い給与水準もしくは不定期の収入で働いている-----も、やはりこの労働者階級の賃金総額を少なくする事情に寄与している。
退職給付や医療給付を削減すること、あるいは、現就業者に対するこれらの給付のための経費を上昇させることも、形を変えた「賃金削減」の手法に他ならない。
これに加え、あからさまな「賃金横奪」の事例が増加し、問題となっている。特にこれがめだつのは米国のサービス部門であり、たとえば、雇用主が給与計算で小細工を弄して、労働者から賃金の一部を掠め取っている事例が拡大している。
また、インフレを許容し、最低賃金法による購買力を削ぐ方向に働く施策が採られている。最低賃金法における引き上げは以前ほど頻繁に行なわれないし、引き上げ幅も大きくない。
以上の問題点でさえまだすべてではない。
労働者のための年金制度を完全に崩壊するがままにしてしまう。従業員は自分の年金のために長年に渡って賃金の一部を拠出するが、それがすべて無に帰するのである。これは「繰り延べされた」賃金削減の一種である。
話はまだ終らない。
賃金や収入の低下にともない、労働者は基本的な費用をまかなうにもクレジットや借入れに頼ることをますます余儀なくされる。これもまた賃金総額の下落につながる。目下の借入れや利息支払いの約束は、まだ支払われていない「未来の」賃金を差し押さえてしまう。このようにして銀行とクレジットカード会社は、労働者に過重な借金やクレジットを背負わせることで、彼らがまだ手に入れてもいない賃金を略取する。労働者は、これに対して、ほかに資金源を持ち合わせていないので、ほとんどなす術がない。

このように21世紀のグローバルな資本主義はこれまでのところ賃金の削減に向けて多様な手口を進化させてきた。しかし、勤労者世帯の賃金総額の下落にもっとも寄与し、もっとも強烈な打撃となったのは、何百万もの失業者の慢性的増大であり、「非正規」の職(パート・タイム、臨時、請負い契約などの形態)と「雇用の質の低い」職の割合の増加、および、多数が余儀なくされた、不定期的、臨時で、かつ給与水準がきわめて低い等の問題をかかえる「闇経済」への依存である。


恐るべき三幅対: 雇用、賃金、格差

上記の3機関による報告書によれば、この世界的な雇用をめぐる危機はまた、可処分所得と個人消費の低下にもつながっている。そして、それは所得格差が拡大する傾向を大幅に後押ししている。
したがって、雇用をめぐる危機の意味するところは、賃金総額の下落にとどまらず、階級間の所得格差の拡大にまでおよんでいる。

米国だけ見ても、労働者階級の世帯平均所得は実質ベース(インフレの影響を調整)で8パーセント以上も低下している。この率には、2009年以来のいわゆる「景気回復」と称される期間の4パーセントの低下が含まれている。2009年以来、企業の収益は記録的な好調さを示し、最裕福層の1パーセントは国全体の総所得に占める自分たちの割合が米国史上未聞の22パーセントにまで拡大するのを目撃した。ところが、労働者の世帯所得はその「景気回復」の最中でさえ下落し続けた。下落は2007年以降の景気低迷期にだけ見られるのではない。それよりずっと前、2000年から、いや、さらに1980年代前半にまでさかのぼることができる。

アメリカだけに限らず、先進経済諸国全体で、この雇用の荒廃、賃金の下落、所得の格差という3幅対の問題が深刻になっている。そのため、資本主義に与する大手メディアと資本家自身が近年この傾向と問題に懸念を示し始めている。そして、今や、この3つの問題を議論することは「差し障りがない」情勢になったので、主流派の経済学者たちもまた、「所得格差」のテーマにまっこうから飛びつき、それについておおいに論じることとなった。

しかし、経済学者たちは、所得格差を示すデータを特定する一方で、その根本的な原因についてはこれまでのところあまり発言していない。この3幅対の問題のかなめとも言える雇用の危機についてはいよいよ口をつぐんでいる。彼らは問題の深刻さは認識しているものの、その土台、淵源についてはほとんど説明してくれない。とりわけ、まっとうな代価の得られる職を十分に創出できない事情における根本的な「階級ベース」の性質についてはまず言及しない。彼らが口にすることと言えば、自分たちの領分をせまく限って、表面的な税制改革を要求すること(税制は原因そのものではなく、所得移転を可能にする仕組みにすぎないのに)、企業の上層幹部の法外な報酬を引き下げる施策もしくは最低賃金を改定する案を提示すること、等々にすぎない。この最低賃金の改定は、賃金水準が最低の層にとっては多少の恩恵となるが、その他の何億という労働者にとっての雇用不足や賃金下落の危機に関して解決策となるわけではない。


ジョン・メイナード・ケインズの「亡霊」

21世紀の資本主義の「アキレス腱」は、持続的に良質の雇用を創出できないこと、そしてその結果、賃金水準が停滞すること、所得格差が拡大することである。しかし、完全雇用の実現不可能および所得格差の拡大傾向という「システム上の弱点」は、すでに何十年も前から経済学者のジョン・メイナード・ケインズが洞察していたことであった。1935年に上梓された『一般理論』の終わりの方でケインズが締めくくりとして述べた言葉は引用されることがきわめてまれである。しかし、彼は簡潔にこう記している。


「私たちが生きているこの経済社会の目覚しい欠陥は、完全雇用を提供できないこと、および、富と収入が恣意的、不平等に配分されることである」


もちろん、ケインズをあまりにありがたがるのは避けるべきだ。彼が主張しようとしたことの大方は、1930年代の世界的不況に対する処方箋を提示すること、「資本主義を救う」ことであった。ケインズが雇用創出の不十分性と所得格差を、近代資本主義経済における2つの内在的弱点と考えたのは当を得ていた。しかし、3つ目の大きな問題がおのずから解消すると考えたのは誤りであった。その問題とは、「金利生活者」(下の訳注を参照)の増加、および、彼らがくり返しシステム全体の安定を揺るがす傾向である。今日では、彼らは「金融投機家」、「国際的金融特権階級」(こちらは私の表現)などと呼ばれている。1935年の画期的著作『一般理論』において、ケインズは彼らについてたった1章しか割いておらず(第12章)、踏み込んで考察することもなかった。そして、締めくくりとなる第24章ではこう述べている。「『金利生活者資本主義』は移行的な段階にすぎず、やがて消え去ることになろう」と。ケインズは「金利生活者-----機能を喪失した投資家-----の安楽死」を求めたが、それへの道行きは漸進的なものであり、「革命は必要ない」と信じていた。むろん、彼はまちがっていた。

(訳注: 原文は rentier capitalists です。
経済学に関する文章では、「金利生活者」ではなく「利子生活者」としているものもあります。
ここで訳語として選んだ「金利生活者」は、
「所有する貨幣資産・不動産を貸付け・出資などによって提供しながら、みずからは企業活動や生産活動に直接参加せず、もっぱら貸付け・出資といった金銭的な活動から得られる利子・配当収入で暮らす人々をさす」(世界大百科事典 第2版)
という定義とほぼ同じイメージで使っています。
また、rentier には「不労所得生活者」という訳語を当てている辞書もあります)


近年の歴史が証しているように、「機能を喪失した投資家」-----すなわち、金利生活者、金融投機家-----は経済的にも政治的にもますます力を得、その影響力を増している。彼らのひいきの金融機関である世界的な「影の銀行」(下の訳注を参照)は、今では70兆ドル以上の運用可能資産をあつかっている。これは、従来の世界的大銀行があつかう額をはるかに超えている。国際的な資産家階級の中の、次第に覇権を握りつつあるこの投資家の一団は、世界規模の金融危機を誘発し悪化させるという点で、マイナスの影響力を強め、今日、資本主義という体制そのものを揺るがせている。

(訳注: 「影の銀行(shadow bank)」は、伝統的、厳密な意味での銀行とは違いますが、似たような機能を発揮する存在で、投資銀行(証券会社)、ヘッジファンド、証券化のための特殊な運用会社、年金基金などの業態を総称して言います。金融当局の規制がほぼ適用外で、実態が正確に把握されていないためにこう呼ばれます)


ここで言っておくべきは、現代の大半の資本主義擁護者、先進経済諸国で経済政策策定にたずさわる政治家、圧倒的多数の経済学者たちが、ケインズの見解をしかるべく深刻に受けとめなかったことである。とりわけ、その雇用や格差に関する見解、および、金利生活者の脅威的な役割に関する見解がなおざりにされた。

このことは今日あまりにも明らかである。先進経済諸国の政治家と彼らを支える大企業は、ケインズ派の景気刺激策をおおよそ拒否し続けている。つまり、社会福祉制度やインフラへの政府支出、また、必要とあれば失業者を政府が直接雇用する手法などを、である。今日の先進経済諸国における政策策定者が代わりにひいきにするのは、緊縮財政政策と赤字削減策を併用しながら、中央銀行から民間銀行へ何十兆ドルという資金を無利子で提供すること(金融緩和とゼロ金利)、および、大企業に対して減税の形でさらに何兆ドルも得をさせることである。

これら主流派の経済学者たちは、資本主義経済に関するケインズのこの根本的な負の側面の指摘にほとんど関心を払わなかった。人は、彼らの理論や経済モデルの中に、現代資本主義のこの変貌しつつある金融構造とその影響をめぐる説明を見出すのにひどく苦労するにちがいない。彼らは要するに金融を理解していないのだ(一方、それは金融を講ずる教授連が経済学を理解していないのと同断だと言う声もある)。

今日の先進経済諸国で「ケインズ派」というレッテル貼りを受け入れる経済学者たちでさえ、ケインズの著作から自分にとって都合のいい一節を拝借するだけである。つまり、資本主義体制における景気変動は制御可能であると示唆する部分を、だ。彼らはその際、ケインズ以前の経済理論に手をのばし、それをケインズにおける「差し障りのない」部分と接ぎ木する。減税と低金利は景気振興に役立つというのが彼らの主張である。ケインズ自身は明らかにこれらの効果について明確な立場を取っていないにもかかわらず。彼らの主張は要するにいわば「ケインズ主義の非嫡出子」であり、「雑種ケインズ主義」である。今日、みずからをケインズ派と称するリベラル派経済学者が信奉しているのは、この流儀である。しかし、先進経済諸国におけるこれまで6年間の銀行に対する超低金利と企業に対する莫大な減税額をふり返ってみよう。この2つのいずれも、自立的景気回復と多少でも呼べるものを生み出すことはまったくできなかったのだ。

先進経済諸国における経済学者のもうひとつの流派は「回帰古典派」とでも呼べるかもしれない。彼らはケインズの推奨する社会的支出さえ認めず、必要なのはただ事業者により潤沢に資金を備えさせること、事業のコストをより低減することだと唱える。言い換えれば、より低い金利や税率であり、また、現在共通認識となりつつある労働市場の「改革」(これは、組合つぶしと労働者の交渉力の圧殺を意味する婉曲表現にすぎない)を通じてのコスト削減であり、賃金総額の縮小である。ビジネスのコストを下げよ、さすれば、彼らは次に投資に向かうであろうというリクツである。ところがどっこい、ビジネスのコスト削減が雇用と成長につながるというのは神話にすぎない。2000年以来の世界の現実がいやと言うほどその反証を示してくれる。回帰古典派の「解決策」がもたらしたのは、先進経済諸国の企業が2008年以来低コストで生み出した記録的収益を株主に還元するという展開であった。それは、巨額の株式の買い戻し、記録的な配当金の支払い、企業の合併・買収のための支出などの形をとり、なお残余の大金は社内に留保された。このお金さえ彼らは現在、国際的な「タックス・インバージョン」(訳注: 低税率国への本拠地移転)の手法によりますます秘蔵するようになっている。

これら2つの流派が自分たちの主張を魅力的にするためのセリフは、その施策が最終的に雇用の創出につながるというものだ。「雑種」派の主張は、より多くの実入りを世帯に得させよ(その手法、形態は特に問わない)、さすれば、それは消費につながり、結局は企業の投資と雇用に帰着するとする。「回帰」派は、実入りの増大は直接企業に向けておこなうべきだ、それが雇用の創出につながると唱える。これら2つの主張のいずれでも、雇用が登場するのは説明の最後である。より多くの実入りをどこに向けるかという最初の問いの「結果」としてである。どちらの派も雇用を解決策の出発点として考えてはいない。そして、その実入りの増大は、世帯に対する助成や所得移転の形を通したものであろうと、企業に対して減税やゼロ金利、公的資金の緊急的注入、各種のコスト削減策などを通したものであろうと、決して実際の雇用創出に結実しなかった。彼らは、従来はそれは経済の他の領域にまで影響をおよぼしたのだと弁明した。いわゆる「トリクル・ダウン」理論である。しかし、今日では、「トリクル・ダウン」(滴り落ち、浸透すること)さえ見られない。間をおいて「ポタポタ落ちる」ことさえほとんどない。雇用創出の蛇口は事実上閉められてしまった。資本主義の「雇用の泉」は干上がりつつある。


格差の解決策: 労働者階級の雇用と対立的な金利生活者

先進経済諸国における主流派の経済学者は、上のいずれの派であろうと、現在の世界経済に全般的、持続的な回復が生まれないことを説明する理論を提出できない。が、これは不思議でも何でもない。資本主義を擁護する各国政府の政治家や政策策定者および中央銀行の職員もやはりそれができないでいるが、これもまた不思議ではない。経済学者も政治家も、上述の3つの報告書が指摘した、今日の世界的な雇用の危機という根源的な問題に正面から取り組んでいない、あるいは、取り組もうとしないからである。しかし、この問題にぶつからずには、今後も賃金や格差の問題は深刻化するばかりである。格差の問題は特にそうだ。それは、雇用や賃金の停滞によるだけではなく、ケインズの言う「金利生活者」、「機能を喪失した投資家」によっていよいよ悪化させられる。彼らは、労働者階級の雇用や賃金、収入が低迷もしくは低下する潮流の中で、自分たち以外の人間を踏み台にして、世界の所得に占める自分たちの割合をますます高めるであろう。ケインズの予想に反することであるが、「金利生活者」という名の金融資産家の「安楽死」には、まさしく革命が必要なのかもしれない。


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[補足など]

経済の専門家ではないので、誤訳または表現の不適切なところがあるかと思います。ご指摘を歓迎します。


■訳文中のケインズの考え方については、以下のサイトが参考になります。

ケインズの経済思想 - 東北学院大学
www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2013/pdf/no11_02.pdf

特に参考になると思われる文章を一部下に引用させていただきます。
(こちらでは「金利生活者」ではなく「利子生活者」という訳語が使われていますが)

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なお、『一般理論』においては、利子生活者、企業者、労働者という三階級で構成される資本主義社会が想定されている。ケインズは、当時のイギリスにおける株式会社の発達に伴う「所有と経営の分離」という現象を踏まえつつ、資産階級を利子生活者と企業者という、利害を異にするグループに二分した。
-----
ケインズは、混合経済体制を志向し、自由放任の資本主義と国家社会主義との両面を批判した。ケインズによれば、効率と自由を保持しながら、失業問題と、富と所得における分配の不平等という二つの病弊を治療することは、混合経済体制の実現によって可能となる。問題解決のためには、政治体制において「なんら革命を必要としない」。
-----
ケインズは、利子生活者、すなわち「機能を喪失した投資家」の安楽死を提唱した。それは、「なんら革命を必要としない」変化の過程である。彼は、「人間本性を変革する仕事とそれを統御する仕事とを混同してはならない」という人間観の持ち主であった。

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クルーグマン批判

2013年06月07日 | 経済

ノーベル経済学賞受賞者であるポール・クルーグマン教授はニューヨーク・タイムズ紙の人気コラムニストでもあり、日本でもよく知られています。
今回は、しかし、そういう人気の高いクルーグマン氏を批判する文章を取り上げてみました。
(ただし、批判のほこ先は、クルーグマン氏ひとりではなく、自由貿易を礼賛してきた著名な経済学者、エコノミスト、識者一般に向けられています)

タイトルは、
Why Was Paul Krugman So Wrong?
(ポール・クルーグマンはなぜこれほど間違ったのか?)

筆者は William Greider(ウィリアム・グレイダー)氏。
掲載元はオンライン・マガジンの The Nation(『ネーション』誌)です。

原文はこちら↓
http://www.thenation.com/article/173593/why-was-paul-krugman-so-wrong

(なお、原文の掲載期日は4月1日でした)


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Why Was Paul Krugman So Wrong?
ポール・クルーグマンはなぜこれほど間違ったのか?

William Greider
ウィリアム・グレイダー

2013年4月1日


人気コラムニストでノーベル経済学賞受賞者でもあるポール・クルーグマン氏は、過日、自分のことを、イラク戦争と当時の好戦的な世論に抵抗した英雄的な造反者になぞらえた。政治エリートの戦争支持の声が懐疑論者を圧倒し、悲劇につながったと主張した。クルーグマン教授は、経済をめぐる重要な論争に関しても、あきらかにこれと同様の役割を自分が果たしていると考えている。

「イラク戦争の失態からわれわれが学ぶべきことは、常に疑いを持つこと、権威と考えられているものを決して信用しないことだ」。クルーグマン氏はこうニューヨーク・タイムズ紙のコラムに書いた。「戦争であれ金融引き締め政策であれ、それを『誰もが』支持していると聞かされたら、こう疑ってみるべきだ-----『誰もが』というのは、異なった意見を表明する人間を除外しての話なのではないか、と」。

もっともな忠告であり、クルーグマン氏はそれを口にするのにふさわしい人物だ。しかし、この忠告には少しばかり困ったキズがある。クルーグマン氏自身が「権威と考えられている」存在だからだ。そして、自由貿易とグローバル化をどのように考えるかについて米国民をひどくあやまった方向に導いた張本人なのである。経済的損失と混乱の脅威が米国に積み上がる中で、クルーグマン氏のはたした役割は、ヴォルテール作の『カンディード』に登場するパングロス博士であった。心配はないと皆にふれまわったのである。グローバル化の暗黒面をうんぬんするやからなど気にかけるな、とクルーグマン氏は言い放った。経済理論によると、自由貿易は-----パングロス博士の言い方を拝借すれば-----すべてのあり得る世界の中のこの最善の世界における、すべてのあり得る政策の中の最善の政策である、というわけである。

クルーグマン氏の主張は、しかし、大多数の米国人の信じるところとはならなかった-----とりわけ、労働者層は。彼らは自分たちの仕事や中流層の所得がグローバル化した生産手法によって大幅に減少する事態に接した。大きな構図が見えていないとクルーグマン氏は反論した。高学歴の専門家ら-----グローバル化による首切りのおそれには無縁の人間たち-----は、クルーグマン氏の見解に賛同する者が多かった。広範な一般大衆を納得させることはできなかったが、同氏の主張は重要な領域では大勢を占めた。すなわち、政府の政策決定に影響力をふるう政治エリートたちの間で。民主党、共和党双方、および、レーガンからオバマに至る歴代大統領も皆、この自由貿易主義の路線を信奉した。つまり、国際競争において米国の多国籍企業を後押しした。これらの企業の成功が米国の他の人々すべてをひき上げることにつながると主張して。

ところが、おおざっぱに言えば、起こったのはこれと反対のことであった-----労働者層にとってだけでなく、米国経済全般にとっても。多国籍企業は上々の成果をあげたが、米国自体は莫大で永続的な貿易赤字に深くはまり込み、アジアや欧州の貿易相手国に巨額の対外債務を積み上げ、それが米国の雇用と賃金に対する持続的な下方圧力となっている。それでもオバマ政権はなお処方箋として自由貿易協定の締結をめざして邁進している。目下の議会における財政論議でも、自由貿易をともなうグローバル化が米国経済の衰退の元凶であるという認識はうかがえない。

政治エリートたちもクルーグマン氏と同様に批判者にまったく取りあわなかった。自由貿易は米国にとって善である、なぜなら、最終的に勝利をおさめるのは米国の活力と無限の創造力だからであり、このことは歴史が証明している。そう繰り返しとなえるだけであった。労働組合などの反対者は、クルーグマン氏の言い方を借りれば「偽装された保護主義」を推進している退嬰的なラダイト(訳注: 機械化に反対した19世紀初頭の英国の労働者の一群)であると嘲笑されるのが一般であった。このレッテル貼りは大手メディアの報道をひるませた。もっとも権威のある新聞でさえ、記者と編集者がそろって、自由貿易の「常識」に対する実のある批判を無視した。深く追求するにはおよばずと言うのである。30年が経過してもなお自由貿易に対する反対論は立派な人々の間では口にしてはならない話題のままだ。

もちろん、クルーグマン氏ひとりを非難するのはフェアではない。影響力を有する経済学者のうちで、同氏は反対者をさげすむ視線のこき下ろしにもっともあざやかな才を示した人物であろう。だが、その考え方は、経済学にたずさわる人間が多数共有し、政府当局の政策に深く浸透している標準的なものにすぎない。失敗はマクロ経済学に帰せられる。この学問は今ではもうボロボロだ。金融危機と悪化する米国経済によって、その理論が将来の予測も過去の状況の説明も満足にはたせないことが明瞭になったのである。

しかし、失敗に終わった教義は依然として堂々と座の中央にいすわっている。なお政府の政策を牛耳り、米国をさらに大きな問題が待ちかまえる将来へと導きつつある。われわれは澄みきった目と斬新な思考で再出発することができない-----クルーグマン氏のような権威のある著名人があやまちを認めようとしないかぎり。すなわち、米国経済の退潮がまさに自分たちの説いてきた自由貿易主義によって主にもたらされたということを率直に認めようとしないかぎり。米国は南アフリカの『真実と和解委員会』と同種のものを必要としている。祖国をあやまった方向に導いた人間が進み出て、罪を認め、釈明する場である。新しい世代の経済学者は、経済の新理論を構築するにあたって、まずこう問うてみるのがいいだろう、「クルーグマンはなぜこれほど間違ったのか」、と。

世界の経済システムがほころびを示しているにもかかわらず、最近、クルーグマン氏は国際貿易に関する理論に言及することが少なくなった。もともとそれが同氏のお得意の分野であったのだが。これは、財政均衡を求める保守的な共和党勢力に怒りをぶつけるのに忙しかったせいである。しかし、長年の間、クルーグマン氏がみずからの務めとしてやってきたのは、経済の専門家ではない人間があやまった考え方を流布することに対して、一般大衆に警告を発するという役目だった。これは、実質上ほとんど、グローバル化を批判する進歩的な書き手をこき下ろすことだった。リベラル派や労働組合的な観点から、雇用の海外流出、停滞する賃金水準、労働搾取的工場、等々を問題として取り上げた書き手たちである。

クルーグマン氏は、その冷笑的な論争スタイルによって反対者の間では悪名高かった。私の古い友だちであり、リベラル派の書き手のひとりが昔打ち明けてくれたことがある。自分はクルーグマン氏の痛烈な書評をまぬがれるために近々出版される予定の自分の書籍に「ワクチンをほどこしておいた」、と。つまり、書籍の中であらかじめクルーグマン氏を攻撃しておいた。そうすることによって、慣習的にその書評の候補者リストからクルーグマン氏の名前がはずされるのだ。

代わりにクルーグマン氏がかみついたのは私の新刊本『One World, Ready or Not: The Manic Logic of Global Capitalism』だった。同氏によると、この書は「つくづく愚かな本」である。そして、書評でネチネチとした攻撃を展開した。最初は、マイクロソフト社のオンライン・マガジン『スレート』で攻撃し、次にワシントン・ポスト紙に手厳しい書評を載せ、最後はクルーグマン氏自身の著作『グローバル経済を動かす愚かな人々』でこき下ろした。認めざるを得ないが、クルーグマン氏の筆では、私はまさによだれをたらした白痴そのもののように描かれている。

ここで議論をむし返そうとは思わない。しかし、私のこの著作はクルーグマン氏のような権威者をいら立たせることになった。というのも、私が、自分の調査から、世界の枠組みは「大きな痛みをともなう破局」と最終的な崩壊に向けて驀進していると結論づけたからである。私の主張のキモはこうだ-----現行の世界の貿易体制は、富を創出する圧倒的な能力は有するものの、あまりに速いスピードで新製品を生み出し続けている、それをあがなう資力を持った新しい消費者を生み出すよりもはるかに速いスピードで生み出し続けている、いずれこの枠組みの中の誰かが工場のいくつかを閉鎖せざるを得なくなるだろう …… 。米国は世界の過剰な生産力に対して実質的に「最後の買い手」の役割をせおった。毎年、国内で生産する以上のモノを海外から購入し、海外から金を借りた。その結果が、貿易赤字であり、莫大な負債であり、そして、格差の拡大につながった。これらはオバマ政権の下でも歩みを止めなかった。


* * *

当時、クルーグマン氏は貿易赤字の問題を重く見てはいなかった。労働組合が自分たちに有利なように騒ぎ立てている、あるいは私のような人間による寝ぼけた立論であるとして取りあわなかった。ロバート・カトナー氏のような批判者や『エコノミック・ポリシー・インスティテュート』などの意見にもつきあわなかった。「低賃金経済国からの輸入が米国の生活水準におよぼす脅威について明けても暮れても警告のドラムを叩き続けている」と非難した。未来は暗いという予想を嘆いてみせた。

1994年にクルーグマン氏は『ハーバード・ビジネス・レビュー』誌にこう書いている。「ところが、実際のところは、第三世界との競争がもたらす経済的影響についての懸念はほとんど正当な理由がない」。続けて、「低賃金国の経済成長は、原理的に、高賃金国の一人当たりの所得を低めるのと同程度にそれを高める可能性がある。実際の影響は無視してさしつかえない程度のものだ」。

「なぜこれほど多くの頭のいい人々がこんなあやまった考えに取りつかれているのか」とクルーグマン氏は疑問を呈する。同氏の説明によれば、それは、国家間の所得や雇用、貿易、投資には複雑なフィードバックの関係があり、経済の専門家でないかぎり理解するのが困難だからだ、ということになる。「すでに常識になっていてほしかったことだが」とクルーグマン氏は前置きして、こう述べる。「第三世界が先進国の問題をひき起こしているという一見もっともらしい説は、理論的根拠に基づくと疑わしいし、データを基にするとまったく考えにくい」。

しかし、低賃金国が先進国と同様に生産性を大幅に高めることに成功したら一体どうなるだろうか。クルーグマン氏はこう答える。「これらの新興国はチップひとつ当たりの賃金が上昇することになるだろう。話はそれでおしまい。もともとの高賃金国の実質賃金にはなんの影響ももたらさないだろう、いい影響であろうと悪い影響であろうと」。

いずれにしても、クルーグマン氏は貧しい国々がハイテク製品を生み出すようになる可能性に疑念を抱いている。「おそらく結末は、ハイテク製品の製造がもっぱら北半球(先進工業国)でおこなわれ、ローテク製品のそれは南半球(低賃金の途上国)に限られ、その中間の製品のいくらかは両方の地域で作られる、ということになるだろう」と同氏は書いている。

では、米国その他の先進国から低賃金国へと大幅に資本が流入した場合はどうなるだろう。 それは、労働組合がおそれるように、米国の賃金を押し下げる結果をもたらさないだろうか。「短期的にはその通り。ただし、これは理論上の話であって、実際にはそうならない」とクルーグマン氏は確約する。「教科書に載るような正統的な経済理論では、北半球から南半球への国際的な資本の移動が北側の賃金を押し下げる可能性について一応ふれています。しかし、1990年以降、実際に起こった資本の移動による影響はきわめて小さく、多くの人々が懸念したような深刻なものではありません」。

自分が提示した問いに対するクルーグマン氏の自信満々の回答は、結局のところ、大部分が間違っていた。その後の現実がそれを証明している。また、教科書が載せる理論も同様に多くの場合間違いとなった。クルーグマン氏のもっとも大きなあやまりは、賃金がその国の生産性の上昇と常に手をたずさえて上がるという主張であろう。それはたしかに長い間米国が経てきたパターンであった。が、同氏は、グローバル化によって米国企業がこのような結びつきから解放されたことをしかと認識してはいらっしゃらなかったようである。現在では、多国籍企業、いや、それほどの規模ではない企業でさえ、米国の労働コストが負担と見るや、低賃金国に生産拠点を移すことができる、もしくは、そうプレッシャーをかけることができる。私が取材する中で知ったことだが、現場の労働者たちは、この力関係の変化を、守旧派の経済学者よりもずっと前に察知していた。

にもかかわらず、クルーグマン氏はあくまで標準的な理論にこだわった。同氏はこう書いている。「一部の読者には受け入れがたいかもしれない主張の最後のひとつは、賃金が生産性の上昇と並行して上がるというものだ。これは本当だろうか。しかり。経済の歴史を閲してみると、長期の生産性の上昇を経験した国で、実質賃金がほぼ同程度に上昇しなかった国はひとつも見出せない」。

ところが、現実には、クルーグマン氏がこう書いているまさにその頃から、米国の産業労働者の賃金は旧来のパターンから逸脱し始めていた。つまり、生産性の上昇のカーブにつき従わなくなったのである。時間当たりの賃金は、日本からの輸入製品が米国市場に浸透し始めた1970年代初期から実質ベースでほぼ横ばい、もしくは下落を示している。米国の賃金水準はかつて世界に冠たるものであったのに。


* * *

2007年頃になると、事実があまりに歴然とし、無視しようがなくなったので、クルーグマン氏や他の経済学者らは自分たちの結論を修正せざるを得なくなった。「低賃金国との競争によって米国の賃金水準が押し下げられているという懸念は、理論と事実の双方で実質的な根拠を有している」。ニューヨーク・タイムズ紙のコラムでクルーグマン氏はそう認めた。結局のところ、労働組合の主張は正しかったように思われる。「そういうわけで、グローバル化には暗黒面が存在する」と同氏は書きつけた。しかし、今回ばかりは、みずからの問いに対する答え方に強気な姿勢は影をひそめてしまった。「これへの対処法は一体なんだろう。議論が貿易政策に限定されているかぎり、答えがあるようには思われない」。

クルーグマン氏の数々の発言には、米国のエリートたちの間で当時よく見られた慢心や急速に台頭しつつある貧しい国々に対するはっきりした優越感をうかがうことができるかもしれない。著名な外交専門誌『フォーリン・アフェアーズ』に同氏が『アジアの奇跡という幻想』と題する文章を発表したことはよく知られている。日本や「アジアの虎」と呼ばれる国々をめぐる懸念はクルーグマン氏に冷戦時代のスプートニク打ち上げ後の半狂乱状態を思い出させた。米国の指導者たちは、当時、突如としてソビエトが大国アメリカに追いつきつつあると思い込んだのである。

「アジアの急成長に関する広範な熱狂には多少冷水が浴びせられてしかるべきだ」。クルーグマン氏はそう語る。「これらの国々の将来の見通しは、大部分の人々が現在想像しているほど豊かな可能性を蔵してはいない」。ジェームズ・ファローズ氏のような書き手もクルーグマン氏は切って捨てた。ファローズ氏も経済に関する素人であり、資本主義経済は技術上の優位性を着実にうしないつつあると論じた。これに対してクルーグマン氏はこう応じている。「たとえ大前提は正しいとしても、この見方には概念上重大な問題点がいろいろある」。

中国が別格の存在であり、日本よりも大きな脅威であることはクルーグマン氏も認める-----たとえそれが巨大なサイズ(12億という人口)に由来するだけのことであったとしても。それでもクルーグマン氏は懐疑的だ。「中国が急激な成長を遂げていることはわれわれも承知している。が、それを証する数値の信頼性はひどく低い」と同氏は警告する。「外国投資に関する中国の統計値は6倍も過大に報告されている」。

クルーグマン氏がこういう風に中国を見くびっていた頃、たまたま私は世界経済をめぐる自分の著作の調査のためにかの地にいた。あちこちの巨大な工場や労働搾取的できたならしい作業場を訪問するとともに、労働者、経営者、高名な経済学者、等々に話を聞いた。口数が少なく、とらえどころのない日本人とちがって、中国の成長を指揮している共産党の高官たちは、自分たちの野心についてすこぶるあけっぴろげだった。1990年代初頭に中国政府は産業政策に関する一連の文書を公にした。その中では、自動車や航空機、鉄鋼その他技術的に高度な製品に関して世界的な生産者・輸出国になるという政府の思わくが部門ごとに堂々と論じられている。これらの青写真は大方が達成され、しかも、そのスピードは誰もが予想するより速かった。

私が北京にいた時、街には米国のビジネスマンが数多く見受けられた。ゼネラル・モーターズ、ボーイング、IBMその他の米国有数のメーカーの人間である。彼らは中国で製品を作り、中国の消費者にそれを売るべく交渉していた。世界中の多国籍企業が、来るべき将来に世界一の消費者市場となるであろうこの中国に参入しようと殺到していた。中国政府の要求する参入の代価は、国内の企業と提携して貴重な技術を共有するよううながすものであった。つまり、まだ揺籃期の中国企業に米国や欧州の一流企業と張りあえるような製品の製造技術を身につけさせよというわけである。

クルーグマン氏と同様に欧米の一部の企業幹部も、中国の壮大な目標については当初懐疑的であった。しかし、資本家は遅れをとることをおそれて殺到し、中国側の条件を受け入れた。私は中国から帰る道々、かの国で進行中のすさまじい変貌に対する驚嘆の念と同時に、米国の労働者の将来について多少の懸念をおぼえた。「人間は、世界のいかなる場所であろうと、能力をそなえている」。これが私の結論的な感慨だった。自分たちの内なる優秀性をいまだ信じている米国人はいささかの謙虚さをこれからまなぶことになるだろう …… 。

米国の問題は貿易理論ではなく自己欺瞞である。米国がこれまでそうであったように世界のリーダーとして最終的に勝利するという傲慢な自信である。米国の指導者は当然のように思っていた、第二次大戦以降そうであったように、自分たちが新しい世界の枠組みを決定し、他の国々は遅かれ早かれそれにしたがわざるを得なくなる、と。つまり、他の国々は管理貿易という国家戦略を捨て、自由市場と自由貿易という米国の価値体系を受け入れる、と。米国の多国籍企業は、ワシントンとウォール街で自分たちの戦略を思うままに設計することができた-----当局の意思に束縛されず、しかし、もちろん、公的資金の後押しを得ながら。

困ったことに、各国は米国の意向に沿うことを拒否した。途上国は、それが可能な場合は、自分たち自身の国家主義的な戦略を追求した。それは19世紀に米国が産業を発展させたのとほぼ同様のやり方だった。そして、これらの新興国はめざましい成功を収めた-----まず日本が、それから「アジアの虎」が、そして今や中国とインド、その他数多くの国々が。予測を大幅にはずしたクルーグマンその他の権威者らは、今や醜悪な保護主義-----すべての人々に大きなダメージをもたらすであろう保護主義-----のほかはアメリカに選択肢がないと語る。

この主張もまたあやまっている。米国の自己欺瞞がもっとも浮き彫りになるのはアジアではなく欧州に対してである。国が自国の産業体制を戦略的に運営すると同時に国際的な貿易にしっかりと参画することが可能なことを示す最良の手本はドイツに見出せるのだから。技術的に高度な製品を輸出し、巨額の貿易黒字を計上するドイツの例は、米国の旧来の貿易理論とマクロ経済学が教える教義を打ち負かすものだ。ドイツは労務関係と社会保障にかかわる目標達成基準を高く設定している。国の産業基盤に関する目標では、一部の製品製造が海外にまかされることを受け入れている。しかし、産業の「核」-----好ましい職、高い賃金水準、技術的発明-----は国内にとどまるよう企業が努めることが求められている。

米国民はこのような行き方を採用するよう政治を動かすことができるだろうか。想像するだけでも大胆不敵な所業のように思われる。しかしながら、組合労働者の一部はこれと似たような政策を何十年も進言してきた。そして、大抵は両党の政治家から無視されてきた。だから、この路線が採用されるには一般公衆の考え方が大きく変化しなければならないだろう。創意に富んだ経済学者が政策形成にどのように貢献できるかが重要となるだろう。私は、クルーグマン氏その他の経済学者が、悪材料が無視できぬほど深刻になったとき、名乗りを上げてくれるものと思っていた。私はもう待つことにうんざりしているのだ。


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[補足、余談など]

念のために言っておくと、私は別にクルーグマン氏に批判的であるわけではありません。クルーグマン氏は日本でも人気が高く、ネットには同氏のブログまたはコラムを翻訳したサイトが複数見つかります。そういう圧倒的な人気ですから、逆に、たまには批判的な文章を紹介するのも意味がなくはないと思った次第。

■この文章の批判に対してはクルーグマン氏の方もいろいろ言い分があると思います。
しかし、米国の一般庶民の恨みは深いかもしれません。
この文章の背後からは、「おエラい経済学者はあれこれ理窟を持ち出すが、一体いつになったらこの苦境から脱出できるのか」という怨嗟の声が聞こえてくるようです。

■この筆者によると、マクロ経済学がダメだということのようですが、そもそも資本主義自体の是非がふたたび今世界で問われつつあるようです。
昨年は、ネットで「資本主義」と「社会主義」のペアを検索した件数が大幅に増えたとの記事をどこかで読みました。

資本主義に対抗するような地域住民の活動などについては以前のブログでも紹介しました↓

資本主義に代わるシステム
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8fa6.html


また、そういった動きを大手メディアが取り上げようとしないことについての文章は↓

経済の新潮流(とそれを取り上げようとしない大手メディア)
http://blog.goo.ne.jp/kimahon/e/cea48835b8497cc7c3a0b4d98ef9669e


経済の新潮流(とそれを取り上げようとしない大手メディア)

2012年12月28日 | 経済

前の、7月11日のブログ「資本主義に代わるシステム」
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8fa6.html

の前書きで、

「現在、かなりの人々が現行の資本主義のあり方に疑問を抱いている様子。
そこで、資本主義を克服する試みがさまざまな形で現れています。」

と書きました。

今回は、その補足といえる内容です。
経済もしくはビジネスの新しい形態についてふれ、それらをあまり取り上げようとしない大手メディアの傾向が批判されています。

筆者は、Gar Alperovitz(ガー・アルペロビッツ)氏と Keane Bhatt(キーン・バット)氏。
掲載元は、例によって、オンライン・マガジンの AlterNet(オルターネット誌)です。

タイトルは
Revealed: Wall Street Journal More Interested in Caviar and Foie Gras Than Employee-owned Firms
(真実の姿があらわに:
ウォール・ストリート・ジャーナルの関心は、従業員所有会社よりもキャビアやフォイグラ)


原文はこちら↓
http://www.alternet.org/economy/revealed-wall-street-journal-more-interested-caviar-and-foie-gras-employee-owned-firms

(なお、原文の掲載期日は12月3日です。また、原文サイトに埋め込まれている図表は省略しています)


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Revealed: Wall Street Journal More Interested in Caviar and Foie Gras Than Employee-owned Firms
真実の姿があらわに:
ウォール・ストリート・ジャーナルの関心は、従業員所有会社よりもキャビアやフォイグラ

経済の既存体制に対する大胆な挑戦が報道をひるませる

2012年12月3日


国民の苦難、環境悪化に対する憤り、深刻な経済状況を打開できない旧来の政治手法の無力さ-----これらが誘因となって、とんでもなく大量の現実的で現場対応型の制度的実験や革新が続々と登場している。その担い手は、全米各地の改革運動家や経済学者、社会問題に関心がある地域社会のビジネスリーダーたちだ。

大規模で民主的な「新経済」がアメリカ全土で徐々に姿を整えつつある。が、しかし、一般国民はそれについてほとんど知らない。というのも、わが国のメディアが、成長しつつあるこれらの制度や手法を報じようとはしないからだ。

たとえば、アメリカで発行部数のもっとも多い新聞であるウォール・ストリート・ジャーナル紙を取り上げてみよう。2012年の1月から11月の同紙の記事を精査してみると、キャビアについて言及した回数が、従業員所有会社(employee-owned firms)についてふれた回数の10倍にのぼった。この従業員所有会社というのは、成長しつつあるビジネス形態で、8000億ドル超の資産と1000万人の従業員オーナーを擁する。1000万といえば、民間部門の組合メンバーよりおよそ300万多い数字だ。

(図表は省略)

また、労働者所有(Worker ownership)という形態(もっとも一般的なものは従業員持ち株制度)については、ほんの5つの記事で登場したにすぎない。これと対照的に、競馬など、馬に関する話は60以上の記事で取り上げられた。ゴルフ・クラブについては132の記事にのぼる。

国連は2012年を「国際協同組合年」と定めた。協同組合(co-operatives)は今日、世界で10億人以上のメンバーをほこる組織である。ところが、これについてもやはりウォール・ストリート・ジャーナル紙の報道はわずかだ。アメリカでは1億2000万人を超える人々が生活協同組合(コープ)や協同信用金庫に参加している。これはミューチュアル・ファンドの保有者より約3000万人多い勘定だ。しかし、ウォール・ストリート・ジャーナル紙は、1月から11月までの間、ミューチュアル・ファンドには約700の記事を割り当てたが、コープという言葉が出る記事はたった183だけであった。しかも、これらの記事のうち、大半はニューヨークの高級不動産をめぐるものであった。つまり、見出しが「高額の共同住宅(コープ・マンション)にひきあいが殺到」といったものだ。

全米各地の膨大な数の協同事業については、70の記事で論じられている。しかし、協同組合に関する実質的な内容の記事は14しかない。全部で14ということは、同じ期間に登場したシャンペン・ブランドのドンペリニヨンにふれた記事の13回をどうやらしのぐだけである。フランス料理の華であるフォイグラに言及した記事は40であって、こちらは大差だ。

(図表は省略)

協同組合のほかに、民主化されたた経済組織としては非営利団体である地域社会開発法人(Community Development Corporation、略称CDC)があげられる。その数は全米で約4500にのぼり、あらゆる地域で活動している。このような地域社会と密着した近隣法人(neighborhood corporations)が、低価格の住宅を供給したり、年間数十万平方メートルもの商業用地や工業用地の開発にたずさわったりしている。ところが、ウォール・ストリート・ジャーナル紙がCDCに言及した記事は2012年にはまったく見当たらない。過去28年のうちでも43回しかない。1年に2回以下の頻度である。一方、chateau(大邸宅)という単語はその30倍の頻度で現れ、luxury apartments(高級マンション)という語になると300倍の頻度で登場した。

(図表は省略)

予想されるように、経済の民主化を後押しする、この拡大しつつある「新しい経済の潮流」自体、ニュースとして報道されることがきわめて少ない。一般市民の参画がさまざまなレベルで増大しているにもかかわらず、である。昨年一年をふり返っても、労働者所有会社や協同組合、公共銀行(public banking)、非営利・公的土地信託制度、近隣法人などをテーマとした集会が、全米レベルや州レベルで開かれ、参加希望者が定員を超す人気ぶりであった。これらの事業形態や制度に対する関心の高まりが示された形である。けれども、ウォール・ストリート・ジャーナル紙はこれらの動向にほとんど紙面を割かない。

そのほかにも、何千と創意に富んだ試み-----環境関連ビジネス、地域福祉にたずさわる人々の協働的取り組み、等々-----が国内の至るところで実践されている。が、ニュースに取り上げられることはほとんどない。それらの試みのいくつかは、州や地域という「民主主義の実験室」において現実的な叩き台を構築するものと理解されている。そして、政治的な機が熟したとき、地域レベルもしくは全米レベルで採用されることになるかもしれない。例をあげると、オハイオ州のクリーブランドでは、きわめて貧しい、黒人が大勢を占める地域に、先端的な労働者所有会社が共同事業体を形成し、発展している。このスタイルは、モンドラゴン協同組合企業の枠組みにならったものだ。モンドラゴン協同組合企業とは、スペイン北部に本拠を置き、労働者がオーナーである協同組合の躍動的なネットワークである。8万人超のメンバーと何十億ドルという歳入をほこっている。

また、長い歴史を有するノースダコタ州立銀行の例にならって公共銀行を創設しようとする法案が、2010年以来、20の州で提出されている。ロサンゼルスやカンザスシティ等のいくつかの都市では、「責任を果たす銀行」令("responsible banking" ordinances)を可決した。これは、地域社会に対する影響をあきらかにするよう銀行に求めたり、地域社会の要求に応えようとする銀行だけと取引することを地方当局に義務づけるものだ。しかし、これら銀行に道義的責任を負わせようとする地方の取り組みも、ウォール・ストリート・ジャーナル紙はなんら関心がないように思われる。一方で、同紙は、オバマ大統領の出生証明書をめぐるやくたいもない記事を今年7つも掲載したが。

(図表は省略)

報道の少なさは、個別のビジネスに関しても同様だ。レクリエーショナル・イクイップメント・インク(Recreational Equipment, Inc.、略称REI)といえば、2011年には18億ドルの売上げを計上した、きわめて好調な消費者協同組合である。1億6500万ドルの利益をあげ、470万人の有効会員と1万1000人の従業員に恩恵をもたらしている。また、オーガニックバレー(Organic Valley)は、ウィスコンシン州に本拠をかまえる、酪農家による協同組合で、約1700人の農業者オーナーを擁し、7億ドル超の売上げをほこる。しかし、ウォール・ストリート・ジャーナル紙が今年1月から10月までの間で、ほんのちょっとでもREIにふれた記事を掲載したのは、たった3度にすぎない。オーガニックバレーの方はわずか1度である。REIとオーガニックバレーの登場回数をあわせても、愛玩犬のキャバリア・キングチャールズ・スパニエルと同じ頻度-----つまり、年に4度-----になるにすぎない。

報道に関する姿勢をより鮮明に示してくれるのは、いわゆる「ホットな話題」のあつかい方、および、経済的重要性はより高いが「ホットな話題」に属さないものの冷遇である。米国の協同組合は5000億ドル超の年間売上げを計上する。一方、スマートフォンの世界市場は、ブルームバーグ・インダストリーズの試算によれば、2190億ドルと、その半分以下の規模である。おまけに、協同組合のメンバーはスマートフォン・ユーザーより2000万人も多い。ところが、今年1月から10月までの間に、ウォール・ストリート・ジャーナル紙で「スマートフォン」という語をふくむ記事は1000以上にのぼった。協同組合に言及した記事の5倍以上である(その記事の多くは、実際は、すでに述べたように、マンハッタンの高級マンションをめぐるものだ)。

これらウォール・ストリート・ジャーナル紙の紙版の記事の分析は、メリーランド大学の『デモクラシー・コラボレーティブ』が、オンライン・データベースの『プロクエスト』を利用しておこなったものである。本文章では、ウォール・ストリート・ジャーナル紙に焦点をしぼった。経済とビジネスにかかわるニュースを提供する米国の代表的な報道機関だからである。しかし、暫定的な検討においても、他の米国メディアが、この急拡大している「新経済」に同じくわずかの報道スペースしか当てていないことが示された。これによって、メディアにおける報道の機会拡大の必要性があらためて浮き彫りになった。なぜそれが必要かといえば、これらの新潮流が、より民主化された、持続可能で、地域社会に根ざした経済を構築するのにカギとなるからである。


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[訳注と補足と余談など]

■最初に述べましたが、今回の内容については、以前のブログ「資本主義に代わるシステム」とその「続き」もぜひご覧ください。
(筆者のガー・アルペロビッツ氏と『デモクラシー・コラボレーティブ』についても簡単な説明があります)

http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-8fa6.html

http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-2aca.html


■用語と訳語について。
原文中のいくつかの単語は、新しい現象を扱っていますからまだ日本語の定訳はないようです。
そのいくつかについて、補足しておきます。

・Employee-owned Firms
「従業員所有会社」としましたが、「従業員所有企業」とするサイトもあります。どちらでもかまわないでしょう。


・Community Development Corporation (略称CDC)
「地域社会開発法人」としましたが、「地域開発組合」、「コミュニティ開発法人」、「地域共同開発組合」という表現もありました。

その活動内容については、こちらのサイトが参考になります↓

CDC地域開発
http://www5d.biglobe.ne.jp/~okabe/kiji/cdc.html

アメリカにおける非営利ビジネスの展開
http://staff.aichi-toho.ac.jp/okabe/ronbun/usnpbus.html


・neighborhood corporation
検索すると「近隣住区法人」としているサイトがありました。が、「近隣住区」はあまり聞き慣れない日本語のように感じます。音韻的にも耳障りのような気がします。それで、私の訳文では「近隣法人」としました。「地域社会法人」という訳でもいいかもしれません。


・public banking や nonprofit and public land trusts、“responsible banking” ordinances などについては、ネットでざっと検索したところ、わかりやすく説明してくれているサイトは見当たりませんでした。それぞれ、「公共銀行」、「非営利・公的土地信託制度」、「「責任を果たす銀行」令」と暫定的な訳をあたえておきました。


■Mondragon Corporation(モンドラゴン協同組合企業)については、ウィキペディアのほかに以下のサイトが参考になります↓

モンドラゴン協同組合企業体――アリスメンディアリエタの思想を中心に――
http://www.ritsumei.ac.jp/~yamai/8kisei/yamamoto.pdf


■Recreational Equipment, Inc. (REI)(レクリエーショナル・イクイップメント・インク)については、以下のサイトが参考になります↓

REI(Recreational Equipment Inc.)の研究
http://www.urban.ne.jp/home/take/rei.htm


■今回の文章から浮かび上がってくるウォール・ストリート・ジャーナル紙の想定する主要読者は、

・マンハッタンの高級マンションへの投資またはその購入を考えている
・ミューチュアル・ファンドなどの投資信託の保有者
・趣味は乗馬か競馬、ゴルフなど
・キャビアやフォイグラ、高級ワインなどに関心のあるグルメである
・ペットにキャバリア・キングチャールズ・スパニエルを飼っている
・もちろん、スマートフォンを活用

という感じですかね(笑)
会社経営者や幹部、銀行家、資産家ですね。

訴求対象となる想定購読者や広告主のために記事傾向がゆがむ点については、それにふれた文章を以前のブログでも訳出しました↓

忘れられた労働者階級と現代ジャーナリズムの変質
http://cocologshu.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-54eb.html