ここだけの話

人には言えない心の底を暴露します

目をつむれば精神は花園に遊ぶことができる

2011年12月18日 15時02分32秒 | 日記
【今回(東日本大震災)のような文明を引っくり返すような大きなストレスに対し、
悲観的な捉え方をする専門家もいます。

けれども日本人は第二次大戦を経験し、広島・長崎の被爆を経験し、
その中から立ち上がっていったわけでしょう。
だから僕はそれほど悲観的になる必要もないし、
人間はそんなに柔なものじゃない、強かなものだと思っているんです。
それが我々のように実存分析を学ぼうとする人間の最も根底にある考え方です。
要するに楽観主義の精神ですね。


フランクル先生ご自身の生き様もそうでして、彼がアウシュビッツ収容所で家族全員を殺され、いつガス室に行けと言われるかもしれない中を生き抜けたのは、基本的に楽観主義者だったということ。

逆に悲観的な人は死んでいったということでしょう。

例えば何月何日に米軍が救出に来るという噂が流れる。
皆いよいよ助かるかもしれないと心がざわめく。
ところがその日が来ても何も起こらなかった時、ガクッときてバタバタと人が死んでいった。
ところがフランクル先生はそんな期待はしていません。
例えばこんなエピソードがあります。
彼が収容所の中で何かミスをやった。
それを見ていたナチスの将校が彼の頬を思い切りぶん殴ったんです。
その拍子に眼鏡が吹っ飛んで地面に落ち、レンズが割れてしまった。
その割れた眼鏡を拾い上げながら彼は思った。
「もしここを出られて収容所体験を本にできたら、この割れた眼鏡を表紙にしよう」と。
だから彼の初版本の表紙には、その割れた眼鏡の絵が使われているんですよ。
とにかくそのくらいに彼は楽観的で強かだった。


またアウシュビッツでチフスに罹った先生は高熱を発しました。
本人は医者だから自分の予後が分かる。

今夜もし寝てしまったら、私は明日の朝、死体になっているだろう、と。
だから自分の足をつねりながら、眠らないようにしていたというんです。

一方、頭の中では何を考えていたかというと、自分は米軍に救出されてウィーンへ帰る。

そして『一精神医学者の収容所体験』という本を書き上げ、それが世界的なベストセラーになってカーネギーホールに呼ばれると考えた。
そのホールを埋め尽くす聴衆を前に講演を終わり、大喝采を受けている自分の姿を想像していたというんです(笑)。
今夜死ぬかもしれないという、その最中にですよ。


         (中略)


たとえいかなる極限状況に置かれても、人間の心は自由だと。
目をつむれば精神は花園に遊ぶことができるとフランクルは述べていますが、そのとおりですよね。
確かに妄想かもしれませんが、最後の瞬間まで諦めず希望にしがみつくことが大事だと思うんです。】





このように考えれる人ははたして何人いるでしょうかね。
私は極めて諦めの早い人間です。
年を重ねるごとに悲しみが増えるのなら早く逝きたいとさえ思う58歳の弱虫です。





苦悩は人生の肥やしとなる

2011年12月07日 09時12分54秒 | 日記
3歳で右目を、9歳で左目を失明。18歳で聴力も失い、全盲ろうになった福島智氏。

過酷な運命を自らの生きる力へと変え、障害学の分野に新たな地平を拓いてきた氏に、人生における修業の意味を問う。



【 「苦悩は人生の肥やしとなる」
       
       
            福島智氏(東京大学先端科学技術研究センター教授)
        
            
【記者:ご自身では障害や苦悩の意味をどのように捉えていますか】



障害を持ったことで、私は障害者のことを
少しは考えるようになりました。

やはり何がしかの関係を持ったこと、
広い意味での当事者になったことが
その大きなきっかけになりました。

また、自分にとっての苦悩は他者との
コミュニケーションが断絶されることでしたが、
これも実際に体験してみて初めて分かったことでした。

苦悩を体験することの凄さは、
苦悩の一つのパターンが理屈抜きに分かること。

もう一つは、苦悩する人たちが抱えているものを
想像しやすくなるということですね。

挫折や失敗をすることはしんどいし、
できるだけ避けたいけれど、
おそらくほとんどの人が人生のどこかでそれを経験する。

いくら避けようとしても必ず何がしかのものはやってくる。
だから来た時にね、


“これはこれで肥やしになる”


と思えばいいんですよ。

私が子供の時代には、まだ日本にも
たくさんあった肥溜めは、
臭いし皆が避けちゃうけれど、
それが肥やしとなって作物を育てた。

一見無駄なものや嫌われているものが、
実は凄く大切なことに繋がるということでしょう。
これは自然界の一つの法則だと思います。


       * *


同じようなことをアウシュビッツの収容所を生き抜いた
フランクルが述べています。

彼はいつ死ぬかも分からないという極限状況の中でも、
苦悩には意味があると感じていたようですが、
それは彼一人だけの思いではなかった。

あの過酷な状況下で、自分以外の他者のために
心を砕く人がいたように、ぎりぎりの局面で
人間の本質の美しさが現れてくる時がある。

もちろんその逆に、本質的な残酷さや醜さを
見せることもありますが、
人間はその両方を持っているわけですよね。

おそらく彼は苦悩をどう受け止めるかというところに、
人の真価、人間としての本当の価値が
試されていると考えたんじゃないかと思うんです。

苦悩というフィルターをかけることで、
その人の本質が見えてくると。


フランクルの主張で最も共感を覚えるのは、
その人が何かを発明したり、
能力が優れているから価値があるということよりも、
その人が生きる上でどんな対応をするか。

苦悩や死やその他諸々の困難に
毅然と立ち向かうことが最高度の価値を持つ、
といった趣旨のことを述べている点です。

したがって、障害を持ったことや病気をしたこと自体に
意味があるのではなく、それをどう捉えるかということ。

身体的な機能不全を経験することも、
それ自体に大きな意味があるんじゃなく、
それを通してその人が自分自身や他者、
あるいは社会、あるいは生きるということを
どのように見るかが問われているのだと思います。】