歴声庵

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平山優著:『天正壬午の乱~本能寺の変と東国戦国史~』

2011年03月23日 21時01分36秒 | 読書

 天正壬午の乱についての初の研究書ではないかと思われます。従来、徳川家康・北条氏政・上杉景勝公の三勢力による、「武田遺領争奪戦」との認識が強かった天正壬午の乱を、単に三勢力や有名な真田昌幸だけではなく、その他の甲斐・信濃の国人衆の動向も交えて詳しく説明してくれている力作です。また後進の者が後追い研究をし易いように、根拠となる史料も都度紹介してくれるなど、天正壬午の乱を調べる者にとっては必須の著書となるでしょう。

 過去に天正壬午の乱について詳しく書かれた物としては、雑誌『歴史群像』の2002年10月号に書かれた記事が真っ先に浮かぶのですが、そのタイトルが武田遺領争奪戦だったとおり、今まで天正壬午の乱については本能寺の変後の旧武田領を、徳川・北条・上杉の三勢力が巡って争ったと言う認識が強かったと思います。これに対して本書は、まず本能寺の変後滝川一益・森長可・毛利秀頼当の織田家の家臣達が上野・信濃脱出を試みる過程で、野・信濃の国人衆の人質を織田家から預かった木曽義昌が影響力を持ち、初期の天正壬午の乱では木曽義昌がキーパーソンだったと読める記述は新鮮でした。どうしても甲斐の旧武田家臣の多くが粛清されている事から、信濃もあまり国人衆の影響力はなかったと思っていたのですが、本書には甲斐以外の国人衆に関しては、むしろ信長は保護する政策を取ったので、これら信濃の国人衆の影響力は決して少なくなかったと言う本書の記述は、天正壬午の乱を三勢力による武田遺領争奪戦と言う単純な味方してなかった身としては驚きの記述でした。
 三勢力の内、家康が(甲斐の)武田遺臣を保護したと言うのは有名ですが、依田信蕃を除けばそれほど大身の者は居ないと思っていましたが、曽根昌世や岡部元信など有力家臣が意外と無事であり、それらの有力家臣を用いて家康が多くの武田家遺臣を取り込んだのが、家康の躍進の原動力になったと言うのは、やはり氏政や景勝公と比べると家康の方が一枚上手だったと言うのを再認識しました。
 そして何より驚いたのが、家康が信長亡き後の織田政権から了承を得た上で甲斐・信濃に侵攻したと言う事です。正直今までは「旧武田領をほんの数ヶ月前に織田領に編入された地域なので、織田家もあまり気にしてなかったので、家康がどさくさにまぎれて奪取した」との認識を漠然としていました。しかし本書を読むと、家康が信長亡き後の織田政権(清洲体制)の許可を得て、甲斐・信濃に侵攻していたと言うのが説明されており、この天正壬午の乱についての認識を改めないといけないと思う程の衝撃を受けました。「天正壬午の乱は、織田領国防衛を名目とした徳川家康が「織田政権」の合意と支援を受けて北条氏と対決した側面が強かったと言える。それを基盤に、家康がやがて独立大名として勢力を拡大したのは結果であって、甲信侵攻と制圧の名目は別であった」と著者の言葉は、これまでの天正壬午の乱に対しての認識に一石を投じるものではないでしょうか。

 このように本書は、従来「徳川・北条・上杉の三勢力による武田遺領争奪戦」との認識が強かった天正壬午の乱を、どれだけ旧武田勢力を取り込むかで勝敗が分かれた戦いであり、家康は織田政権の承認を得て甲斐・信濃に侵攻したと言う従来とは異なる視点で描いており、しかもそのれを都度史料を示して説明してくれるので、非常に説得力がある内容になっています。俗な言葉ですが、今後天正壬午の乱の研究が進むとしたら、本書はエポックメーキングと言える著書になるのではないでしょうか。
 また個人的な感想ですが、私は真田昌幸の事を正直過大評価されていると思っていたのですが、この天正壬午の乱でも最終的には真田昌幸の動向により勝敗が決した(昌幸が徳川に属した事により、北条家の補給線が分断された)と説明されているのを読んで、自分の誤った認識を改めました。


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