歴声庵

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甲斐:小山城址

2012年06月03日 20時29分14秒 | 登城記・史跡訪問


小山城址遠景。

 甲斐小山城は甲府盆地の南部に位置する、鎌倉街道沿いに在った城です。甲斐内の城と言っても、信玄の父である武田信虎の時代に廃城同然になっており、信玄・勝頼の時代には歴史の表舞台に出る事はありませんでした。そんな小山城が再び歴史の表舞台に出るのは、武田勝頼が織田信長によって滅ぼされ、その信長も武田家が亡んだ三ヶ月後に本能寺で横死した事によって発生した天正壬午の乱の事です。
 当時甲斐には徳川家康と北条氏直がそれぞれ出兵して、同じ七里岩台地上に位置する新府城(徳川)と若神子城(北条)にて対陣しました。この時に家康は、廃城となっていた小山城に鳥居元忠の軍勢を入城させ、北条税主力と対陣する新府城の背後を守らせます。そして家康が危惧したとおり、膠着した戦況を打破しようと北条氏は別働隊を編成し、相模から甲斐南東部に入る御坂峠に御坂城を構築し、この地から北条氏忠率いる凡そ一万が甲府盆地目指して進軍を開始します。この時に小山城を守っていた鳥居元忠の軍勢は千五百足らずでしたが(平山優著『天正壬午の乱』)、元忠が兵力を分散した北条勢を確固撃破して、北条勢を撃退します(黒駒合戦)。
 その後徳川家と北条家は和睦して、甲斐は徳川家の領土となるのですが、天正壬午の乱で家康を勝利させた主役の城を新府城とするのならば、小山城は助演の城とでも言うべきでしょうか。


小山城址の碑。碑を読むと明治維新百年記念に建てられた碑だそうですが、小山城と明治維新は何の関係も無いような・・・。

 現在の小山城址は、郭内は整地されており遺構は何も残っていないものの、外郭・空掘・土塁は現存しており、しかも保存状態も良いので見応えがあります。


 郭内の現状。すっかり整地されてしまっていますが、特に公園化されるでもなく、単なる空き地状態です。看板によれば地元の方々のレクリエーションの場になっているらしいですが。




土塁跡。土塁跡は結構高く、郭内から2~3m位の高さがあり、保存状態も良いです。

 


空掘跡。深さもあり幅も広いですし、空掘の外にはまた土塁が在るので、中々堅固な城に思えました。




土塁から甲府方面・石和方面を見て。小山城址の遠景を見てもらえば判るとおり、その名の通り小山(丘?)の頂上に築かれいる小山城からは甲府盆地を一望出来、また鎌倉街道にも位置する小山城の戦略的価値の高さが伝わってくると思います。

 
小山城址の虎口跡付近に建つ馬頭観音。小山城址が鎌倉街道沿いの交通の要所に在った事を実感させてくれます。

 このように郭内の遺構こそ皆無だったものの、外郭や土塁や空掘などは保存状態も良く見応えのある城跡でした。惜しむらくは鳥居元忠が北条勢を撃退した黒駒合戦の古戦場跡の碑が存在しなかった事ですね。確かに小山城は、鳥居元忠が黒駒合戦で勝利した拠点となった城ですが、肝心の黒駒合戦の古戦場跡が残っていないのは寂しいです。
 今回は黒駒合戦の徳川方の拠点となった小山城址を訪れましたが、今度は北条方の拠点となった御坂城址を訪れたいと思います。

訪問日:2012年06月01日


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