東京 DOWNTOWN STREET 1980's

東京ダウンタウンストリート1980's
1980年代初頭に撮影した東京の町並み、そして消え去った過去へと思いを馳せる。

千代田区神田神保町~その二

2011-05-04 11:43:58 | 千代田区
さて、神田神保町の続き。今回は三丁目。

この辺りは江戸時代は武家地だった、大正二年に岩波書店がこの地で成功を収めたことから、書店の町として栄えてきた。近隣に大学や各種学校が置かれていったことも書店街の栄えるバックボーンになったことだろう。ある程度の敷地面積が必要とされる学校が置かれたのには、そこがある程度の規模の武家屋敷であったことも起因している訳である。この周辺も含めて神田駅まで歩いて見ると、大きな武家屋敷のエリアと町のエリアと、今でも江戸時代の影響で町の形が違っていることが分かる。

大正十二年の関東大震災、その地震そのものではなく、火災によってこの町も焼かれた。そして復興して出来た新しい町の面影がこの写真に写っていた町の姿であった。大きな変化は、靖国通りの開通であろう。それまではこの町のメインストリートはすずらん通りであった。

それにしても、この1980年代前半頃にはこれほど色濃く昭和初期の町並が残されていたことには、今更ながら驚きを感じる。今回の神田神保町三丁目辺りは、堀を越えると直ぐに皇居に突き当たるほどの都心部でありながら、この当時は小さな町工場が建ち並び、子供達が路地を駆け抜けていた。

三丁目15番。この角の鰻屋今庄は健在。この写真では入り口の左側がガレージになっていたりするが、今は綺麗に直されていてこの当時よりも良くなっている。通りがかっている小滝橋車庫行きの都営バスが通称美濃部カラーなのも懐かしい。日本近代建築総覧によると、昭和8年築、木造2、佐藤組設計施工とのこと。


三丁目15番。その並び、良い具合の看板建築が並んでいた。三栄商会に山口ゴム商店倉庫。今はこの辺りは集英社のビルが林立している。


三丁目15番と17番の間の路地。その路地を覗いたところ。永井電業という看板が見える。奥が皇居方向になる。ずっと奥に見える大きなビルは九段総合庁舎。


三丁目13番。振り返るとこんな感じ。尚輪社にパン屋の和泉屋、酒屋の福田屋、麻雀千代と並ぶ。今は集英社ビルが建っている。小さな商店が並んでいたことが信じられないような景色になっている。


三丁目19番。更に進んで右手に曲がって奥へと入ったところ。やたらに電信柱に広告が見える「珈琲屋ビバ」がある。左手の冬樹社もビルはあるが会社はない。


三丁目21番と23番の間の路地。珈琲屋ビバの角を曲がって進むと、こんな路地があった。この辺りまで入ってくると日曜日だけにしんと静かだった記憶がある。左側は大山電機工業という会社だった。


三丁目25番。まつや米店に技報堂。同じ位置で振り返るとこんな景色。ずっと道の奥に見えているのは、白山通りを越えたところの東洋経済社。米屋さんの建物は現存している。


三丁目19番から17番に掛けて。同じ通りを少し白山通り方向へ歩いたところ。薬局のむさしの薬品、帝都製本、トーア、パーマのますみ。印刷関係の町工場、薬局、美容室と生活感が溢れている。どこのうちの子供だか、遊んでいる。この辺りも集英社のビルになっていて、面影は全くない。


三丁目17番の中の間。薬局むさしの薬品の横の路地を覗く。向こうに見える「東宝土地」は靖国通りの向こう側に建つビルで、今もある。


三丁目27番と29番の間。これは前のとは逆方向の路地。南保徴章製作所に一ツ橋診療所。奥に見えるのは九段合同庁舎。今は共立学園が右側を占めるようになっていて、左側はビル。休日には人影もない。


三丁目29番。この時点で既に人の気配をあまり感じないのだが、かすれた看板には「いせや」とある。昔から伊勢屋稲荷は...などといったが、この店は何屋だったのだろうか。この場所は今はビルが建っている。


三丁目29番。その辺りを引きのカットで見るとこんな感じ。先の引きのカットとは逆方向。さっきの子供達は相変わらず遊んでいる。


今では神保町のこの辺りはビルが建ち並び、個人商店や町工場などは見あたらない町になった。休日に歩くと閑散としていて、遊んでいる子供の姿など勿論見ることは出来ない。ビルやマンションで生活されている人もおられるものの、かつての町の生活感は感じられない。バブル期には書店街は結束して町を守ったというが、そこから外れたこの辺りは正に草刈場と化していたようである。ひっそりと静まりかえった神保町を歩くと、かつてのこの町の姿を懐かしく思う。

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4 コメント

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神保町3丁目 (流一)
2011-06-06 11:19:51
同じ神保町でも3丁目の靖国通りの南は、1丁目と比べるとなんだか場末のような感じ。飲食店が少なかったのかほとんど写っていませんね。19番地の角にビバという喫茶店が写っているくらいですか。
私は桜通り(の延長?)までは撮影しましたが、その裏までは歩いていないようです。
大山電気の路地から正面に見えているのが春原歯科と神保町3丁目町会事務所。
1986年の住宅地図では、まつや米店の両隣はすでにビルに替わっています。
17番地南側のむさしの薬品の右は、帝都製本。と、いまさら分かってどうなるのかは知りませんが、つい地図と見比べてしまいます。
RE:神保町三丁目 (kenmatsu)
2011-06-06 17:06:49
>流一様
そうですね、三丁目になると印刷関係の町工場があったり、二丁目までとは違う雰囲気でした。さくら通りの延長のところには、パン屋や酒屋がありましたが、裏通りには薬局とパーマ屋くらいでした。
丁寧に見て頂いて、嬉しいです。このブログをやってみて良かったと思います。この当時の写真を整理していて、見ていると、この当時に行っているような気持ちになります。
神三町会 (由美)
2012-08-24 15:23:48
こんにちは、初めまして。

既にこちらにコメントされています「流一さん」から、
このブログを紹介されました。

西神田小学校を取り上げてくださった流一さんのブログをきっかけに、生まれ育った神田神保町に心をはせている2012年の夏です。

私も1960年代の生まれです。
靖国通りには都電が走り、学生運動のお兄さんたちが怖かったり、靖国神社の御霊祭りは今でもたまに訪れます。

一ツ橋診療所は今風にシャレて言えば、「ホームドクター」でした。

そうですね、神保町3は職人が多かったです。
私の祖父も製本職人で、いつも「サザエさん」を製本していました。

幼い頃の当時の写真を見ると、近所のお友達も自分もなんだか戦後間もないのか~と勘違いしそうなほどビンボーくさい様相で(笑)、おじさんたちはステテコ、おばさんたちはアッパパみたいなシミーズみたいな・・・なかんじでしたね。

城南信金の一階に珈琲館が出来て、よく母に連れられて行きました。大人の気分を初めて味わいました。

私は神田錦町で生まれ、神保町で育ちました。
誇りに思います。
RE:神三町会 (kenmatsu)
2012-08-24 20:36:43
>由美様
御覧頂いて、コメントまで戴き、どうもありがとうございます。今ではすっかり変わってしまいましたが、あれ程の都心部でも町工場が並んで子供らが遊ぶ、生活感の漂う町であったことを忘れたくはないものだと思います。
愛着のある故郷である町の姿、楽しんで頂ければ幸いです。

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