「東京・遠く近き」というタイトルのエッセイは、登山関係の評論で知られる近藤信行氏の著作で、丸善から発行されている「学鐙」に1990年から1998年頃に掛けて全105回に渡り連載されていた作品である。氏は1931年深川清澄町の生まれで、早稲田大学仏文から大学院修士課程を修了され、中央公論社で活躍された。その後、文芸雑誌「海」を創刊し、現在は山梨県立文学館館長を務められている。残念ながら書籍化されていないので、その内容を紹介しながら思うところなど書いていこうという趣向である。今回は、浅草の寺町という面の話から、三ノ輪へとすすむ。
「その彼はやがて私たちのグルーブにもどってきた。昭和二十一年の七月、はじめて富士山に登った仲間は、山と自然の魅力にとりつかれて関東とその周辺の山々から中部山岳地帯へとはいっていたのだが、重荷にもへこたれぬ彼の体力は実に頼もしかった。しかし山登りにはいつも危倹がつきまとう。谷川岳一の倉沢で彼はあやうく墜落をまぬがれたことがあったし、冬の穂高入りで、雪庇を踏んで落ちた私は彼に助けられている。往時荘々とはいえ、三十三年のあいだに、そんな記憶は消え去ることがなかった。
等君は大学を出て、銀座の松屋外商部につとめていた。そこでは山とスキーのリーダーをつとめている。法事の席では彼の同僚であった亀田幸男君に会った。晩秋の槍ヶ岳集中登山のとき、北鎌尾根組の私たちは降雪と悪天候のため、二晩閉じこめられていたが、そのとき頂上で待っていてくれた人である。そのうえ、彼は翌目、北鎌を下降して墜落した荷物をとりに行ってくれた。というのは、濃霧にまかれた独標基部でリュックザックをおろしてルートをさがしていたとき、そのひとつが落石にあたって、あっというまに宙にとんでしまったのである。」
こういった話は興味深いものがある。戦後間もない時代というと、混乱期であり、物資欠乏の時代であったという話はよく聞く。その時代を生で知らない身には、厳しい時代に身を縮める様に生きていたのだろうという勝手な想像を仕勝ちだ。だが、こんな風に終戦の翌年には富士山に登り、山登りの魅力に取り憑かれていくということが、そんな時代から始まっていたことを知るのはとても新鮮だ。やはり厳しい時代であっても、戦争という大きな闇の時代を通りぬけていった後の時代であったからこそ、苦しい時代であろうとも先に希望を持ち、生活に楽しみを見出すことが出来たのだとも思える。
「そんな昔話をしていたが、散会して国際通りへ出たとき、亀田君はちょっと松屋をのぞいてくると言った。仕事熱心だとおもったが、実は街角で意外なことをきいたのである。
「松屋の屋上や六、七階にスポーツランドがあったでしょ。あれはうちのおやじが作ったんですよ。」
そこは子供のころの私にとって、もっとも楽しい遊び場であった。屋上には飛行船をかたどった乗物がある。隅田川を眼下にみおろすことができた。屋内には電気自動車があったし、くるくるまわる円板やはげしく左右する鉄板があり、それに乗って遊ぶことができた。鬼神の大きな模型があって、そのヘソはポール投擲の目印だった。素焼のポール球をうまくヘソにあてると、球は砕け散って、鬼は真っ赤になって怒りだす。両眼は電光でらんらんと輝いて鬼は金棒を何度も振り上げるのである。それがおもしろくて、子供たちは玉投げに熟中するのだった。日本橋、銀座のデバートにはない趣向がこらされていた。
「おやじはいろんなことを思いっついたらしいんですね。たとえぱ松屋から対岸のビール工場のビヤホールヘ橋を架けるとか……」
こんなぐあいに亀田君の口をついて出た言葉に、私はびっくりしたのである。」
浅草の松屋の屋上には、特別な思い入れを持った人が多いという話は聞いたことがある。さらに言えば、今ではデパートの屋上という言葉の意味合いが昔とは変わっているので、以前の状況を知らない世代には、一言では通じないということもあるようだ。改めていえば、上記の様な子供を対象にした屋上遊園というのは、高度成長期にも各デパートの屋上にあったものだった。私の記憶でも、池袋にあった三越や西武にもあったし、銀座や日本橋のデパートでも似たようなことになっていたと思う。バブル期頃には下火になり始めていて、子供向けの施設が撤去されて、屋上にペット売り場や園芸用品の売り場が出来る様になっていったのだと思う。昭和40年代の前半くらいだと、池袋の三越の屋上から板橋の我が家が見えたと母が話していた。そういったスタイルは、浅草の松屋から始まって他へと拡がって行ったものなのだろう。
鬼の人形のへそにボールを当てると、目がらんらんと輝いて、サイレンがウーウーと鳴ってというのは、かなり具体的にイメージがあって知っているのだが、その実物を見たことがあまりないことに気が付いた。何で知っているんだろうかと思うのだが、昔から知っていたものとしか言い様がない。それでいて、その実物で遊んだことなど無いのだが。
浅草松屋、東武浅草駅。

「しかし、街の形成以来、かわらぬものがある。それはなんといっても寺町であるということだ。かたちはかわり、土地ほせばめられたとはいえ、数えきれぬほどの寺が建ちならんでいる。表通りから裏手へはいれぱ、閑静で不気味なほどの寺町である。小山等君の法事のあった松が谷といってもピンとこないかもしれない。合羽橋通りの西側の旧松葉町のこと、そこは昭和四十年の町名変更で、入谷の一部と合併して松が谷となった。浅草、下谷の寺町の一角にあたる。いまの東上野、元浅草、松が谷、寿は、かつて明暦の大火のあと、神田、京橋、馬喰町をはじめ各地の寺が移転して新寺町と俗称されたところだった。」
浅草寺は、東京でもっとも古い歴史を持つ寺である。そして、面白いのはそれだけではなく、浅草が浅草寺を中心に出来上がっていく中で、宗派までも越えた江戸という町の仏教のデパートのような町に浅草がなったと言うのも面白い。かつては、今よりも更に多くの寺が浅草には集中していた。我が家の菩提寺は今は西東京市にあるのだが、ここも震災前までは浅草にあったという。上野車坂町に住んでいた祖先が浅草の寺に墓を作り、それが今は西東京へ移って受け継がれているというわけである。
「松葉町の例をとってみても、おもしろい変遷がある。江戸初期には三十三間堂が建てられていた。元禄十一年の火事で焼失したため、それは深川に移って再建されたのだが、その跡地は寺院の代地にあてられている。門前町がひらけ、明暦大火のあとにまた寺がふえて三十に達したといわれる。
その松葉町でおもいおこすのは、谷崎潤一郎が「秘密」(明治四十辺年)の主人公をそこに住まわせたことである。彼は寺町のうちでも「一番奇妙な町であつた」と書いている。「六区と吉原を鼻先に控へてちよいと横町を一つ曲つた所に、淋しい、廃れたやうな区域を作つてゐるのが私の気に入つて了つた」というのだが、そこの真言宗の寺の一室に隠遁して、好奇心と妄想をたくましくし、女装・変身することによって、強烈な性的官能をよびさます。その設定がおもしろい。
「丁度瀬の早い渓川のところどころに、澱んだ渕が出来るやうに、下町の雑沓する巷と巷の間に挟まりながら、極めて特殊の場合か、特殊の人でもなげればめつたに通行しないやうな閑静な一郭が、なければならないと思つてゐた。」
そういう場所が松葉町だった。彼は寺の一室にこもって西洋の推理小説やお伽噺、さらにセクソロジーの本を耽読、寺にある地獄極楽図とか涅槃像をみつめて、悪と幻想の世界にひたる。三味線堀の古着屋で女物の小紋縮緬や、長儒枠、羽織を買いこみ、女装して夜な夜な六区の繁華街に出没する。潤一郎好みの悪と歓楽の深みに入りこむ男が描かれるが、その舞台が松葉町であり浅草一帯である。」
三十三間堂跡には、今は台東区の建てた案内板があった。
「浅草三十三間堂跡 台東区松が谷二丁目十四番一号
『文政町方書上』によると、寛永十九年(一六四二)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。堂建設に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。元禄十一年(一六九八)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。
平成七年三月 台東区教育委員会」

そして、この町も震災、戦災で焼失しており、町の風景も大きく変わっているのだが、谷崎が描いた様な趣を探してみた。

この寺は真言宗ではなく、日蓮宗の本覚寺。

ちょうど夕暮れ時だった。今の松が谷の街並みである。

「浅草生まれ、浅草育ちでなくとも、浅草のもつ活力と人間くささに魅力を感じて筆をとった文学者は多い。浅草とその周辺の寺でもっとも印象ぶかいは、永井荷風がよく訪ねた三ノ輸の浄閑寺であろう。岩野喜久代さんは荷風によって、浄閑寺は文学的な寺になったと書いている。
彼女は大正十四年の秋、浄閑寺の寺庭婦人となった人である。翌年、夫が大東出版社を創立するとともに浄閑寺経営の慈光学園で隣保事業に従事している。与謝野鉄幹・昂子夫妻に師事した歌よみであった。平田華蔵、高楠順次郎らの薫陶をうけた仏教伝道者であった。その生涯は自伝、『大正・三輸浄閑寺』(昭和五十三年、青蛙房)にくわしい。荷風にかんする一節をひくと、
「永井荷風が明治三十一、二年頃の浄閑寺を描写した一文が残っているが、それをよむと零落、退廃美に年少ロマンチックな心情をゆすられた荷風の好みに、ぴったり適った寺であったらしい。
まず荒廃腐朽した大きからぬ堂宇がある。小さな娼妓の墓石が散乱している。日の射さぬ本堂裏手の樹立ちの下は落葉が積もって陰湿の気に満ちている。その中の大榎二本の傍らに石垣を積んだ塚があって、新吉原無縁墓と刻んである。また吉原から土手八丁を伝って、浄閑寺門前に到る田園風景も精綱に記述されている。すべては荷風好みの場末の目立たぬ寺と、貧しい人友の肩を寄せ合う新開地風景である。」
岩野喜久代さんが入ったころ、震災では焼けのこった寺だったが、あたりの風景は大きく変っている。吉原土手には人家が立ち並び、田園も柳並木もなかった。しかし彼女は荷風の描写をふまえ、寺の生活、佳職の話をとおして浄閑寺を語る。自伝としての一冊のなかに浄閑寺をみごとに浮かび上らせている。」
この大正っ子シリーズは、このブログでも何度も取り上げてきているシリーズである。新吉原に関連しているのは、この「大正・三輪浄閑寺」の他に波木井皓三著「大正・吉原私記」がある。広島で生まれた岩野さん、そして与謝野夫妻に支持した歌人でもある彼女と、新吉原の大籬のことして生まれ育った波木井氏の見た景色の違いを感じるだけでも面白いと思う。波木井氏が育った明治末から大正初期に掛けては、まだ田園風景が残されていた様だ。幼い頃の記憶として、新吉原から田園越しに遙か彼方の土手上を走る常磐線の汽車が見えたことが書かれている。吉原土手に人家が建ち並び、田園が姿を消していったのは、そこから大正末に掛けての間のことというわけである。
この辺りの吉原とか、そこで暮らした人たちへの眼差しの有り様の違いというのは、それぞれの人の置かれた立場によって随分と異なるものだ。そのことを理解した上で、それぞれを見ていくことで受け取れるものが違ってくる様に思う。
浄閑寺山門。

「吉原遊廓の楼主たちの檀那寺は上野寛永寺とか青松寺とか、本願寺の別院のようなところである。岩野さんによると、彼らは一種の貴族」だから投込寺などには眼もくれなかったと言う。ところが荷風はここに葬られた遊女の生涯に深い想いを寄せている。彼は『夜の女界』に「此の無縁塚に葬られる娼婦は、不幸の中にもよくよく不幸なもので、多くは楼主の菩提地へ葬られるのであるが、其さへかなはず、遠い国からは、引取手が来ないと云ふ、捨てるにも捨てられない死骸が、かくして、夜の引明けに、青楼の非常口から、そつと、担ぎだされて、此処に骨と変はらせられて了ふのだと云ふ事である」と書いたのである。
荷風没後、昭和三十八年になって、浄閑寺には荷風詩碑が建てられた。毎年命日の四月三十日になると、多くの荷風愛読者があつまってくる。その日の講演記録「荷風忌や」という冊子も出された。岩野さんは、この詩碑は俗にいう「ひょううたんから駒が出た」碑だと書いている。」
今も、浄閑寺は静かに三の輪に佇んでいる。古くからの山門はそのままだが、本堂や庫裏は新しく綺麗なものに建て直されている。南千住辺りのお寺を巡ると、新吉原の楼主の墓地があったりする。たしかに、彼らが一種の貴族というのはそういった面を取ればそうとも言えるというもので、投げ込み寺には目もくれなかったというのは、やや僻みにも聞こえる。彼らの肩を持つつもりはないのだが。墓地は横手から直ぐに入っていけて、狭い通路を肩をすぼめるようにして歩いて行く。本堂の横に荷風の詩碑はあった。そして、その向かいには新吉原無縁仏の供養塔が建っている。そこに立っているだけで、何ともいえない気持になる空間だった。長い時間のあいだ、様々な人がここに立って思いを馳せた。荷風だってここに立ったのだし、前記した波木井皓三氏もここに立っている。その胸中を去来したものを想像すると、やはり言葉にならない思いを感じる。田園風景や柳並木も失われていったが、今は新吉原自体もかつての面影など何も残されてはいない。かろうじて、町割の形にその面影を残しているのに過ぎない。
荷風の詩碑。

その碑文。

そして、新吉原無縁仏の供養塔。

境内に聳える樹木。
「その彼はやがて私たちのグルーブにもどってきた。昭和二十一年の七月、はじめて富士山に登った仲間は、山と自然の魅力にとりつかれて関東とその周辺の山々から中部山岳地帯へとはいっていたのだが、重荷にもへこたれぬ彼の体力は実に頼もしかった。しかし山登りにはいつも危倹がつきまとう。谷川岳一の倉沢で彼はあやうく墜落をまぬがれたことがあったし、冬の穂高入りで、雪庇を踏んで落ちた私は彼に助けられている。往時荘々とはいえ、三十三年のあいだに、そんな記憶は消え去ることがなかった。
等君は大学を出て、銀座の松屋外商部につとめていた。そこでは山とスキーのリーダーをつとめている。法事の席では彼の同僚であった亀田幸男君に会った。晩秋の槍ヶ岳集中登山のとき、北鎌尾根組の私たちは降雪と悪天候のため、二晩閉じこめられていたが、そのとき頂上で待っていてくれた人である。そのうえ、彼は翌目、北鎌を下降して墜落した荷物をとりに行ってくれた。というのは、濃霧にまかれた独標基部でリュックザックをおろしてルートをさがしていたとき、そのひとつが落石にあたって、あっというまに宙にとんでしまったのである。」
こういった話は興味深いものがある。戦後間もない時代というと、混乱期であり、物資欠乏の時代であったという話はよく聞く。その時代を生で知らない身には、厳しい時代に身を縮める様に生きていたのだろうという勝手な想像を仕勝ちだ。だが、こんな風に終戦の翌年には富士山に登り、山登りの魅力に取り憑かれていくということが、そんな時代から始まっていたことを知るのはとても新鮮だ。やはり厳しい時代であっても、戦争という大きな闇の時代を通りぬけていった後の時代であったからこそ、苦しい時代であろうとも先に希望を持ち、生活に楽しみを見出すことが出来たのだとも思える。
「そんな昔話をしていたが、散会して国際通りへ出たとき、亀田君はちょっと松屋をのぞいてくると言った。仕事熱心だとおもったが、実は街角で意外なことをきいたのである。
「松屋の屋上や六、七階にスポーツランドがあったでしょ。あれはうちのおやじが作ったんですよ。」
そこは子供のころの私にとって、もっとも楽しい遊び場であった。屋上には飛行船をかたどった乗物がある。隅田川を眼下にみおろすことができた。屋内には電気自動車があったし、くるくるまわる円板やはげしく左右する鉄板があり、それに乗って遊ぶことができた。鬼神の大きな模型があって、そのヘソはポール投擲の目印だった。素焼のポール球をうまくヘソにあてると、球は砕け散って、鬼は真っ赤になって怒りだす。両眼は電光でらんらんと輝いて鬼は金棒を何度も振り上げるのである。それがおもしろくて、子供たちは玉投げに熟中するのだった。日本橋、銀座のデバートにはない趣向がこらされていた。
「おやじはいろんなことを思いっついたらしいんですね。たとえぱ松屋から対岸のビール工場のビヤホールヘ橋を架けるとか……」
こんなぐあいに亀田君の口をついて出た言葉に、私はびっくりしたのである。」
浅草の松屋の屋上には、特別な思い入れを持った人が多いという話は聞いたことがある。さらに言えば、今ではデパートの屋上という言葉の意味合いが昔とは変わっているので、以前の状況を知らない世代には、一言では通じないということもあるようだ。改めていえば、上記の様な子供を対象にした屋上遊園というのは、高度成長期にも各デパートの屋上にあったものだった。私の記憶でも、池袋にあった三越や西武にもあったし、銀座や日本橋のデパートでも似たようなことになっていたと思う。バブル期頃には下火になり始めていて、子供向けの施設が撤去されて、屋上にペット売り場や園芸用品の売り場が出来る様になっていったのだと思う。昭和40年代の前半くらいだと、池袋の三越の屋上から板橋の我が家が見えたと母が話していた。そういったスタイルは、浅草の松屋から始まって他へと拡がって行ったものなのだろう。
鬼の人形のへそにボールを当てると、目がらんらんと輝いて、サイレンがウーウーと鳴ってというのは、かなり具体的にイメージがあって知っているのだが、その実物を見たことがあまりないことに気が付いた。何で知っているんだろうかと思うのだが、昔から知っていたものとしか言い様がない。それでいて、その実物で遊んだことなど無いのだが。
浅草松屋、東武浅草駅。

「しかし、街の形成以来、かわらぬものがある。それはなんといっても寺町であるということだ。かたちはかわり、土地ほせばめられたとはいえ、数えきれぬほどの寺が建ちならんでいる。表通りから裏手へはいれぱ、閑静で不気味なほどの寺町である。小山等君の法事のあった松が谷といってもピンとこないかもしれない。合羽橋通りの西側の旧松葉町のこと、そこは昭和四十年の町名変更で、入谷の一部と合併して松が谷となった。浅草、下谷の寺町の一角にあたる。いまの東上野、元浅草、松が谷、寿は、かつて明暦の大火のあと、神田、京橋、馬喰町をはじめ各地の寺が移転して新寺町と俗称されたところだった。」
浅草寺は、東京でもっとも古い歴史を持つ寺である。そして、面白いのはそれだけではなく、浅草が浅草寺を中心に出来上がっていく中で、宗派までも越えた江戸という町の仏教のデパートのような町に浅草がなったと言うのも面白い。かつては、今よりも更に多くの寺が浅草には集中していた。我が家の菩提寺は今は西東京市にあるのだが、ここも震災前までは浅草にあったという。上野車坂町に住んでいた祖先が浅草の寺に墓を作り、それが今は西東京へ移って受け継がれているというわけである。
「松葉町の例をとってみても、おもしろい変遷がある。江戸初期には三十三間堂が建てられていた。元禄十一年の火事で焼失したため、それは深川に移って再建されたのだが、その跡地は寺院の代地にあてられている。門前町がひらけ、明暦大火のあとにまた寺がふえて三十に達したといわれる。
その松葉町でおもいおこすのは、谷崎潤一郎が「秘密」(明治四十辺年)の主人公をそこに住まわせたことである。彼は寺町のうちでも「一番奇妙な町であつた」と書いている。「六区と吉原を鼻先に控へてちよいと横町を一つ曲つた所に、淋しい、廃れたやうな区域を作つてゐるのが私の気に入つて了つた」というのだが、そこの真言宗の寺の一室に隠遁して、好奇心と妄想をたくましくし、女装・変身することによって、強烈な性的官能をよびさます。その設定がおもしろい。
「丁度瀬の早い渓川のところどころに、澱んだ渕が出来るやうに、下町の雑沓する巷と巷の間に挟まりながら、極めて特殊の場合か、特殊の人でもなげればめつたに通行しないやうな閑静な一郭が、なければならないと思つてゐた。」
そういう場所が松葉町だった。彼は寺の一室にこもって西洋の推理小説やお伽噺、さらにセクソロジーの本を耽読、寺にある地獄極楽図とか涅槃像をみつめて、悪と幻想の世界にひたる。三味線堀の古着屋で女物の小紋縮緬や、長儒枠、羽織を買いこみ、女装して夜な夜な六区の繁華街に出没する。潤一郎好みの悪と歓楽の深みに入りこむ男が描かれるが、その舞台が松葉町であり浅草一帯である。」
三十三間堂跡には、今は台東区の建てた案内板があった。
「浅草三十三間堂跡 台東区松が谷二丁目十四番一号
『文政町方書上』によると、寛永十九年(一六四二)十一月二十三日、弓師備後が浅草において、幕府から六千二百四十七坪八合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。堂建設に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって、堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。元禄十一年(一六九八)九月六日、世に「勅額火事」と呼ぶ江戸大火が起こり、三十三間堂も焼失。跡地は公収された。同十四年に替地を給され、三十三間堂は深川に移転して再建。以後、両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。矢先稲荷神社は的場に隣接していたのにちなみ「矢先」の名が付されたという。
平成七年三月 台東区教育委員会」

そして、この町も震災、戦災で焼失しており、町の風景も大きく変わっているのだが、谷崎が描いた様な趣を探してみた。

この寺は真言宗ではなく、日蓮宗の本覚寺。

ちょうど夕暮れ時だった。今の松が谷の街並みである。

「浅草生まれ、浅草育ちでなくとも、浅草のもつ活力と人間くささに魅力を感じて筆をとった文学者は多い。浅草とその周辺の寺でもっとも印象ぶかいは、永井荷風がよく訪ねた三ノ輸の浄閑寺であろう。岩野喜久代さんは荷風によって、浄閑寺は文学的な寺になったと書いている。
彼女は大正十四年の秋、浄閑寺の寺庭婦人となった人である。翌年、夫が大東出版社を創立するとともに浄閑寺経営の慈光学園で隣保事業に従事している。与謝野鉄幹・昂子夫妻に師事した歌よみであった。平田華蔵、高楠順次郎らの薫陶をうけた仏教伝道者であった。その生涯は自伝、『大正・三輸浄閑寺』(昭和五十三年、青蛙房)にくわしい。荷風にかんする一節をひくと、
「永井荷風が明治三十一、二年頃の浄閑寺を描写した一文が残っているが、それをよむと零落、退廃美に年少ロマンチックな心情をゆすられた荷風の好みに、ぴったり適った寺であったらしい。
まず荒廃腐朽した大きからぬ堂宇がある。小さな娼妓の墓石が散乱している。日の射さぬ本堂裏手の樹立ちの下は落葉が積もって陰湿の気に満ちている。その中の大榎二本の傍らに石垣を積んだ塚があって、新吉原無縁墓と刻んである。また吉原から土手八丁を伝って、浄閑寺門前に到る田園風景も精綱に記述されている。すべては荷風好みの場末の目立たぬ寺と、貧しい人友の肩を寄せ合う新開地風景である。」
岩野喜久代さんが入ったころ、震災では焼けのこった寺だったが、あたりの風景は大きく変っている。吉原土手には人家が立ち並び、田園も柳並木もなかった。しかし彼女は荷風の描写をふまえ、寺の生活、佳職の話をとおして浄閑寺を語る。自伝としての一冊のなかに浄閑寺をみごとに浮かび上らせている。」
この大正っ子シリーズは、このブログでも何度も取り上げてきているシリーズである。新吉原に関連しているのは、この「大正・三輪浄閑寺」の他に波木井皓三著「大正・吉原私記」がある。広島で生まれた岩野さん、そして与謝野夫妻に支持した歌人でもある彼女と、新吉原の大籬のことして生まれ育った波木井氏の見た景色の違いを感じるだけでも面白いと思う。波木井氏が育った明治末から大正初期に掛けては、まだ田園風景が残されていた様だ。幼い頃の記憶として、新吉原から田園越しに遙か彼方の土手上を走る常磐線の汽車が見えたことが書かれている。吉原土手に人家が建ち並び、田園が姿を消していったのは、そこから大正末に掛けての間のことというわけである。
この辺りの吉原とか、そこで暮らした人たちへの眼差しの有り様の違いというのは、それぞれの人の置かれた立場によって随分と異なるものだ。そのことを理解した上で、それぞれを見ていくことで受け取れるものが違ってくる様に思う。
浄閑寺山門。

「吉原遊廓の楼主たちの檀那寺は上野寛永寺とか青松寺とか、本願寺の別院のようなところである。岩野さんによると、彼らは一種の貴族」だから投込寺などには眼もくれなかったと言う。ところが荷風はここに葬られた遊女の生涯に深い想いを寄せている。彼は『夜の女界』に「此の無縁塚に葬られる娼婦は、不幸の中にもよくよく不幸なもので、多くは楼主の菩提地へ葬られるのであるが、其さへかなはず、遠い国からは、引取手が来ないと云ふ、捨てるにも捨てられない死骸が、かくして、夜の引明けに、青楼の非常口から、そつと、担ぎだされて、此処に骨と変はらせられて了ふのだと云ふ事である」と書いたのである。
荷風没後、昭和三十八年になって、浄閑寺には荷風詩碑が建てられた。毎年命日の四月三十日になると、多くの荷風愛読者があつまってくる。その日の講演記録「荷風忌や」という冊子も出された。岩野さんは、この詩碑は俗にいう「ひょううたんから駒が出た」碑だと書いている。」
今も、浄閑寺は静かに三の輪に佇んでいる。古くからの山門はそのままだが、本堂や庫裏は新しく綺麗なものに建て直されている。南千住辺りのお寺を巡ると、新吉原の楼主の墓地があったりする。たしかに、彼らが一種の貴族というのはそういった面を取ればそうとも言えるというもので、投げ込み寺には目もくれなかったというのは、やや僻みにも聞こえる。彼らの肩を持つつもりはないのだが。墓地は横手から直ぐに入っていけて、狭い通路を肩をすぼめるようにして歩いて行く。本堂の横に荷風の詩碑はあった。そして、その向かいには新吉原無縁仏の供養塔が建っている。そこに立っているだけで、何ともいえない気持になる空間だった。長い時間のあいだ、様々な人がここに立って思いを馳せた。荷風だってここに立ったのだし、前記した波木井皓三氏もここに立っている。その胸中を去来したものを想像すると、やはり言葉にならない思いを感じる。田園風景や柳並木も失われていったが、今は新吉原自体もかつての面影など何も残されてはいない。かろうじて、町割の形にその面影を残しているのに過ぎない。
荷風の詩碑。

その碑文。

そして、新吉原無縁仏の供養塔。

境内に聳える樹木。

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